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やまねこムラだよりー岩手の五反百姓からー

071205up

つじむら・ひろお 1948年生まれ。2004年岩手へIターンして、就農。小さな田んぼと畑をあわせて50アールほど耕している五反百姓です。コメ、野菜(50種ぐらい)、雑穀(ソバ、ダイズ、アズキ)、果樹(梅、桜桃、ブルーベリ)、原木シイタケなどを、できる限り無農薬有機肥料栽培で育てています。

第十五回

東国原知事の「徴農制」について

 一度20センチほど積もった初雪でしたが、さいわい根雪にならずにすみました。
 その後、小春日和の日もあって、雪はとけてくれました。
 次の雪は、たぶん根雪になるでしょうから、いまのうちに、堀り残したサトイモを掘ったり、畑の作物の残渣を集めて積み上げたり(堆肥にします)、マキ作りに精をだしています。

 縦横6尺四方・奥行3尺のマキ収納箱が10個あるのですが、もう3箱分のマキを使ってしまいました。一箱450~500キロのマキを収納できますから、10月半ばから燃やし始めて、11月末までに1500キロ近いマキを燃やしてしまった、ということになります。
 1日のマキの消費量は約30キロ。1シーズン200日、マキストーブを燃やすと計算しますと、年に6000キロ(6トン)のマキが必要、ということになります。
 マキ2キロで、石油1リットルの熱量に相当しますので、年間3000リットルの石油が浮く、ということになります。

 石油代が馬鹿高い今年は、ほんとうにマキストーブがあるおかげで、家計が助かっています。それだけでなく、マキストーブは計算上二酸化炭素を出しませんので、CO2削減にも、少しはお役に立っているわけです。(マキを燃やせば、当然CO2は出るのですが、それをまた森林が吸収してくれるので、差し引きCO2の排出はゼロ、ということになります。)
 さらに、マキを燃やした灰は、上等のカリ肥料になるので、肥料代も浮きます。6トンのマキが、60キロのカリ肥料になってくれるのです。

 マキの話が長くなってしまいましたが、今回は宮崎県の東国原知事の「徴兵制」あらため「徴農制」待望論について、感じたことを申し上げます。

 地元の新聞記事の限られた情報なので詳細はわからないのですが、東国原知事は「社会のモラルハザード、規律意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないか、といいたかった」という意味で、「徴兵制が必要」と発言した、ということですね。
 「徴兵制」が問題視されたので、「たとえば徴農制とかで一定期間、農業を体験するとか、介護、医療、災害復興の手伝いなどをある程度強制しないと、今後の担い手不足、社会構造の変化についていけない、と危惧する」と発言を修正した、とあります。

 とても、おもしろい意見だとおもいます。若者が農業体験をすることには、大賛成です。 自分が日々食べるものが、どういうプロセスで作られているのか、その現場を知ることは、大切だとおもうからです。食べ物がつくられる現場を知ることから「食育」は始まるとおもいます。その意味で、若者にはどしどし農業体験をしてもらいたい、とおもいます。

 だが、それを、国家の強制でさせるのには疑問があります。人は、真に主体的にならなければ、本気にはなれないからです。「国の命令だから」「行政の指導だから」「親に言われたから」・・という他動的な理由では、ゼッタイ自分の「いま」を肯定できないのが、人間だからです。

 ですから「徴農制」のもとに、若者が田畑に繰り出されても、それは「いやいや」やるノルマでしかない。「いまは仕方なく野良仕事をやらされているけれど、いつかきっとこんなダサい仕事から抜け出して、○○○になってやるぞ」という想いだけが増幅するだけでしょう。○○○には、かっこいいアーチスト、とか、ホリエモンのようなヒルズ族、とか、ネクタイしめた正社員、とかいう単語が入るだけです。

 自分がその道を選んだ、という主体性があって、初めて人は本気になれるとおもうのです。
 ですから、ごく自然な形で、若者が農業体験をする機会を、どうやって作れるかが、私ども百姓だけでなく、農業関係者や、教育関係者、あるいは親たちのテーマになるのではないかとおもいます。

 その意味で、東国原知事の「(心身を鍛錬する場を)学校教育が補えない」という認識はちょっとちがうとおもいます。現状がそうなら、もう一度、学校教育が心身を鍛錬する場にもなるよう、努力してほしいとおもいます。
 ともすれば、学力テストの成績がいい、とか、有名高校大学への進学率が高い、とかで、学校の価値を決めてしまう風潮があります。親や教師が、まずそういう価値観から自由になってほしい。俗世間のヒエラルキーを無批判に肯定するのではなく、農業だけでなく、世の中の「現場」を、親や教師がみずからなるべくたくさん見てほしい。そして、子どもたちに「現場」を体験させてほしい。

 世の中の価値を生み出しているのは、一次産業・二次産業の「現場」だけです。金の計算なら金融機関は得意なのでしょうし、そういう機関も世の中には必要でしょうが、価値を生むのは「現場」だけです。
 「現場」の価値を子どものころから認識できた人間は、「現場」に戻ってくる、とわたしは思います。
 「現場」の価値をわからない若者が、いま「ネット難民」とかいわれるようになってしまっているのではないか、とひそかに危惧しています。

 農業の現場は、いま若者を必要としています。高齢化、後継者不足で、消滅しかかっている集落がたくさんあります。(人口の半分を65歳以上の人が占める過疎集落を「限界集落」といいます。この限界集落が、全国に7873箇所もあるそうです。)
 いっぽう、都会には、職のない若者がごろごろしています。ならば、農の「現場」に、若者がもっと入り込んでほしい。それも、東国原知事の言う徴農制(強制)ではなく、主体的にやってきてほしい。 そのために、「現場」の価値を子どものうちから知ってもらう教育をしてほしい、とおもいます。

 そうしないと、日本の農業・漁業・林業だけでなく、農村や漁村、山村といった「現場」をともなう暮らしそのものが日本から消滅していく危険性が高いのです。伝承芸能や祭りや行事が、つまり日本の文化をになった生活そのものが、この日本列島から消えていくのです。
 残された時間は、もうあまりないのですが・・。

(2007.11.30)


マキは、いくらあっても充分ということはありません。
雪が積もる前に、チェーンソウでマキを作ります。

若者が農業という「現場」を体験すること自体は、
いろんな意味で素晴らしいことなのかもしれません。
けれど、それを頭ごなしに「強制」するだけでは、
何の問題解決にもならないのでは?
皆さんのご意見もお待ちしています。
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