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鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

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第34回「アナキズム」宣言

 叙勲制度には反対だ。それに文化勲章や国民栄誉賞にも反対だ。こんなものはいらない。大体、この過当競争の社会において、「成功者」はそれだけで賞賛を受け、勲章を受けてるようなものだ。オリンピックで優勝した、ノーベル賞をもらった、芸術家として世界に認められた。それが〈勲章〉だ。さらに国家が追認して称える必要はない。ましてや政治家や裁判官や各省の役人だ。何十年か勤めたからといって、勲章をあげる。おかしいだろう。旧社会党の人達だって、「国家への功労者」だとして、左翼的な人だってもらっている。皇居に行って、天皇陛下からもらっている。何も嫉妬で言っているのではない。それに「叙勲を拒否しろ」と野暮なことも言わない。叙勲パーティに呼ばれれば行くし、お祝いも言う。本人も喜んでいるし、それはいいだろう。

 それよりも、「制度」を変えなくてはならない。パラダイム(枠組み)チェンジだ。変革の民主党にはぜひやってほしい。叙勲制度があるからもらいたがる。もらったら嬉しい。誰だって誉められたら嬉しい。僕だって万が一、くれるのならもらっちゃうだろう。そんな人間の弱さに付け込んだ制度だ。そして「差別」をつくる。だから制度そのものを廃止したらいい。資本主義・過当競争社会の「成功者」だけを称賛するなんて、天皇陛下も疑問に思っているのではないか。サイパンでは国を超えて亡くなった人々を慰霊し、国内で地震などの災害があると駆けつけて、膝をついて語りかけ、励ます。そこに天皇の姿を見て、僕らは涙ぐむ。弱い人、恵まれない人々を励ますために天皇制はある。又、それらの人々を具体的に救うために国家はある。

 強いもの、成功した者は放っておけばいいんだ。十分に称賛されている。弱いもの、傷ついた者を救うのが国家の役目だ。大体、人間は何のために国家をつくったか、考えてみたらいい、だまっていたら強い者だけがまかり通り、弱者を喰いものにする。ホッブスだってそう言ってるじゃないか。だから、弱者も生きられるようにルールをつくった。それが国家だ。だから、国家本来の仕事に専念してもらいたい。

 それと、失敗したり、他人に迷惑をかけた時は謝る、弁償する、ということだ。個人の生活でも当然のことだ。教育だって「ごめんなさい」と「ありがとうございます」。この二つだけでいい。これさえ言えれば、立派な人間だ。知識や情報なんて、パソコンで瞬時に手に入る。知的教育なんてもう必要ない。この二つを言える人間をつくる。それだけでいい。だって、街に出て見たらいい。テレビを見たらいい。自分が間違っても絶対に認めないで、他人のせいにしてる人間ばかりだ。そんな思い上がった人々だけが政治を語り、世の中の「幸せ」を語っている。

 間違ったら謝る。親切にされたら礼を言う。これだけでいい。個人だけじゃない。国家だってそうだ。国家の最大の犯罪は戦争だ。だから謝罪する。迷惑をかけた人々には、謝る。国家が続く限り、謝罪する。そして、二度と戦争しないことを誓う。そのための具体策を講じる。戦争で亡くなった人々を慰霊する。国家が続く限り、やる。国民を戦争に駆り立てて、殺したのだから当然だ。

 国家によって殺された人はもっといる。関東大震災の直後、憲兵によって殺された大杉栄、伊藤野枝、甥の橘宗一(むねかず)、特高警察によって拷問され殺された小林多喜二。でっち上げ裁判で「大逆事件」として殺された幸徳秋水たち。これも、「国家の犯罪」だ。たとえ現場の憲兵や警察官が「勝手に」暴走してやったとしても、「国家」が責任を負うべきものだ。大逆事件は裁判をして殺したんだから、なおさら、国家の犯罪だ。こうなると、国家こそが「最大のテロリスト」だ。右翼や左翼のテロなんて、これに比べたら小さい、小さい。とすら思う。

 さらに冤罪で何十年も獄に送られた人もいる。獄死した人もいる。これらも、国家の犯罪だ。国家がキチンと責任を取るべきだ。国家が謝罪・賠償し、その上で勲章をあげるのなら、この人たちにこそあげたらいい。残虐な国家と闘った勇気ある人々だ。ここにこそ人間の尊厳がある。今からでも遅くない(本当は遅いのだが)やってほしい。又、大杉栄、小林多喜二、幸徳秋水らは、遡って「国葬」にする。改めて、葬儀をしたらいい。殺した日は、記念のために休日にする。毎年、「国家の犯罪」を忘れないためだ。国家の暴走を許さないためだ。

 それによって国家の「思い上がり」目線を阻止すべきだ。格差社会、過当競争の被害者犠牲者を救う。国家の役割はそれだけでいい。「強い国家」「凛とした国家」なんて必要ない。自分が凛と出来ないで、国家に求めるなんて悲しすぎる。

 9月12日、新潟県新発田市に行ってきた。この新発田市は大杉栄が4歳から14歳までの10年間を過ごした所だ。自分の故郷だと大杉は言っている。「新発田の自由な空」をいつも思い出していたと『自叙伝』に書いている。ここでは毎年、「大杉栄メモリアル」が開催されている。今年は何と僕が呼ばれて講演した。その興奮が醒めやらぬ中で、この原稿を書いている。大杉の魂が乗り移ったようだ。だから自動書記のような文章になった。

 「思想に自由あれ。しかしまた行為に自由あれ。そしてさらにまた動機にも自由あれ」と大杉は叫んだ。実行した。僕だって、自由を求めて運動に飛び込んだのだ。たとえ「右翼」と人々に蔑まれようと「自由」を求めて闘ってきたことは事実だ。共産主義からの自由、国家権力からの自由。あらゆる強制・束縛からの自由だ。それをアナキズムと言うのなら、僕だってアナキストだ。そうだ、新発田駅前には、大きな塔を立て「アナキズム宣言都市」と書いたらいい。非核宣言都市、護憲宣言都市のように。そうしたら、新発田の「自由な空」が日本中にひろがり、世界にひろがるだろう。

えっ、鈴木さんが「アナキスト?」と驚かれた方もいるでしょう。
しかし「国家」による暴力や束縛を嫌い、
「自由」を求め続けるその姿は、まさにそうなのかもしれません。
「自由な空」が世界にひろがりますように。

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