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2010-05-26up

時々お散歩日記 鈴木耕

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米軍基地跡を散歩しましょう

 よく近所を散歩します。散歩時間が、私の思索(というほど偉そうなことを考えているわけじゃありませんが)タイムです。

 歩きながらぼんやりと、その時々に頭に浮かんだことを、家に帰ってから反芻してみます。そして、気にかかることがあれば、資料を漁ったりして調べます。

 面白いものに出会ったら、携帯で写真を撮ります。それがけっこうな楽しみでもあります。

 そんなことを、これからしばらく書き続けていこうと思います。もちろん、写メつきです。つまらない独り言が多いかもしれませんが、よろしかったらおつき合いください。

 ただし、雨の日や強烈に暑かったり寒かったりすると、せっかくの休日でも外には出られません。そんな週は、この日記はお休みです。タイトルに「時々」とつけたのはそんな私の身勝手な理由です。これもどうかご容赦ください。

 さて、というわけで、今日も近所へ出かけました。

 我が家から徒歩15分ほどのところに、味の素スタジアム(通称・味スタ)があります。もちろん、サッカーファンにはおなじみのスタジアムでしょう。

 私はサッカーよりはラグビーファンなので、あまり味スタには出かけませんが、年に一度、冬になると「府中ダービー」と称するラグビーの試合があります。府中に本拠地を持つ「東芝ブレイブルーパス」対「サントリーサンゴリアス」という強豪同士の一戦です。このときには何をおいても観戦に出かけます。

 この味の素スタジアムがある一帯は、かつては「関東村」と呼ばれていました。今でも地元の人は「旧関東村」と呼びます。

 不思議な名前ですが、実はここはかつてアメリカ軍の基地だったのです。ここをアメリカ軍が「Kanto Village」と呼んだのがその名前の始まりです。このエリアは広大で、調布市、府中市、三鷹市の3市にまたがる規模です。

 1941年、「東京調布飛行場」として開港された空港が、現在は「東京都調布飛行場」として、今もこの味スタの北側に広がっています。現在は、プロペラ機専用の飛行場で、伊豆大島や神津島などへの定期便が飛んでいます。なかなか可愛い飛行場で、管制塔そばにある「プロペラカフェ」は、知る人ぞ知る穴場のカフェ。飛行機を眺めながら、今日もノンビリお茶している人で賑わっています。

 さて、この飛行場は、太平洋戦争中、旧日本陸軍によって帝都防衛の戦略拠点として整備されました。戦闘機・飛燕などが配備されていたそうで、現在もその掩体壕(えんたいごう=コンクリート造りの、飛行機を隠し敵の攻撃から防護するための設備)が近くに戦争遺跡として保存されていますが、実際に見てみると気の毒になるほど小さくて貧弱なものです。これで帝都防衛ができると、ほんとうに軍幹部が考えていたとしたら、あまりに情けない。

「飛燕を格納した掩体壕。武蔵野の森公園の中に2基、近くの府中市に2基、計4基が現在残っている」

 それはともかく、その調布飛行場の西側一帯は、米軍が占領後、水耕栽培の農場となりました。なぜか。

 実は、進駐してきたアメリカ人たちは、日本農業が肥料として用いている“人糞”に仰天したのです。

 「そんな不潔なものをよく食べられるものだ!」と肝をつぶし、自分たちの食糧を水耕栽培で確保するために、飛行場西側の広大な土地を接収したのです。その後、その土地は、進駐軍(古い言葉ですが、日本にやってきた米軍をこう呼びました)の居留地とされ、多くの家屋や施設が建設され、フェンスに囲まれた日本の中のアメリカが誕生したわけです。

 それが「関東村」だったのです。約50万坪=約165ヘクタールという広大さだったのです。

 この「関東村」は、1973年に全面的に日本へ返還されました。そして、その跡地には、調布飛行場、武蔵野の森公園、少年野球場&サッカー場、味の素スタジアム、さらには、老人介護施設、障害者施設、養護学校、病院、東京外国語大学、警察大学校などの施設が次々に建てられていきました。

「飛燕のプロペラ。飛行場のそばの野川公園管理事務所に展示してある」

 いまやこの場所は、東多摩地区では有数の教育学術地区、市民の憩いの公園、スポーツ施設、そして福祉施設が建ち並ぶ場所に変身したのです。武蔵野の森公園には、いつも近所の小学生や幼稚園児たちが遊びに来ています。少年サッカー場からは、休日ともなると歓声が響き渡ります。

 養護施設に通う人たちや老人施設の入所者が、付き添いの人たちと一緒に散歩している光景によく出会います。車もあまり通らず、桜の季節など、花吹雪を追いかけて走る子どもたちは、いつも元気です。

 ここが米軍の基地跡だとは、言われなければもう誰も気づかないでしょう。

 ここを散歩するたびに、私は思うのです。これが米軍基地跡なのだ。利用計画をきちんと立てさえすれば、米軍基地であったところが、このような空間に生まれ変われる。 

 沖縄のことを考えるたびに、私は自宅の近所のこの広大な散歩コースを思い出します。そして、沖縄がこうなっていけないわけはない。いや、こうなるのが当然なのだと、改めて思うのです。

 普天間飛行場が返還され、跡地に公園やさまざまな施設、学校や病院、少年野球場などが整備され、人々の笑いさざめく声が聞こえる日はいつでしょうか。

 しかし、この関東村で実現できたことが沖縄でできないわけはない。そう強く、私は主張したいのです。

 私の第1回の散歩日記です。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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