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2011-03-23up

鈴木邦男の愛国問答

第71回

僕を育ててくれた街、仙台

 恐ろしい大災害だ。想像を絶する大震災だ。2週間前に、北朝鮮から帰ってきたのに、そんな事は言っていられない。北朝鮮では緊張したし、寒かった。成田空港には、「北朝鮮には渡航しないように」と注意書きがあった。行くのに覚悟が要る国だ。大変だったな。それに比べ、日本はいいな。平和で安全だし。と思っていた時の大地震だ。そして津波、原発事故だ。日本のほうが大変だ。北朝鮮のことなんて言っていられない。北朝鮮に行ったのは、もう随分と昔のような気さえする。

 僕は生まれも育ちも東北だ。だから、テレビで大震災の惨状を見ると胸がつぶれるようだ。悲惨で、痛々しくて、見ていられない。僕は、父親が税務署に勤めていたので、東北地方を転々とした。福島県郡山市で生まれ、その後、福島市、会津若松市。そして青森県の黒石市に移った。しかし、赤ん坊の時なので記憶にない。その後、秋田県に移り、その頃からの記憶はある。
 幼稚園と小学1年が秋田県横手市。小学2年から3年が秋田市。小学4年から中学2年までが湯沢市だ。のんびりとした小・中学生生活を送った。テレビもない。自然と一体となった生活だった。100メートルほど離れた所に小川がある。夏はそこで泳いでいた。冬は、家の廊下でスキーを履き、そのままポンと外に出て、滑っていた。政治の事なんて知らなかった。日本に天皇がいることも知らなかった。でも、その頃が一番、日本人らしい生活をしていたような気がする。
 後に政治運動をやるようになるが、日本とか祖国愛というと、いつも秋田県(特に湯沢市)の原風景が浮かび上がってくる。その時の原体験が、「自分は日本人だ」という意識を作ったのだろう。運動家になってからも、殺伐とした闘いの日々の、意識の裏に、おっとりとした「湯沢の原風景」があったようだ。激しい運動の現場から今は、一歩退いている。だから、ポヨヨンとした、湯沢的なものだけが残ったようだ。
 いや、こうも言える。あのまま湯沢にいたら、政治に目覚めることもなく、運動の世界に入ることもなかったろう。地元の高校に進み、秋田大学に行き、卒業後は湯沢に戻って市役所にでも勤め、同級生と結婚し、子供を作り…。その方が、ずっと「愛国的」な生活だ。平凡だが典型的で、理想的な〈日本人〉像だ。
 でも、そうはならなかった。教育熱心だった両親は、郷里の仙台に帰ることを決心する。父親は、もう税務署を辞めていた。税理士をしていたので、仙台で仕事をしようとする。何よりも、子供の教育のことを心配し、こんな田舎にいたら大学に行けない。そう思ったようだ。あるいは、のんびりとした子供が、どんどんのんびりしてしまい、〈自然〉と一体になってしまう。そのことを虞れたのかもしれない。
 それで仙台に移り、僕は仙台市立第二中学校の3年に編入した。しかし、それは失敗だった。よかれと思ってやった親の決断だったが、子供には大変だった。カルチャー・ショックだった。勉強に全く、ついて行けないのだ。湯沢では、成績がいい方かなと思っていたが、仙台では、ついて行けない。
 自分の中ではパニックになっていた。それに、ボーッとした田舎の子供だから、よく虐められた。湯沢では知らなかった「人間不信」を知った。受験勉強にも集中できず、二高を受験したが落ちた。仕方がなく、私立の東北学院榴ヶ岡高校に入った。そこは、ミッションスクールで、とてつもなく厳しい学校だった。学校には、いつも反撥し、反抗していた。その反撥の中で〈右翼〉にも関心を持った。高校3年の卒業間際に教師を殴って退学になる。こうなると、ただの不良高校生だ。しかし、1年間の懺悔と教会通いの甲斐あってか、退学を取り消してもらい、卒業できた。早稲田に入り、あとは自由だ。無限の可能性がある。と喜んでいたが、全共闘に反撥して、右翼学生になる。それからは40年以上、右翼運動をやることになる。
 だから、仙台での4年間の生活が自分の生活を変えた。性格も変えた。思想も変えた。いや、思想的人間にしたのだ。早稲田に入っても、時々は帰省していた。でも、何週間もいない。いや、1年近く、いたことがあった。左翼の運動がつぶれ、右翼の学生運動も内ゲバを繰り返していた頃だ。運動の世界から追放され、仙台の実家に帰った。1969年だ。本屋の店員をしながら、「俺もこれで終わりだ」と思っていた。
 しかし、翌1970年3月に、「よど号」ハイジャック事件があり、たった9人でも、こんな凄いことを出来るのか。「敵ながら天晴れだ」と感動した。その8ヶ月後には三島事件がある。それを契機に、昔の運動仲間が集まり、僕も運動の世界に戻ることになった。

 今考えると、仙台は、政治に目覚めた街だ。社会の矛盾に気付いた街だ。右翼を知り、自分の性格が変わった街だ。又、運動の内部闘争に敗れ、雌伏した街だ。その仙台が今、壊滅的な状況だ。両親はもういないが、兄貴がいるし、親類もいる。同級生もいる。兄や親類は幸い大丈夫だった。でも、あの地震の時は生きた心地がしなかったという。同級生たちはどうなっただろうか。心配だ。僕は仙台に行かなければ、政治運動に入ることもなかった。その意味で、運動家としての僕を生み、育ててくれた街だ。その仙台が大変なことになっている。
 プロ野球のダルビッシュ選手は仙台の東北高校出身だ。今の自分があるのは仙台のおかげだ、と、5千万円の義援金を出した。プロ野球選手ならば、「自分がプレーし、そのことで被災者を励ましたい」と言うだろう。でも、それだけでは不十分だと思った。それだけ、仙台の力は大きかった。僕も仙台によって育てられ、運動の世界に入った。仙台での体験があったので、今の僕が出来た。恩返しを考えたい。東北大震災に動転し、心が千々に乱れ、感傷的・回顧的な文章になってしまった。すみません。

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自分が直接被害に遭ったわけではなくても、
鈴木さんのように、そこに友人や親戚がいたり、
数多くの思い出があったりという人はたくさんいることでしょう。
離れた場所にいる自分に、できることは何なのか? 
無力感もありつつも、考え、行動したいと思います。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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