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2011-08-10up

時々お散歩日記(鈴木耕)

57

財界人という名の“軍人”たち

 「山口さんちのつとむくん このごろなんだかヘンよ どうしたのかな~」のつとむくんじゃないけれど、僕もこのごろなんだかヘン。頭の中が放射能汚染されたみたいで、思考が一方通行。汚染度も上がりっぱなし。これじゃいけない、なんとか脳内を“除染”しなければ。

 というわけで、数日間だけ旅に出た。海辺の町へ~(ヴィレッジ・シンガーズの『バラ色の雲』にそんな歌詞があったなあ…、古いけれど)。
 南伊豆の、とある小さな美しい浜辺(有名にしたくないので地名はあえて記さない。Kとだけ書いておこう)。ここには観光客はほとんど来ない。海の家もなければ、サザンやTUBEの曲が巨大な音量で流れていたりもしない。貸しパラソル屋さんもボート屋さんもない。聞こえるのはただ波の音だけだ。
 その砂浜にパラソルとチェアを持ち込んで、日がな一日、波の数を数えていた。潮風が子守唄。ボー然と、気が遠くなるように眠る…。
 目覚めたら、ミステリ文庫を開く。今回持っていったのはエリック・ガルシアの『鉤爪プレイバック』(ヴィレッジブックス)。評判だった『さらば、愛しき鉤爪』の続編。ずいぶん前の刊行だが、なぜかこれは読みそこねていた。ちょうどいい機会。潮風と波と太陽とミステリ文庫。こんな幸せな取り合わせもない。
 カヌー教室が開かれていて、時折、子どもたちの歓声が、風に乗って遠く聞こえてくる。それも心地いい。
 小さな漁港に1軒だけある食堂で、昼食に僕は毎日ラーメンを食べた。昔、海の家で食べたラーメンの味そのもの。これはこれで、うまい。4日間、こんなことを繰り返していたので、それなりに脳内除染に成功した(と思った)。

 新聞もテレビもまったく見ていなかった。
 帰ってきた。いつもの生活に戻った。やはり、同じ風景が待っていた。なにも変わってはいなかった。原発をめぐる事態が、たった数日で激変するわけもない。
 なかなか原稿を書く気になれないけれど、放っておいてはいけない。僕らが今、原発をどうするのかを示すことが、この国の未来を決めるのだ。僕は「愛国者」なのであった。この国が崩壊していくのを、指をくわえて見ているわけにはいかない。政治的な立場など関係ない。原発をどうするのかが、この国の未来を創る。
 こと原発に関しては、毎日新聞の山田孝男記者のコラム「風知草」が、いつも鋭い。東京新聞の「こちら特報部」と双璧をなす。その「風知草」(8月8日付)の「どこに安全があるのか」という論旨に、僕はほぼ同意する。

 (略)ちかごろ、激越な首相批判などめずらしくもないが、それにしても日立製作所会長の次の発言には恐れ入った。
 「首相が何を言おうと原子力の海外展開を進めたい」(日経新聞7月23日朝刊)
 軽井沢の経団連フォーラムで「脱原発」首相への不満が爆発したらしい。商売熱心、経済大国を背負う責任感の発露には違いあるまいが、福島原発事故が映し出した問題の基本が見失われている。原発は安全ではないという基本が。
 安全なら問題ない。「だから安全な原発をつくろう」と主張する人に聞きたい。どうやってつくりますかと。
 防波堤をかさ上げし、高圧電源車を常駐させ、非常用発電機を空冷式にする…。いずれも政府が検討している新安全基準の一端だが、それで安全と言えますかと問いたい。
 「科学技術を信頼せよ」と主張する人に聞きたい。この期に及んで「核燃料サイクル」(使用済み燃料の再利用循環)の完成を信じますかと。展望なき核燃料再処理工場や高速増殖炉をどうやって動かすのか。ついに矛盾が露呈した今、現実を見る代わりに、目をつぶって進むのですかと尋ねたい。(略)
 「神州不滅」「国体護持」を叫んだ当時の軍人と、「何が何でも原発を」と息巻く今日の財界人は似ている。軍人が固執した国体は天皇と無敵陸海軍だった。今日の国体は経済大国である。経済大国の武装解除などありえぬと財界主流は言う。66年前とは違い、ついに終戦に至らないかもしれない。(略)

 引用が長すぎたが、全文を書き写したいくらいだ。まったくこの国の財界人(!)なる人種ときたら、自分たちの商売のことしか考えられないらしい。
 かつて、堤清二(辻井喬)さんにインタビューしたときのことを思い出した。今はなき『月刊PLAYBOY』誌の「PLAYBOYインタビュー」でのことだ。
 「財界人として、○○についてどう思われますか?」と問いかけた僕に対し、彼は少しキッとなって
 「私は経済人ではありますが、財界人などではありません」と僕の問いを遮ったのだ。今なら、堤(辻井)さんの気持ちがとてもよく分かる気がする。そんな気概を持った“経済人”は、もうこの国にはいないのだろうか。いや、そんな気概がない“財界人”だけが、古い“財界”とやらにしがみついているのかもしれない。

