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2011-09-28up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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野田首相は、財界とアメリカの…

 時は1971年3月29日、ところは国会の参議院予算委員会。ここでとんでもない発言があり、委員会は大紛糾。
 「政治資金改正法」の審議の際、質問に立った青島幸男参院議員(二院クラブ)が、時の総理大臣・佐藤栄作氏に対し「あなたは財界の男めかけだ!」と噛みついた。憮然として顔をしかめる佐藤首相。「あなたの政策は財界のご機嫌伺いばかりじゃないか」と畳み掛ける青島議員。当然、委員会室は大騒ぎ。

 “男めかけ”…。今ではとても口にできない言葉だろう。言われた本人が不快なのは当然だが、女性差別(?)として問題化するかもしれない。いや、当時だって大いに物議を醸したのだ。
 自民党は激高し懲罰動議を提出。だが世論は逆に青島氏に拍手喝采。マスメディアも、どちらかといえば青島氏の擁護に回った。すったもんだの挙句、この言葉を議事録から「品位に欠ける」として削除する、ということでウヤムヤのうちに一件落着。
 だがそれは、まさに青島氏の思う壺だった。
 青島幸男氏は、放送作家からテレビタレント、そして直木賞作家、参院議員を経て東京都知事も務めたほどの、口八丁手八丁の多彩な才能を持つ人物。自分の発言がどんな結果をもたらすか、分からぬはずはない。十分計算した上での発言だったに違いない。
 「政治資金」、つまり政治献金などでの財界と自民党の癒着ぶりが国民の批判を浴びているさ中、品位の問題はあるにせよ、耳を疑うほどのどぎつい言葉によって国民の目を醒まさせようとした、マスメディアの特性を知りぬいた人物の練りに練った策略だったのだろう。
 「死の町」と「放射能つけちゃう」発言(これは事実かどうか不明のまま)で、あっさりと辞任に追い込まれた大臣と比べると、まさに隔世の感がある。その当時は、まだマスメディアが青島発言を容認するような、つまり、報道機関が権力監視の役割を果たそうとする気概を持っていたからかもしれない。

 さて、時は移り2011年。現在はどうか。
 あの3.11大震災、そして不幸にも福島原発の大爆発と放射性物質の大量放出による国土や海洋の大汚染があり、現在も放射性物質の放出は続いている。しかも、原発事故の収束は、いつになるかまったくメドさえ立たない。少なくとも、数十年、いや数百年単位の時間が必要だと、専門家は異口同音。事態の進展はほとんど見られないのが現状だ。
 ところが、野田佳彦首相の原子力発電に対する姿勢は、ものの見事に自民党時代の原子力政策への“先祖返り”だ。そのことへのマスメディアからの批判らしい批判は、とんと聞こえてこない。「隔世の感がある」と書いたのはそういうことだ。報道機関の権力監視の意義はどこへ行ったか。「社会の木鐸」なんて言葉はもはや死語だろうけれど。

 9月2日の首相就任会見で、野田首相は何と言ったか。
 「老朽化して寿命が来た原発は廃炉にする。新設や増設はもう無理だろう。それが基本的な流れだと思う」。そう言ったではないか。やがて「脱原発依存」の方向へ進むと表明したのではなかったか。
 だが野田首相、少しずつ少しずつ言葉を変化させていく。「ちょっとだけよ~」のカトちゃんじゃあるまいし、一国の総理大臣ともあろうものの態度とも思えぬ。
 変化の第一弾は「新増設は客観的な情勢としては困難な状況、と言っただけ」と、妙な言い訳。では、客観的な情勢が変化すれば新増設も認める、ということになるのか?
 そして、ニューヨーク国連本部では「原発の安全性を世界最高水準へ高め、原子力利用を模索する世界の国々の関心にしっかりと応えていく」と演説した。その心は、「安全性確保のできた原発を、各国へ輸出していく姿勢に変わりはない」ということ。
 自国の原発事故の後始末も付けられないくせに、他国へ原発を売りつける? そこのところの整合性が、野田首相の頭の中でどう取れているのか、僕にはさっぱり分からない。分かる人がいたら説明してほしい。
 なぜ、こんな野田首相の変節を、マスメディアは真っ向から批判しないのか。ファーストレディがどうのこうのとはしゃいでいる場合ではないだろうに。

