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雨宮処凛がゆく!

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あまみや・かりん北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!〜難民化する若者たち〜』(太田出版)など、著書多数。現在は新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々(プレカリアート)の問題に取り組み、取材、執筆、運動中。非正規雇用を考えるアソシエーション「PAFF」会員、フリーター全般労働組合賛助会員、フリーター問題を考えるNPO「POSSE」会員、心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、ニート・ひきこもり・不登校のための「小説アカデミー」顧問。雨宮処凛公式サイト

雨宮処凛の闘争ダイアリー
雨宮処凛の「生存革命」日記

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「消費」される「貧困」の巻

黒白ちゃんの子ども。こう見るとキレイだけど実際は目ヤニだらけ。

 最近、私はあることで非常に忙しい。
 今日もテレビ番組の収録が終わるやいなや、「すいませんちょっと次があるんで」と飛んで帰ってきた。忙しいこと。それは近所の凶暴なのら猫、黒白ちゃん(時に敬意を込めて黒白先生と呼んでいる)が新たに産んだ4匹の子猫の世話だ。
 黒白ちゃんは去年の夏、5匹の子猫を産んだ。が、産んだ場所が問題だった。うちのすぐ隣の物置。で、そこに子猫がいることなど知る由もない物置の持ち主は、物置の窓の鍵を閉めてしまったのだ。入ろうと思った窓が閉められていることに気付いた黒白ちゃんは私に必死で訴えた。「この中に私の子猫がいる!! お前なんとかしろ!!」。そうして窓を必死で開けようとするジェスチャーまでするのだ。日頃から人間と意思の疎通はなかなかとれない私だが、猫の言葉はすぐにわかる。私は慌ててその物置を所有するお宅に行き、事情を話した。そうして物置を開けると、そこには生まれたての子猫が5匹、無事生きていたのだった。
 それから1年もしないうちに黒白ちゃんは再び妊娠、出産。つい最近、うちのすぐ近くに4匹の子猫を連れてきた。前回と同じくすべて黒白柄。が、生後一ヵ月もたたない子猫たちは前回の元気な子たちとは違い、目の周りは目ヤニだらけでクシャミを繰り返し、健康とは言い難い。なんとか保護したくても、黒白一家5匹の住む場所はどうやっても手の届かない段差だらけの場所で、毎日全身泥だらけになりながら食料支援をすることくらいしかできない。凶暴な黒白ちゃんは私が近寄れば「シャーッ!! 」と威嚇し、御飯をあげようとすると「ブシャッ! 」と言いながら鋭い爪で引っ掻きまくる。一応いろいろ世話をし、黒白ちゃんが窓の外で「ニャ」と鳴けば飛んでいき、彼女のウンコも片付けているのに、黒白ちゃんは私のことを奴隷かなんかだと思っているみたいなのだ。そんな黒白ちゃんの子猫もすっかりのら教育を受けているので警戒心は強い。で、とにかくまずは病気をなんとかしようと、今日、どうやっても手の届かない子猫をデジカメで撮影し、動物病院で事情を話して薬をもらってきた。「風邪だろう」ということで、御飯に薬を混ぜて食べさせるという作戦開始だ。早く元気になって、黒白のような性格の悪い凶暴な猫になってほしい。

 さて、いきなり話は変わるが、最近、何人かとここ数年私がかかわってきたプレカリアート運動や反貧困運動について、話した。そうして「貧困」問題そのものが「消費」されるということについて、改めて考えさせられた。「貧困」そのものの消費。というか「貧困」ブームのようなもの。それはマスコミなしでは語れない。「ネットカフェ難民」という言葉が登場した頃、多くのマスコミがまるでその存在に「欲情」するかのように、こぞって「ネットカフェ難民」と接触したがり、都内のネットカフェを「荒らす」という事態が起きた。そして、やはり大勢のマスコミが押しかけた年越し派遣村。もちろん、マスコミの中には真摯な姿勢で報道している人もいる。が、ブームは必ず飽きられる。「貧困」という、決して「消費」されてはいけないものが、ある意味で「派遣村」を頂点として「消費」された果て。その結果、今現在も厳しい状況はまったく変わらず続いているのに、何か「もう済んだこと」のようになっていないだろうか。そして「派遣村」以上に「悲惨」で「絵になる」ことがない限り、この問題があれほどクローズアップされることはないのだろう。非常に嫌な言い方だが、「大量餓死」なんかが起きればまた一斉にみんなが「欲情」するに決まってる。

 私がこういった問題にかかわり始めたのは06年で、ちょうどその頃、偽装請負告発キャンペーンが始まった。そうして様々な労働/生存運動が盛り上がる過程の中で、かなり初期から「貧困」や「生存権を求める運動」の「消費」、ということについて考えていた。その時に思い出したのは、日朝会談直後から始まった北朝鮮の拉致問題を巡るもろもろだ。突然、日本中が北朝鮮バッシングムードに包まれ、「拉致家族」の「悲劇」に涙し、すごい勢いでその「物語」を消費し始めた。あの頃、横田夫妻などの拉致被害者家族が登場するような集会は超満員で、異様な熱気に包まれていた。

 「ブーム」は何か、「無責任」な観客の「欲望」よって時にねじ曲げられていく。私が運動にかかわり始めて1年くらい経った頃、周りの人から「もう自分は労働問題とか貧困問題には飽きた」と言われたことがある。取材なんかを受けると、たまに「次のテーマは」と聞かれることもある。人の命にかかわる問題に「飽きる」とか、常にいつも新しいテーマを用意してなくちゃならないとか、なんだか「貧困」が消費されていく過程で、「資本主義」そのものの持ついびつさを感じたりもする。そして運動にかかわり、言葉を発し、物を書く自分の言葉そのものがそういったものに回収され、時にすごい勢いで消費されるのを感じる。最初から「ブーム」とかになってはいけないものがブームになることは、時に事態を進展させ、そして必ず副作用も産み出すのだということを、私はひしひしと感じている。

 だから何か、回収されない言葉を書かないといけない。そう思った時に小説を書こうと決めたのだ、ということを思い出した。そして「ブーム」ではない形での問題提起のあり方。うーん、難しい。難しいけど、そういうことを考えないといけない次元に到達したのだと思う。

 さあ、これからまた泥だらけになって5匹の猫の世話だ。黒白ちゃんが呼んでいる。というか、黒白先生に聞いてみよう。

うちのぱぴちゃん。「ねころん」でくつろぎ中。

いくつもの「ブーム」が生まれてはまた消えていく。
それ自体は当然のことかもしれません。
でも、「貧困」のように、人の命や尊厳にかかわることまでが、
ブームとして「消費」されていくのだとしたら…。
情報を「伝える」側とともに、「受け取る」側の姿勢も問われます。

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