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2010-06-02up

雨宮処凛がゆく!

第146回

トルコへ旅をする。の巻

 旅に出たくなったので、十日間ほどトルコのイスタンブールに行っていた。
 久々に大音量のコーランを浴びたくなったのだ。どうでもいいことだが私は「コーラン萌え」で、初のコーラン体験はイラク・バグダッドだった。モスクの真下、夕暮れの空がドッカーンと墜ちてくるんじゃないかと思うほど大音量のコーランとひっきりなしに響く車のクラクションの音。水たばこの甘い匂いと羊を焼く匂い。そんなものが混じり合い、なんだかその場にブッ倒れそうになって以来、ハマっている。そうして訪れたトルコでコーランを聞き、あちこちほっつき歩き、道に迷い、お酒やケバブなどを大量に摂取し、船に乗り、馬車に乗る以外は何もせずに過ごした。

モスクの前で。

 そんなトルコは、とても「緩い」場所だった。ボスポラス海峡を船で渡ればすぐそばをイルカが泳ぎ、カモメが触れるほどの近さで飛んでいく。びっくりしたのは、イスタンブールの街中に「のら犬」「のら猫」が溢れていたことだ。
 はからずも前回、「猫裁判」に触れ、この国から「社会の隙間」が失われていく息苦しさみたいなことを書いたわけだが、トルコは隙間だらけというか、緩みっぱなしな感じでとてつもなく居心地が良かったのだった。だって道ばただろうと店の前だろうと駅の出入り口だろうと巨大な犬がお腹丸出しで平気で熟睡してるし、猫は猫で警戒心などまったくなく、初対面の人間に平気で身体をすり寄せてくる。街のあちこちにキャットフードと水が用意され、それでも飽き足らない猫はレストラン近辺に出没し、いろんな人からごはんを貰っている。店の人も料理しながら残り物をあげていたりするし、オープンカフェみたいになってるレストラン(店の外にも中にも席があるレストランが多い)に自分の「特等席」を持つ猫(毛布つき)までいる。何か、人間と動物が当たり前に「共存」しているのだ。ってことは、日本の地域猫みたいに避妊・去勢手術済みなのかと思えば、路地には子猫もたくさんいる(避妊・去勢手術済みらしき猫も多いが)。

イスタンブールの猫たち。

 一方、犬は犬でだいたい耳にピアスみたいな印をつけているため、避妊・去勢手術済みだと思うのだが、とにかく日本では見たこともないくらい大きな犬が吠えながらその辺を走り回っていても誰も気にとめない。日本でのら犬を見なくなって久しいが、それは当然「自然に」いなくなったのではなく「危ない」とかそういう理由で殺処分されてきたわけで、しかし、国が違えば当たり前に存在を許されている、という事実に何か愕然としたのだった。生きてるんだから、別にそのまま生きてていいじゃん、という当然の認識がそこにある。で、生きてればごはんも食べるしウンコもする。ということで、イスタンブールの街にはあちこちに犬や猫のウンコが落ちているのだが、私は「ウンコが落ちている国」や「ゴミが散乱している国」「臭い国」「トイレのドアを開ける時に並々ならぬ覚悟が要求される国」がとても好きで安心する。具体的にはインドやイラクがそうだった。特にイラク・ファルージャ(だったと思う)のドライブインのトイレといったら・・・。今まで数々の「世界各国恐ろしかったトイレ話選手権」でこの話をし、連勝してきたという実績があるほどだ。本当は今ここで披露したいが、「ごめん、もうやめて吐きそう・・・」と言われることが多いので自主規制する。

あちこちで寝る犬。

 で、汚くて臭いとこが好き、などというと「わかる」という人とドン引きする人のまっぷたつに分かれるわけだが、この辺りに「猫裁判」に続く「社会の寛容度」というか隙間というか、そんなものにかかわるヒントがあるような気がするのだ。それは「清潔」とか「安心・安全」を優先するあまり、様々なものを排除している今の日本のありようにも繋がるはずだ。そんなことを考えていて浮かんだ言葉は「信頼」である。「安心・安全」が過度に強調される社会がおそらくもっとも失っているもの。

水たばこの店の指定席で寝る猫。

 例えばトルコでは一見とても怖そうな犬が当たり前に街をウロつけるのは、そこに「あの犬は悪いことをしない」という信頼があるからだろうし、猫が初対面の観光客にゴローンとお腹を見せて寝そべるのも、猫側に「人間は怖いことや痛いことをしない」という信頼があるからだろう。動物だけじゃない。イスタンブールの街では、ちょっとした芝生でよくオジサンやお爺さんが昼寝している。日本でも大きな公園で寝ている人はいるが、その辺のどうでもいい感じの芝生で寝ている人はあまり見かけない。私も芝生を見つけるたびに昼寝ばかりしていたが、のら犬やのら猫と一緒に人が無防備に寝ている場ではなんの警戒心も作動せず、よく眠れた。が、これは私がみすぼらしいせいで何も盗まれたりとかがないだけかもしれないので他の人は気をつけてほしい。というか、私はどこの国に行っても昼寝ばかりしているが、それで怖い目や危ない目に遭ったことが一度もないのだから自分のみすぼらしさに乾杯したい気分である。

グランドバザール前。

 このように、基本的にどこに行っても「体感治安」が良すぎる私だが、この「体感治安」こそ「信頼」と大きくかかわるものだろう。例えば日本だと、09年の殺人事件の認知件数は戦後最小で、しかも刑法犯は7年連続で減り続けている。しかし、「最近怖い事件が多くて物騒」というような体感治安はこの7年で確実に悪化しているという転倒が起きているように思う。誰かを信頼する前に「不審者と思え」と言われるような空気。もちろん、振り込め詐欺とか人の信頼を利用するような犯罪も日々起きているので誰も彼もを信頼するわけにはいかないが、最初から人を信頼できない社会に生きることはやはりそれだけで息苦しい。信頼されないのも悲しい。そうなってくると、すべての人との出会いは「疑い」から始まる。それは出会い方としては最悪の部類だろう。そんな相互不信に満ちた社会は確実に人の心を歪ませていく。

 と、そんなことを考えながら帰国したら、普天間問題で福島さんが罷免されたり、社民党が連立政権から離脱したりと政治の現場が大きく動いていて驚いた。もっとも驚いたのはよりによって移設先が辺野古、ということだ。沖縄の当事者との合意より、アメリカとの合意が優先される国。ここでもまたひとつ、「信頼」が大きく損なわれた。

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減少傾向にある犯罪件数の一方で、なぜか悪化している体感治安。
その矛盾については、以前森達也さんも指摘されていました。
本当に人が「安心して」生きられる社会とは?
皆さんは、どう考えますか?

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雨宮処凛さんプロフィール

あまみや・かりん1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮処凛のどぶさらい日記」

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