 この後に続く文章で山田記者は、毎日新聞がスクープした「モンゴル核処分場計画」にも触れている。地元メディアの批判もあり、この計画は潰れたかと思いきや、モンゴル大統領と米オバマ大統領が計画推進で合意したという。
 アメリカでは、ネバダ州ユッカマウンテンに高レベル核廃棄物の地下処理場を造ろうとしたが、地元住民の反対で中止となった。仕方なく「100年間は使用済み核燃料を一時保管する」という計画を発表している。“一時保管が100年間”なのだ! 100年後、責任者は誰も生きていない。無責任の極み。日本でも、この危険極まりない高レベル放射性廃棄物をどうするか、まるで見通しが立っていない。
 何度も書くけれど、青森・六ヶ所村の再処理工場は、すでに2兆4千億円(電気事業連合会の発表分だが、実はもっと巨額だという説もある)もの膨大な資金を使ったにもかかわらず、まったく稼動のメドさえ立っていない。
 プルトニウムという自然界には存在しない地上最悪最凶の毒物を再生産し続けるという「夢の原発・高速増殖炉もんじゅ」にいたっては、もはや世界中で日本だけが固執しているだけのポンコツ原発(原発先進国といわれるフランスでさえ、「フェニックス計画」と呼ばれた高速増殖炉計画をすでに10年以上前に断念している)。この「もんじゅ」にも1兆円(これも2兆円超という説が有力)以上の資金をつぎ込んだにもかかわらず事故続きで、稼動などそれこそ“夢物語”の原発なのである。
 地上最悪最凶の毒物を生産し続け、それを処理する技術は数兆円にも及ぶ膨大な金を投入しながら未開発。我々の税金をドブに捨てていることと同じだ。それを知りつつ、財界を含む「原子力ムラ」は原発にしがみつく。利権が絡んでいないはずがない。

 福島原発事故の解析そのものへの疑問も次々と噴出する。朝日新聞(8月8日付)に、こうある。

震災10日後「炉心再溶融」
専門家 3号機、工程影響も

 炉心溶融を起こした東京電力福島第一原発3号機で、東日本大震災から10日後、冷えて固まっていた炉心の大部分が「再溶融」したとする説を専門家がまとめ、来月、日本原子力学会で発表する。東電は原子炉圧力容器底部の温度が低下した状態(冷温停止)を事故収束の目標としているが、燃料の大半が溶けて格納容器に落下しているなら、収束に向けた工程表に影響する可能性もある。(略)

 東電と政府はこれまで「溶けた炉心の大部分は圧力容器の底にある」としてきた。しかし、3月21日に原発の風下の茨城県など関東各地で放射線が一時的に急上昇したことからみて、21日に燃料棒が溶け出して圧力容器の底部から漏れ出し、そのために再溶融が起き、新たに原発から放射性物質が大量放出された可能性がある、ということだ。
 これが正しいとすれば、東電の工程表の根拠となってきた「圧力容器の底に溶けた燃料が溜まっている」という前提が崩れる。そして、核燃料は圧力容器の外側の格納容器さえ貫通してコンクリートに接触している可能性が大きくなり、処理はさらに難しくなる。
 しかしなぜ、こんな重要なことが事故から5ヵ月も経ってから指摘されるのか。もしすべてのデータを東電も保安院も隠さずに公表していたなら、事故対応も違ってきていたはずなのだ。

 高濃度汚染水浄化装置のトラブルは続く。8月4日、5日、7日と浄化装置は自動停止。仏アレバ社、米キュリオン社、東芝という全世界技術の組み合わせが、実は継ぎはぎだらけの応急措置に過ぎなかったことが、次々に露呈している。
 東電は毎時50トンの水を浄化することを目標にしているが、現状ではその50~70%がやっとだという。汚染水処理ができない限り、冷温停止は遠のくばかり。停止しない限り、放射性物質の放出は続くのだ。

児玉龍彦教授の訴えと怒り

 7月27日、衆院厚生労働委員会での児玉龍彦教授(東大アイソトープ総合センター長)の「7万人が自宅を離れてさまよっているときに、国会はいったい何をやっているのですかっ!」という、激しい国への批判が注目を浴びた。翌日からその様子がネット上に流れ、数十万人の人たちがこの証言を視聴したのだ。
 だが、国会は動こうとしない。既成メディアも取り上げない。ようやく1週間ほどしてテレビ朝日系「モーニングバード」が、ほんの少しだけその様子を流した。あれほどネット上では騒然とした話題になっていたのに、国もマスメディアも動きが遅すぎる。
 8月8日の毎日新聞が、遅ればせながら児玉教授のインタビューを掲載した。

