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2013-04-17up

鈴木邦男の愛国問答

第123回

櫻井よしこさんの思い出

 30年前は一水会も過激な闘いをしていた。他の新右翼過激派と共に、アメリカ・イギリス大使館に火炎瓶を投げたり、「不敬」な雑誌社を襲撃したり。その度に逮捕者を出し、事務所は連日のようにガサ入れ(家宅捜索)されていた。1982年には、「スパイ査問」に端を発し、新右翼内部で殺人事件が起こり、見沢知廉氏らが逮捕される。そんな殺伐とした時代だった。
 見沢氏は12年刑務所に入り、中で必死に勉強し、原稿を書く。出所後、『天皇ごっこ』で作家としてデビューする。しかし、見沢氏の「殺人事件」の起こった1982年前後は、凄まじい時代だった。非合法活動も我々の運動の必要な一部だと思っていた。僕も30代後半で、やる気満々だった。いくら逮捕、ガサ入れされても、右翼としての「勲章」だと思っていた。
 そんな危ない組織であり、危ない人間の集まりだった。そんな時、外国の新聞社から取材された。でも記者は日本人だ。不思議なことに二紙の記者が一緒に取材に来た。多分、一人だと不安だったのだろう。なんせ過激な団体だったから。それにしても、よく取材に来たもんだ。20代の若い女性記者二人だったし。
 一人は、「クリスチャン・サイエンス・モニター」の記者の櫻井よしこさん。そう、今は超有名な人だ。もう一人は、「シカゴ・トリビューン」の村上むつ子さんだった。かなり長時間、取材されたと思う。取材の一環だと思うが、外国人記者仲間との飲み会に誘われた。港区にある櫻井さんのマンションに、村上さん、他に外国人記者が5、6人集まって飲んだ。
 「この人が鈴木さん。日本の過激な新右翼なのよ。怖いんです」と皆に僕を紹介する。「オー、ノー」とか、「テリブル」という声が上がる。それだけを覚えている。他は全て忘れたが。しかし、30年経った今、櫻井さんの方が怖いし、過激だ。僕の方はあの直後、非合法闘争を反省し、清算した。全ては言論でやると宣言し、実行している。「テロ否定」「言論で闘う」ということに対し、右翼内部からは随分と批判された。「卑怯者め!」「逃げるのか!」と。しかし、その路線は間違ってなかったと思う。
 その「平和路線」「言論路線」でずっと運動を進めてきた。30年前のような戦闘的緊張感は今はない。人間も変わったと思う。「リベラルだ」とか「もう左翼になった」と言われることも多い。そんな僕から見ると今の櫻井さんは、近寄りがたい存在だ。まぶしい。日本の保守論壇を代表する闘士だ。僕よりも、櫻井さんの方が怖いし、テリブルだ。櫻井さんは保守陣営では闘う女神さまだ。ある雑誌で、「日本の女性で総理大臣にしたい人」というアンケート特集があった。櫻井さんが断トツで1位だった。僕も櫻井さんを推した。
 でも会う機会はなかった。対談や座談会、あるいは何かのパーティで会えるかと思ったが、全くその機会はなかった。そして、やっと去年の12月20日だ。30年ぶりに会った。でも、大声で再会を喜ぶ雰囲気ではなかった。だって、「三宅久之さんお別れ会」の席だったからだ。「本当に久しぶりですね」「お元気そうで」という話をした。30年前に取材され、その後、櫻井さんのマンションで外人記者と一緒に飲んだ話をした。あの頃は、櫻井さんは中立だったし、やや左だったかもしれない。それなのに今は僕を飛び越えて右に進み、保守陣営の女神さまだ。ジャンヌ・ダルクだ。そうなるまでの経過、動機などを聞きたいと思ったが、時間的余裕がなかった。今度ゆっくり話を聞かせてください。と言って別れた。近くに元刑事の飛松五男さんがいたので紹介した。そして、カメラのシャッターを押してもらった。
 「そうだ。あの時、一緒に取材に来た村上さんはその後どうしてますか」と聞いた。「村上さん」という名前は、すぐに出てきた。二人の印象が強かったからだ。「元気にやってると思いますよ。最近は会ってないけど」と言う。