 国連本部での23日(日本時間24日未明)の野田首相の演説は、ほとんど耳を傾ける者のいないザワザワとした雰囲気の中で行われた。直前に行われたパレスチナ自治政府アッバス議長の「パレスチナ国家の国連加盟申請演説」への熱狂的支持の余韻が議場に渦巻いており、野田首相演説はわりを食った形になったのだ。
 だが、なぜ「フクシマの国から来た首相」の演説が関心を引かなかったのか。人類にとって未曾有(懐かしい言葉だ)の大災厄に苦しみ、原発事故の収束さえ覚束ない国の首相の悲痛(であるはず)な訴えが、なぜ世界各国の関心と共感を呼ばなかったのか。
 普通に考えれば、会場内はシーンと水を打ったような静けさになり、野田首相の切々たる訴えに耳を傾けるのが当然だったはずだ。だが現実には、会場内は立ち歩く人々や私語が充満し、ほとんど誰の耳にも、野田首相の演説など届かなかったのだ。
 なぜ、そんなことになったのか?
 答えは簡単だ。野田首相が何を言うのか、すでに世界各国代表は知っていたからだ。そしてそれが、決して「福島原発事故という人災への痛切な反省」ではなく、ましてや「脱原発」でも「原子力政策の転換」でも「再生可能エネルギーへのシフトチェンジ」でもないことを、事前に知っていたからなのだ。
 人類全体の財産であるはずの海を放射能汚染し、そのことへの深刻な謝罪もなく、旧態依然の原発維持…。人類未体験の過酷事故に対する、国家としての痛苦な反省が聞けると思っていた人たちは、何も変わらぬ日本の姿勢に呆れ、鼻でフフン、「そんな演説は聞く必要もあるまい」と思ったのではないか。
 ではなぜ、各国が野田首相の演説内容を事前に知っていたのか。

 日本の首相は日本のマスメディアを信用していないらしい。何か重要なことがあると、なぜか日本メディアよりも先に、海外メディアのインタビューで本音を洩らす。
 今回も、野田首相は米紙「ウォールストリート・ジャーナル」の取材を受け、次のように語っていた(日本版9月21日)。

WSJ(ウォールストリート・ジャーナル、以下同じ): 原発依存度をできるだけ下げていくと言っているが、イメージ的には、どこまで下げていけるのか。

野田首相: 脱原発依存は、国民のコンセンサスができていると思う。原発にできるだけ、可能な限り依存しない社会を作っていく。一方で、省エネ型の社会をいつまでにどうやって作れるか。あるいは再生エネルギーをどこまで大々的に普及できるのか、それを計算していかなくてはならない。その辺の需給環境をよく見通した計画を来年の夏までに作ることになっている。それが具体化の第一歩だ。

WSJ: 原発依存をゼロにすることは可能か。

野田首相: ゼロにするかどうかも含めてだ。やはり、日本は例えばゼロにするとすれば、他の代替エネルギーの開発が相当進んでいなければいけない。そこまでいけるかどうかも含め、いま予断をもって言える段階ではない。

WSJ: 20日の毎日新聞の世論調査では、国民投票をしたほうがよいという人が、65%いた。それについてはどう思うか。

野田首相: 国民が安心できる、不安を取り除くエネルギーのベストミックスを作っていく上で、国民投票というより、国民の幅広い議論を喚起しながら、そして、意見を集約していくことが必要だ。

WSJ: 投票はなくてもいいということか。

野田首相: 国民各層が参加できる仕組みをどう作るかだ。

WSJ: いま停止している原発が多数あるが、この再稼動はいつごろになる見通しか。

野田首相:ストレステストを含めて、より安全性のチェックをしながら、当然のことながら、原発立地県、地域の理解を得ることが大前提。そういう一連のプロセスをたどりながら、再稼動できるものは再稼動していく。新規の場合は基本的に困難だと思う。ただし、もうすでに着工して、(完成まで)90数%というものもあるので、個々の事案に則して対応していきたい。

WSJ: 地域の反対があるときは、現在ある原発も再稼動はしないのか。

野田首相: 理解を得なければいけないことはあると思う。説明をしながら。最終的に反対の意思が強いかどうかは別として、安全性の確保とか、国が責任を持つといった説明をしながら理解を求めていくという作業は必要だ。

