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2012-03-07up

鈴木邦男の愛国問答

第94回

重信家三代の家族愛

 3月4日(日)の「鈴木ゼミin西宮」は超満員だった。2カ月に一度、西宮で、いろんなゲストを読んで開催しているが、今回で10回目だ。今回のゲストは重信メイさん(国際ジャーナリスト)だ。お母さんは重信房子さんだけでなく、僕は房子さんのお父さんにも昔、会っている。重信家三代にわたって会っている。西宮では、その話を詳しくした。

 重信メイさんは日本に帰ってきて11年目だ。日本に帰る前から話は聞いていた。「もの凄い美人だ。日本に連れて帰って女優にしたい」と、映画監督の若松孝二さんは言っていた。全共闘時代の重信房子さんは「美人闘士」として有名だった。その娘さんなんだし…と、皆、思っていた。
 日本に帰ってきて、メイさんはまず河合塾の講師になった。河合塾には全共闘運動をしていた先生方が多い。そんなことがあって、呼ばれた。メイさんは、超人気講師で、廊下にまで生徒があふれていた。さらに「朝日ニュースター」のコメンテーターになった。5年ほどやったが、今は辞めて、フリーの国際ジャーナリストだ。河合塾の方は、今も授業があるという。僕も河合塾コスモで授業を持っている。「だから職場の同僚です」と言ったら、「鈴木さんは大先輩です」と言われた。
 西宮では、初めに、メイさんから40分ほど話してもらい、その後、二人でトーク。この時、僕は「重信家三代」との付き合いについて話をした。そのあと、質疑応答。会場を移しての二次会と続いた。初めにメイさんは、「これからの世界を語る。〜アラブ、アメリカ、そして日本」と題して話してくれた。又、アラブでの生活、お母さんのこと、日本赤軍の人たちのこと…などについても話してくれた。
 本名は「重信命」だ。命は、「いのち」だし、革命の命だ。そんな思いを込めて、お母さんが付けた。でも、漢字で書くと、かなり重い。重く信じて、それを命がけで守る。そんな感じになる。「それに、右翼のようでしょう」とメイさんは言う。「○○命(いのち)」なんて腕に入れ墨してる人がいるが、あんな感じがするという。右翼というよりは暴走族かもしれない。ともかく、重苦しくなるので「重信メイ」にしたという。その方が、国際ジャーナリストとしても通りがいい。
 この日、僕は、お爺さんの重信末夫さんに取材した「やまと新聞」のコピーを持っていって、会場の皆に配った。〈重信房子はなぜアラブへ。元右翼の父が語る女闘士の素顔〉と、見出しが書かれている。小見出しは…「ロマンを求めて。北一輝などを高く評価」「連合赤軍、唾棄すべきもの」「極右と極左は一致。ただ天皇観だけが違う」。
 「やまと新聞」の昭和49年3月15日付だ。1974年だ。三島事件の4年後。連合赤軍事件の2年後だ。今年は「連合赤軍から40年」だから、末夫さんに取材したのは今から38年前だ。タイトルで分かるように、末夫さんは元右翼だった。それも筋金入りだ。戦前の「一人一殺」の血盟団事件に参加していたのだ。ただ、テロを決行する直前、井上日召に言われた。「君は人間が優しいからテロには向いてない。我々が破壊をやるから、その後の建設を頼む」と。それで郷里に帰り、教師になった。戦前は、国家革新、革命、を言うのは右翼だった。だから、「娘は右翼ですよ」と断言していた。「右翼」は誉め言葉なのだ。この世の中を変えるために闘っている。そんな娘を誇りに思っていた。末夫さんの「過去」を知らずに、右翼からよく抗議、嫌がらせが来る、と言っていた。「あんな左翼の娘に育てて恥ずかしくないのか。責任をとって自決しろ」と言ってくる。末夫さんは、戦前の右翼だ。そんなものに動揺する人じゃない。笑って話していた。この時、「娘さんとは連絡はないんですか?」と聞いたら、「ない」と断言していた。房子さんが日本を脱出する時、「もう二度と会うことはないだろう」と思ったという。
 それから20年以上が経って、房子さんは日本に帰っていたところを逮捕される。そして、懲役20年の刑を受け、今は八王子の医療刑務所にいる。刑が決まる前、法廷には何回か行った。拘置所でも何回か面会をした。お父さんの話をよくした。
 「実は、あの時、父から問い合わせがあったんです」と房子さんは言う。「元右翼学生の鈴木邦男という男から取材の申し込みがあった。知ってるか?」という内容だったという。もう連絡はないと言ってたが、ちゃんと連絡はあったのだ。父親から手紙が来たが、房子さんは知らない。周りの人達に聞いた。日本から来た活動家は沢山いて、その何人かが知っていた。「右翼の暴力学生ですよ、鈴木というのは」。それで、「ロクな奴じゃないから取材は断った方がいいですよ」と房子さんは手紙を出した。しかし、今と違い、38年前だ。手紙が届いて、返事が来るのに1カ月以上かかる。それが幸いして、僕は取材することが出来た。

