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鈴木邦男の愛国問答:バックナンバーへ

鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男が「マガジン9条」の連載コラムに登場です。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて、
会いたい人に会いにいき、「愛国問答」を展開する予定です。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

※アマゾンにリンクしてます。

第9回「潔癖性と愛国」

 女に振られて死のうと思っていた。20年ほど前のことだ。それで推理小説ばっかり読んでいた。何かに没頭してないと、自殺してしまう。あるいは、ヤケで誰かを殺してしまう。そう思いつめる自分が怖かった。だから「現実逃避」のために推理小説ばっかり読んでいた。

 アガサ・クリスティも横溝正史も全部読んだ。その中で、妙に気になってる小説がある。作者は言わないが、こんな小説だった。主人公の女性は殺人事件を追っている。パートナーの男は協力して助けてくれる。いい男だ。ハンサムだし、身だしなみがいいし、きれい好きだが、その度合いがちょっと強い。潔癖性というのだろう。何せ、電車の中で、吊革も握れない。誰が触ったか分からない。汚い。それで、ハンカチを出して、吊革にかぶせてから握る。飲み会でも、皆で鍋をつつき合うことも出来ない。他人の箸も入ってる。汚い。だから、飲み会にも出ない。他人と握手も出来ない。ドアのノブも回せない。うっ、俺と同じだなと思った。僕だって昔は潔癖性だった。それで女に捨てられた。

 小説では、その男が犯人だった。他人の、ちょっとした「汚い行為」が許せなかったのだ。他人が道でツバを吐く。喫茶店で鼻をかみ、その紙を平気でテーブルに置く。そんなどうでもいい事が許せない。うん、分かる。僕もそうだった。汚い奴、平気で他人に迷惑をかける奴、この社会のルールを守れない奴。そんな奴はゴミだ。ゴミは処分して、きれいにしなくてはならない。テーブルもきれいに拭くべきだ。自分は、ただ「掃除」をしただけだ。それなのに、「殺人者」と言われる。納得できない。うん、そうだよな、と犯人に同情した。

 又、外国の映画だ。幸せな結婚をした夫婦がいる。夫はハンサムだ。金もある。きれい好きだ。整理好きだ。でも、度を超している。タオルをたたむ時、かける時は、1ミリもずれてはいけない。靴はキチンと並べて、先端を揃える。1ミリもずれてはいけない。本の背もきちんと揃える。戸棚のビンやコップもキチンと並べ、ラベルは必ず正面を向くようにする。だから他人の家には行けない。タオルがねじれてかかっている。ラベルが横を向いている。許せない。気になってしかたない。僕もそうだった。でも、そんな男と一緒に生活する女も大変だ。脱いだ靴が、ちょっと曲がっていた。コップを定位置におかない。そんな「ささいな事」で女を殴る。でも男にとっては、「ささいな事」ではない。なぜ、こんな事ができないのか、きれいにするのは当然ではないか、と思う。
 「きれい好き」は当然なのに、異常だと言われる。女も怖がって逃げ出す。そして遠い外国で、名前も変えて暮らす。ホッとする。靴なんか乱雑に脱ぎ捨てる。タオルだって、その辺にほうり投げる。ビンのラベルも横を向いたり、後ろを向いたり。自由だ。これこそ人間の生活だ。
 ところがある日、帰ってきて愕然とする、ゾーッとする。家がきれいに片付いている。タオルもキチンとかかっている。戸棚を開けるとビンのラベルが皆、正面を向いている。そう、潔癖性の夫が追ってきたのだ。そして…。

 最近読んだのでは赤川次郎の『日の丸あげて』だった。潔癖性の元刑事がいる。祝日には日の丸をあげるのは当然だ。団地の皆にもそう説得し、あげてもらう。みんな、日の丸を出している。きれいだ。美しい。でも一軒だけ、言うことを聞かない家がある。皆が一斉に日の丸を出したらきれいなのに、どうして? 一つでも欠けたら美しくない。気になって仕方がない。だから本人が日の丸をあげてやった。言うことを聞かない住人は取りのぞいて…。
 この団地を美しくしたかっただけだ。机がよごれていたら、誰だって拭いてきれいにしようとする。それをやっただけなのに、「殺人犯」にされてしまった。かわいそうだ。

 そうか。「きれい」を求めるから殺人事件は起こるのか、と思った。この世の最大の真理を悟った。まわりを見たら、愛国者は皆、「きれい好き」だ。潔癖性だ。この日本は「神州清潔の民」だと信じている。その国をよごす奴は許せない。説得して心を変えてもらう。聞き入れない時は「掃除」する。よごれを取るだけだ。悪いことではない。そう思う。

 昔は僕も潔癖性だった。だから愛国者になったのだろう。この美しい日本を守るのだ。この国を愛するのは当然だ。「きれいにしようよ」と訴えてきた。当たり前のことだ。それが分からない人間には力に訴えても分かってもらおうとした。それでも分からない人間はどうする。「掃除」するしかない。僕らはこの世の中をクリーニングしているだけだ。「きれい」を求めるボランティアだ。
 昔はそう思っていた。でも今は違う。潔癖性をやってるのに疲れた。性格もズボラになった。よごれた奴がいてもいいだろう。他人から見たら、僕ら自身も「変」で「汚れてる」かもしれない。自分を客観視できるようになった。あんなに整理好き、潔癖性だったのに、どんどん性格がだらしなくなった。そして「愛国心」にもこだわらなくなった。いい事なのか、悪い事なのか。部屋の整理も出来なくなった。だから考え方も自由に、アナーキーになった。
 家に帰っても靴は脱ぎ捨て、服も脱いだらそのまま打っちゃっている。自由だ。潔癖性の夫から逃れた妻のようだ。だから、いつも潔癖性の人からは批判され、攻撃されている。アパートに火をつけられた事もあったっけ。怖い。

「きれいにしておきたい」思いはきっと誰にでもあるものだけれど、
それが度を過ぎたり、違う方向へ向けられたなら…?
人と人との「違い」を「汚れ」として許さない、
そんな社会は息苦しいだけなのでは? と思います。
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