 不思議なことは続くものだ。あるいは一つの縁が他の縁を呼んだのか。それから4カ月後の4月4日、その村上さんに再会した。こんなことがあるのかと驚いた。この日、有楽町にある日本外国人特派員協会に呼ばれた。「従軍慰安婦と日本の歴史問題」がテーマだ。特に、安倍内閣は、「河野談話」の見直しを言い出している。それをどう思うか、というので、西尾幹二さん、和田春樹さん、そして僕がゲストスピーカーで、そのあと外国人記者から鋭い質問を浴びる。
 初め、「西尾、和田、鈴木の順で話してもらいましょう」と司会者が言う。「それでは大御所二人に失礼です。私は若造ですから前座として最初にやりましょう」と言った。「若造」と言えるのが嬉しかった。実際、お二人は僕よりずっと先輩だ。
 「三人は考えが違い、対立するところも多かった。でも殴り合いにもならず冷静な、建設的な討論ができたことに感謝したい」と司会者が言っていた。その通りだった。和田さんと僕は、近い。西尾さんは、真っ向から反対する。でも、慰安婦はいた。慰安所もあった。それは三人とも認める。西尾さんは
 「でも、軍隊が銃を押しつけて集め、トラックで運んできたということはない。それに慰安所は世界中、どこの国にもあった。アメリカに批判されるいわれはない!」と言う。軍の関与があったのか、なかったのか。そうした論争になった。
 終わって、何人かの外国人記者が質問する。「村上です」と言って質問した人がいる。「もしかしたら」と思って、終わってから聞いた。「覚えていてくれて嬉しいです。私が20代だったから、もう30年前ですよね」と言う。村上さんは、「シカゴ・トリビューン」の記者だった。
 「あの時、一水会の事務所に行きました。それに、三島さんの追悼式にも出ました」と言う。エッ、「三島由紀夫・森田必勝追悼の野分祭」にも出席したんだ。完全に忘れていた。
 「さっき廊下で写真を見ましたが、三島由紀夫もここで講演したんですね」と僕は言った。この日本外国人特派員協会には、その時々の「世界の顔」が来ている。田中角栄、ブッシュ大統領、ダライ・ラマ…と。オウム真理教の村井秀夫さん、上祐史浩さんも来ている。サリン事件の1カ月後だ。「ああ言えば上祐」と言われた上祐さんも苦労したようだ。「ライヤー!」という声も飛んだという。
 村上むつ子さんは、「シカゴ・トリビューン」を辞めた後は、他の外国新聞の記者をやり、今は、国際基督教大学で教えている。「そうだ。4か月前、櫻井よしこさんに会いましたよ」と言った。「それにしても随分と、右傾化しましたよね」と僕。30年前会った時は、「この人、右翼なのよ。怖いのよ」と外国人記者に紹介してたのに。今じゃ、櫻井さんの方がずっと右翼だし、ずっと過激だ。いつ頃変わったんだろう。「日本テレビで長くキャスターをしてたでしょう。日本テレビは読売新聞系だし、その中にいたので、だんだん保守的、右翼的な思想になったんじゃないの」と村上さんは言う。
 そうかな、僕は逆じゃないのかな、と思った。長い間、キャスターをやっていた。客観的報道を心がけなくてはならない。自分の本当に言いたいことは言えない。自制する。積もり積もったものがある。それが独立後、吹き出したのではないか。そして、視聴者に受けたのではないか。そんな気がする。又、会う機会があったら聞いてみたい。
 他にもいるよな、と思い出した。どんどん右傾化した人だ。小林よしのりさん、格闘家の前田日明さん、初代タイガー・マスクの佐山サトルさん。僕が初めて会った時は、皆、中立だった。むしろ、右翼嫌いだった。それなのに、僕と会った後、急速に右傾化して、僕なんかは軽く飛び越されてしまった。まさか、僕に会ったことで愛国心に目覚めたわけではないだろう。むしろ、「こんないい加減な奴が国を語ってるのは不安だ」と思い、考えるようになったのかもしれない。否定的ではあれ、縁になったのならば喜ぶべきことだろう。

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またしても、鈴木さんのちょっと意外な人脈が明らかに。
どういう方向性であれ、
会った人に大きな影響を与えてしまうのが、
鈴木さんの魅力で個性なのかもしれません。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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