 僕は右翼学生運動をやっていたが、内部闘争で、除名になり、運動の場から追われた。1969年だ。そして縁があって、1970年から1974年まで、産経新聞に勤める。事件を起こして産経をクビになってからは、右翼の世界に戻り、「新右翼」と言われるようになる。「産経に4年いた」と言うと、「記者だったんですね」「だから、その後、本を出したりしてるんですね」と言われる。しかし、産経では販売局と広告局にいて、ものを書く仕事ではない。産経を辞めてから、原稿を書くことを始めた。友人が「やまと新聞」にいたので、よく書かせてもらった。1974年の東アジア反日武装戦線〈狼〉の連続企業爆破事件について「やまと新聞」に連載した。それが三一書房の社長の目にとまり、本を出すことになった。『腹腹時計と〈狼〉』だ。それが僕のデビュー作だ。
 「やまと新聞」は右派系の日刊紙だ。当時は、月刊、週刊だけでなく、右派系の日刊紙もあったのだ。そこでは随分と書かせてもらい、生活も助かった。その頃、重信末夫さんにも取材した。
 そう思っていた。ところが、末夫さんのインタビューだけは違っていた。まだ産経新聞にいた頃だ。休みの日を利用してインタビューに行ったようだ。今、思い出したが、「発表するのは、やまと新聞ですが、僕は産経新聞の社員です」と言って、身分証を見せて、信用させたような気もする。その頃は、産経には満足していた。サラリーマン生活をエンジョイしていた。入社した年の暮に三島事件があり、それが契機で、昔の学生運動仲間が集まり、一水会を作った。でも、サラリーマンのサークル活動だった。
 ところが、末夫さんに話を聞いて、衝撃を受けた。「このままで俺はいいのか?」と思った。真剣に思った。そのインタビューから10日後、僕は事件を起こして、産経をクビになる。自分の心の中に、「このまま会社にいてはダメだ!」という焦りが生まれたようだ。末夫さんに会っていなければ、心をかき乱されることもなかっただろう。そして、ずっと会社勤めをしていたことだろう。
 最近、本屋で見つけて読んだ本だが、由井りょう子さんの『重信房子がいた時代』(世界書院)がある。いい本だ。「学生時代のサークル仲間が綴る重信房子の家族愛の軌跡」と本の帯には書かれている。第三章は「父と娘の革命」になっている。僕も三代の家族愛に触れた。そして運動の世界に戻った。不思議な縁だ。

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もし、アラブからの一通の手紙がもう少し早く日本に届いていたら、
今の「鈴木邦男」はいなかった?
人との出会いが、人の運命を大きく変え、思わぬ方向に導いていく。
そんなことを思わせる鈴木さんの「秘話」です。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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