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2011-07-27up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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飯舘村の、帰らざる日々…

 しばらく涼しい日が続いたけれど、また暑さが戻ってきた。
 我が家の塀に目隠しで這わせているブラックベリーの実が、真っ黒に熟れ始めた。少し甘い匂いがする。すると、その匂いに誘われるように、どこからともなくカブト虫が出現する。今年もようやく現れた。現在その数、10~20匹くらい。昨年は50匹以上いたけれど、今年もこれから増えるのかもしれない。
 近所の子どもたちにはすでに有名らしくて、時折、塀のそばできゃあきゃあ子どもの歓声が響く。楽しい。
 でも、ちょっと気になることも。朝、僕が新聞を読んでいると、カミさんが「妙なカブト虫…」と言いながら、一匹のオスを持ってきて新聞の上に置いた。よく見ると、オスの象徴である角が、妙な具合にぐにゃりと曲がっている。
 ん? もしや…。
 我が夫婦、お互いにそうは思ったが、言葉にはしなかった。こんなところまでイヤなものが降ってきて、その影響が…。そんな心配をしなければならない時代に、僕らは生きている。
 「カブト虫の夏」はやって来たけれど、なんとなく切ない夏である。

 録画しておいた「NHKスペシャル 飯舘村」(7月23日)を観た。原発事故直後から現在までの福島県飯舘村を記録したドキュメンタリーだ。いろいろと批判されるNHKだが、いい仕事をしている人たちも、確かにいる。
 雪降る3月、ようやく木々芽吹く4月、桜咲く5月、人々が村を去る5月末。そして、ほとんど人影が消えた6月、荒れた田畑を呆然と見つめる7月。もう人は住めないだろう…。
 菅野清三さんという酪農家が25年間、手塩にかけて育てあげた「清姫」という素晴らしい牝牛を、ついに手放す。懸命に耐えてきたが、どうにもならなくなった。
 「もう、だめだ。あきらめっぺ。しかたねえ、あきらめっぺ…」
 取材には、苦しさを隠して笑顔で応じていた清三さんが、清姫を手放す日、去って行くトラックに、ついに号泣する。この事故以来、僕の涙腺はかなりゆるくなっている。だめだ、涙が止まらない。カミさんがいなくて涙を見られなかっただけ、幸いだった。
 別の家の母親が「原発さえ、なかったら…」ポツリ。この言葉、事故以来、いったい何度、何人から聞いたことだろう。しかし、その声は政府にも電力会社にも届かない。小さな声は無視される、のか。
 飯舘村の人たちは、誰も大きな声を挙げない。東電による説明会でさえ、怒声は飛ばず、痛切な問いかけだけが響く。しかし、この人たちの心底は、憤りで煮えたぎっていただろう。
 「我々は、いつここへ戻ってこられるのか」と問う声に「それは…、なんとも言えません」と小声で答える東電社員。説明会の後で「答えられねえってことは、5年10年は無理っつうことだな」と呟き、寂しげに諦める菅谷清三さん。

 この番組の冒頭のほうで、許し難い場面が映し出される。飯舘村で開かれた福島県健康リスク管理アドバイザーなる人物、高村昇長崎大学教授の講演会だ。高村教授は「今の状況では健康に影響はない。外で遊んでも登下校でも心配はない」と繰り返す。これを信じて、村に残り普通の生活をし続けた人は多いという。高濃度汚染地域で…。
 東電からも国からもほとんど情報がもたらされない状況で、大学教授という肩書で、それも被爆地長崎の放射線医学の権威とされる人物が「健康に影響はない」と力説すれば、不安に怯えている人たちが安心したい心理から、それに飛びつくのは当然だろう。
 しかし、結果的には飯舘村は「全村避難」という状況に陥った。「健康に影響がない」のなら、なぜ「全村避難」か。高村教授なる人物の講演は、村人たちの被曝量を高めただけだ。それは許しがたいデタラメだったとしか言いようがない。
 この講演シーンは、正式な撮影ではなかったようだ。画像が粗く手振れしているし、妙に人の肩越しのみの場面が続く。これは僕の想像だが、多分、撮影許可が下りず、村民が隠し撮りしたものではなかったろうか。もしそうだとすれば、撮影許可が下りなかった理由とは…?