WSJ: 再稼動はいつごろまでにできたら良いのか。

野田首相: これは需給関係もある。今年の夏は乗り越えて、今年の冬も大丈夫だろうと思う。来年の春以降、夏に向けて、やはり再稼動できるものは再稼動していかないと、まさに電力不足になった場合には、日本経済の足を引っ張るということになるので、そこはきちっとやっていかなくてはいけない。

WSJ: 今年大丈夫だったから、来年も(原発の稼働率が低いままでも)大丈夫ではないかという声をよく聞くが。

野田首相: そういうことはあり得ない。(後略)

 引用が長くなったが、野田首相は慎重に言葉を選んではいるが、本音がチラチラと洩れていることにお気づきだろう。
 まず、原発の可否についての国民投票は「国民各層が参加できる議論の仕組み」などと逃げる。要するに、やらないと言っているだけ。では、どこにいつどのような場を設けるのかは、言わない。
 再稼動条件としての立地自治体の理解を強調するが、それとて「理解を得なければいけないが、最終的には反対の意思が強いかどうかは別」と言う。つまり、地元がいくら反対しても「やるときはやる」と言っているに等しい。「安全性の確保」には「国が責任を持つ」と言うのだが、では福島原発には国はどういう責任を持ってきたというのか。デタラメにもほどがある。
 そしてついに、「来年の夏に向けて、電力不足になると日本経済の足を引っ張る」ので再稼動する、と言明。これこそ本音だろう。しかし「今年の夏は乗り越えて、今年の冬も大丈夫だろうと思う」と、その前段で述べている。語るに落ちる、とはこのことだ。今年乗り越えられたのなら、来年の夏も乗り越えられるように努力すべきだろう。そうすることによって、この国の新しい産業のあり方を模索していくのが、為政者としての役割ではないのか。
 そのような政治哲学は、まるでお持ちでないらしい。財界の「電力不足になれば企業の海外移転も」という言い方を、“正心誠意”なぞっているだけだ。
 WSJの「今年大丈夫だったら、来年も…」という問いかけに「そういうことはあり得ない」と、にべもない。思考方法が偏頗だ。というより、深い思考は苦手な方だとお見受けした。
 最終的には、今造りつつある原発は動かす、とも言う。「個々の事案に則して」などと言葉を濁しているが、建設中の島根原発3号機や大間原発などを念頭に置いていることは明白だ。どこをどう切っても、出てくるのは「原発推進」の4文字だけ。
 これほど、身も蓋もないインタビューも珍しい。かつての言葉をほぼ全面的に覆し、まるで恥じるところがない。
 こんなインタビュー内容を知っていたとしたら、誰が真面目に野田首相の演説など聞こうと思うか。少なくとも、僕なら席を立ってどこかへ行ってしまうだろう。時間の無駄だ。国連の各国代表の反応は、今の日本の状況を、きちんと見据えている。

 野田首相、さらにオバマ大統領との会談で「辺野古移設」の確約を迫られた。それに対し「日米合意の遵守」を明言。そして相変わらず「日米同盟が日本外交の基軸との信念はゆるぎない」と述べている。
 前の法務大臣柳田稔氏が「二つの言葉さえ覚えておけば、国会答弁なんかどうにでもなる」という発言でクビになったことがあったけれど、なに、首相だって「日米同盟が日本外交の基軸」を繰り返していれば、少なくとも外交は務まる。これまでのどの首相も、そう繰り返すだけで何ひとつアメリカと対等に渡り合おうとしなかった。今回も同じ。
 またしても、沖縄は置き去り。とりあえず「自由に使える一括交付金3千億円」のアメを与えることで、なんとか沖縄をなだめようとしている。「基地問題とは関係のない交付金」と政府は言っているが、誰が見たってそんなバカなことはない。「辺野古・新米軍基地」建設への見返りであることは明白。ということは、もし辺野古移設がうまく運ばなければ、このカネはやらないよ、ということになる。
 原発と米軍基地問題が相似形であるのは、そういうことだ。

 僕はこのコラムの最初で、青島幸男氏の爆弾発言について触れた。僕はむろん、青島氏ほどの才能はないし、彼ほどの地位も発言力も影響力も持っていない。だが、青島氏が佐藤首相に向かって投げつけたように、僕も野田首相に、言いたかったのだ。
 「野田首相よ、あなたは財界とアメリカの…」と。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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