 (略)私たちの推計では、福島第一原発からの放射性物質の放出量はウランに換算して広島原爆20個分に上ります。しかも、原爆に比べて放射線の減り方が遅い。(略)だから、稲わらによる牛肉のセシウム汚染や、お茶、腐葉土の汚染といった問題が次々出てくる。(略)
 最先端技術を使えば、たくさんの食品の汚染を一度に画像で判定できます。こうした分野で日本の技術は世界一です。メーカーに聞くと3ヵ月でできるという。それなのに政府は何の対策も打っていない。これから、コメや海産物の問題も出てくるでしょう。食の安全を支えるために、最新の測定装置を緊急に開発し、各自治体に多数並べ、流れ作業で検知するといった対策が必要です。(略)
 がんは何十年かの間に複数の遺伝子変異が重なって起きます。チェルノブイリ(原発事故)でも、子どもの甲状腺がんの増加が確かめられたのは20年後です。時間がたたないとわからないので、今「安全」か「危ないか」に決着をつけるより、「測定と除染」に徹することが大事です。(略)

 政府が動かない(動けない)理由は分かる。即決できる人材がいないからだ。菅首相をどうやって引きずり下ろすか、などという国民の意識とは完全に乖離した“政局政争”にうつつを抜かす“人材”は豊富だが、子どもたちを守ろうという人材は、残念ながら見当たらない。
 マスメディア(特にテレビ)が児玉教授を取り上げない理由もよく分かる。「福島原発から、広島原爆の20個分の放射性物質がすでに放出された」などとテレビで発言されたら、「不安を煽るのか」という抗議が来るかもしれない、それが怖いという自主規制だろう。
 テレビは、きちんとモノを言うコメンテーター(絶滅危惧種だがほんのわずか生き延びている)が出ている番組だけを選んで見るだけでいい。あとはニュースで具体的な出来事を知ること(キャスターと称する人間が解説する出来事の原因や理由などは無視したほうがいい場合が多い)で十分だ。それ以外は、もはや必要ない(僕は、スポーツ中継、特にラグビーだけはテレビ観戦するけれど)。

怪しい「電力不足キャンペーン」

 相変わらず、マスメディアの「猛暑の夏の電力不足キャンペーン」が止まらない。それについて、ネットサーフィンをしていたら、面白い記事を見つけた。[SankeiBiz] というサイトに載っていた。

 (略)(電力の使用率が)100%に達した場合、一体どうなるのか。東電は「そうならないように努力している。大規模停電という以外、具体的なことは我々にも分からない」(広報部)と話すのみだ。
 そこで、元東京農工大教授(電力システム工学)で日本クリーンエネルギー総合研究所理事長の堀米孝氏に聞いた。堀米氏は「停電の可能性はゼロではない」としつつも、こう話す。
 「理論上は、需要が供給を上回った時点から電圧、周波数が下がり始め、発電、輸送双方が正常に作動しなくなり、停電のリスクは高まります。ただし、もともと『でんき予報』のピーク時供給量は余裕を持った数値であるうえ、夜間の余剰電力を利用した揚水発電の数値は供給量の中にほとんど含まれておらず、100%で即停電とは極めて考えにくい」 
 東電の「供給力」には実は十分な余力があるというのだ。
 「しかも、東電にはまだ『供給力』に含んでいない、いわゆる“隠し電力”もあります」(同)
 これは、東電の最大供給力7769万キロワット(2009年度末実績、他社受電分を含む)から、福島第1、第2原発の出力約900万キロワットを差し引いた6869万キロワットとの差分のこと。東電はこれまでホームページで公開していた電源別の発電実績資料を削除しているが、計算上は供給力に十分な余裕があるとみられる。
 実際、東電関係者は、「公開している『本日のピーク時供給力』は、東電が決めた目安に過ぎず、本来の供給力とは関係ない。節電意識を促すために恣意的に下げていると指摘されても仕方がない」と内情を明かす。

 どうだろう? 「電力不足」というマスメディアあげての大キャンペーンの根拠そのものが疑わしい、というわけだ。
 むろん、これもひとつの論ではあるし、全面的に信用できるとはいわないけれど、東電側からの反応はどこを探しても出ていない。もし反論があるのなら、きちんとしたデータを基に間違いを指摘すればいい。やたらとデータを隠し、または“不正確な情報”(資源エネルギー庁の言い方)を垂れ流すから、こういう批判をされるのだ。

地獄の釜の蓋が開いた…

 最後に、8月9日の東京新聞が全文掲載した、村上春樹氏のスペイン・カタルーニャ国際賞授賞式でのスピーチを取り上げたい。「非現実的な夢想家として」「核への『ノー』叫び続けるべきだった」と、自身の悔恨をも込めた文章である。その中に、こんな一節があった。

 (略)原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えてきたのです。(略)

 我々の国は、自らの手で「地獄の釜の蓋」を開けてしまった。それについて村上さんは、次のようにも言う。

 これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。(略)

 むろん、村上さんと比較するほど、僕もおっちょこちょいではないけれど、「原発事故は2度目の敗戦である」などと書いた僕の文章に対しても、たくさんの批判の礫が飛んできた。
 「電気なしでどう生活していけるのか」「明治時代に戻れというのか」「そんなことを言うのなら、お前は電気を使うな」…。
 そして極めつけが、村上さんが言うように「現実を見ろ」だった。そしてそれも村上さんが言うように「便宜を現実という言葉に置き換えた論理のすり替え」に過ぎなかったのだ。
 僕の思いを、村上さんが代弁してくれているように感じるのは、僕の“思い上がり”だろうか。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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