 福島県は、福島原発事故を受けて、県民の健康調査に乗り出すという。朝日新聞(7月25日付)にこうある。

子ども36万人 甲状腺検査
福島 全県民に健康手帳


 東京電力福島第一原発の事故による福島県民への放射線の影響を追う健康調査について福島県の委員会は24日、詳細な内容を決めた。4月1日時点で18歳以下だった約36万人を対象に甲状腺がん検査を生涯にわたり実施する。これだけ大規模で長期に甲状腺の影響をみる検査は例がない。全県民200万人を対象に調査記録を保存する手帳「健康管理ファイル(仮称)」も作る。(略)

 ついに、県も対策に乗り出した。しかし、検査の次に何を行うのかが示されていない。「放射線の影響とみられる甲状腺がんの発生は事故後4~5年からだった」と、記事ではチェルノブイリ事故を例に挙げて書いている。その4~5年後まで、ただ検査を続けるだけなのか。
 まだかなり放射線量の高い地域で暮している子どもたちを、なぜ疎開させようとしないのか。むろん、親の都合があるだろう。しかし、政府や県、行政が一体となって、少なくとも高度汚染地域から子どもたちだけでも一斉避難させるべきではないか。
 4~5年後に検査結果が出て「これだけのガンが増えています」などと報告されても、それに何の意味があるか。検査は必要だ。しかし、検査以前にまず放射線被曝しないような措置をとることが緊急課題なのではないか。僕は強くそう思うのだ。

メディアと「他山の石」

 中国で7月23日、高速鉄道の大事故が起きた。日本の新聞もテレビも一斉に大きく取り上げている。それは当然だろう。だが、と僕は首を傾げるのだ。
 ①事故直後に新聞やテレビは「日本ではありえない事故」と報じた。「各国の技術を継ぎはぎしただけの、中国高速鉄道のいい加減さが暴露された」とも伝えている。
 ②事故から1日半で中国が運転を再開したことに、やはり「事故調査が完全に済まないうちの運転再開など、日本ではとうてい考えられない」と、「2005年に起きたJR西日本の福知山線脱線事故と比較して」テレビは声を張り上げる。
 ③脱線車両を穴の中に埋めたらしい、ということで、「中国政府は都合の悪い情報を隠蔽しようとした」とも、大きく報じられた。

 これらの批判はすべて正しいと僕は思う。しかし、ひるがえって自らの報道姿勢を問い直すことも必要ではないか。「他山の石」という言葉がある。「人のふり見て我がふり直せ」という俗諺もある。
 ①日本ではほんとうに起こりえないのか? チェルノブイリ原発事故のとき、「日本では起こりえない事故」という報道がメディアを覆い尽したことを、僕は忘れてはいない。にもかかわらず、フクシマは起きた…。
 ②事故原因の調査も行わず、安全確認も完全になされないうちに「玄海原発の再稼動」を玄海町長や佐賀県知事に求めたのは誰だったか。「日本ではとうてい考えられない」ことを、海江田万里経産相はやろうとしたではないか。それをきちんと批判したか。
 ③「都合の悪い情報」を、東京電力や保安院、安全委員会、そして政府は国民にすべて開示してきたか。ことに、放射線の拡散状況を示すSPEEDIの情報などを隠し続け、結果的に飯舘村等の住民の被曝量を増加させてしまった責任は、むろんこれらの機関だ。だが、当初の大マスコミの記者たちの腰の引けた記者会見。メディアも、東電や政府の片棒を担いでいたのではなかったか。
 当「マガジン9」の大人気コラム「脱ってみる?」のマコさんの鋭い突っ込み、勉強を重ねての本質に迫る質問を、大手マスコミ記者たちも少しは参考にするがいい。

 中国のひどい有様には、僕も憤激はする。だが、それを報じる日本のメディアの鋭さが、なぜ自国の原発問題には発揮されないのか。そこに疑問を感じるのだ。他人の批判はするが、自分の反省はできない。「天に吐きかけたツバは自分の頭に降りかかる」のだ。
 その典型のような文章がある。朝日新聞(7月26日)の天声人語。中国の強権体制を批判した上でこう書く。

 汚職も絡み、強権体制の下で命を惜しむのは河清をまつがごとし。日本に生まれた幸運を思う▼無論、弱い政権で助かったという意味ではない。福島の原発事故が世界に急報された時、技術力を知る親日家の反応は「まさか」、脱原発派は「やはり」だった。両者は今、政治不在の中でもがく国民にそろって同情を寄せている。

 福島原発事故後の惨状、日々放射能に脅える暮らしの中で「日本に生まれた幸運」を喜ぶというのも凄い感性だけれど、▼の後の文章、さっぱり意味が分からない。
 「天声人語」は朝日の"名文"の集大成と言われたコラムだ。だが、「提言 原発ゼロ社会」と、これまでの社論を大きく転換させたにもかかわらず、「脱原発派」から距離を置こうとするこの文章は、いったい何を言いたいのか。「まさか」と「やはり」のどちらに、自分の立ち位置を定めているのか。何も語らない無内容な典型的"評論家"の文章だ。まるで「脱原発」への腰が据わっていない、というしかない。
 ならば、あんな大上段の社説など掲げなければよかったのだ。
 違和感が残る。

 はっきりと「反省の弁」を述べ、自らの立ち位置を明確にしている新聞記者もいる。東京新聞コラム「メディア観望」(7月26日)の、野呂法夫特報部記者の文章だ。少し長いが引用しよう。

 (略)これまで建設反対の動きや事故、差し止め訴訟は伝えてきても、一過性に過ぎず、国策民営の在り方やエネルギー依存の是非を正面から切り込まなかった。
 結果、産政官学の「原子力ムラ」に協力する形となり、紙(思)考停止に陥っていたことへの反省を述べた。ならば、今後の立ち位置は―。独断を承知で(略)全国紙に原発レッテルを貼って紹介した。
 読売、産経―「原発推進」。特に読売は社主だった正力松太郎氏が原発を日本へ導入した「原子力の父」だ。
 朝日―「脱原発」。当初逡巡?していたが踏み切った。
 毎日―「傾・脱原発」。コラムでは「脱」。迷ったが、実際には「傾」なしだろう。
 日経―「封原発」。「推進」を封印中か。一方、新たな成長産業の再生可能エネルギーの旗振りもする。
 (略)今、原発レッテルは政界にも及び、紙面をにぎわす。(略)メディアはレッテルに潜む本心を突かなければならない。政治家が語る「脱原発」は要注意。「依存」が付くようでは脱せられず、段階的に減らすなら「原発のない社会」は夢未来だ。「原発は過渡的」としたり顔で「縮」「減」を唱える心は「維持」だろう。「卒原発」も「ゆくゆくは」の気構えでは超難試験を前に、卒業はおぼつかない。卒業には「三十~四十年」と漏らす卒原発派もいる。
 推進・維持派の政治家はぜひ、選挙区に核ごみ処分場を誘致していただきたい。
 そんな折、朝日が十三日付で「提言 原発ゼロ社会」を発表した。(略)肝心のゼロにできる時期だが「二十~三十年後がめど」と書く。当然前倒しもあるが、後退なら今の責任世代が見届けられないだろう。
 では小紙はどうか。私なら「廃原発」だ。原発廃止を明確に進め、核燃料サイクルもやめる。「汚染列島」の名を除染し、国際社会の信頼回復の道ともなる。化石燃料の依存は一時増えようが日本人なら克服できる。廃炉の後も、長く危険な核管理が待ち受けている。

 僕に付け加えることはない。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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