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世界から見た今のニッポン

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第51回

8月30日には日本の衆議院選挙が、
9月27日にはドイツの連邦議会選挙が行なわれました。
ドイツ緑の党のユースの地区代表であるディマさんが、
初めて見た日本の「選挙」は、どう映り、どう感じたのでしょうか? 

日本とドイツ──新しい政治潮流の予兆(ディマ・コンゼヴィッチ)

ディマ・コンゼヴィッチ(Dima Konsewitsch)1987年、旧ソ連ウクライナ共和国生まれ。ドイツ系住民として1992年にドイツのハノーファー市に帰還。現在はライプニッツ・ハノーファー大学で経済学を専攻するとともに、ドイツ緑の党・ニーダーザクセン州ユースの事務局長を務める。昨年、今年と日独ユースサミットに参加するため、来日。

2009年の晩夏、日本とドイツで政権交代が起き、政治が変わろうとしている。世界的な経済危機からちょうど1年。ディマ・コンゼヴィッチさんに、日本の選挙戦を間近に見た印象とドイツの政治に生じている新しい傾向について寄稿してもらった。

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●日本──チェンジへの1票

 衆議院選挙投票日の1週間前、東京のある選挙区で野党連合による選挙運動に同行した。
 ヨーロッパの人間である私にとって、日本の選挙戦でなによりも驚かされたのは拡声器付きの選挙カーだった。日本の「ストリートキャンペーン」は選挙運動の柱である。ベテランの候補者には、ラッシュアワー時に運動員とともに駅の改札口の近くに立って演説をすることなど、慣れたものだ。運動員たちは選挙ビラを通勤客に配り、その間、候補者は手持ちの拡声器を通して演説を続ける。候補者にとって大事な選挙運動は、あらゆる公の場で自分の名前が書かれた大きなタスキをかけて登場し、握手をしてまわることだった。演説中は、自分が所属する政党のアピールよりも、候補者の名前が連呼された。
 これらは、ヨーロッパの選挙運動では、あり得ない光景である。ドイツ人の私には、非常に奇妙に感じた。
 ただ、日本の選挙戦がヨーロッパのそれと根本的に違う点は、(日本では)官僚主義的な規制が多いことだと思う。ホームページの更新は投票日の12日前から禁じられ、ビラやポスターは1選挙区につき11万枚と制限されている。そして立候補するためには高額の供託金を支払わなければならない(小選挙区では300万円、比例区では600万円)。こうした規制が、野党や無所属の政治家の躍進を難くし、60年以上にわたる自民党支配を可能にしたのではないか。
 選挙運動の期間中、日本の有権者は無関心のように見えた。民主党はオバマ大統領のスタイルに倣って大きなチェンジを訴えたが、有権者は、ごくわずかな例外を除いて、演説をする候補者の前を急いで通り過ぎていった。私は有権者と運動員の間で議論が交わされる場面を一度も見なかった。候補者にシンパシーをもった通行人が候補者と握手を交わすくらいである。そもそも政党マニフェストに関する国民全体の議論が欠けていると感じた。光沢のある紙に印刷された政党のマニフェストは8~12枚程度であり、ドイツの政党が製作する100ページのそれとは比べるべくもない。ここ25年間の日本での投票率が70%を下回ったことも肯ける。とくに若い世代に広がる政治への無関心は、私にはあまりに極端なものに映った。

 しかし、8月末の衆議院選挙の結果は、歴史的な変化を示すものだった。日本の有権者は、本当の選択肢をもてる複数政党システムにたどり着くチャンスを前にしている。民主党と連立パートナーがマニフェスト――過度の官僚依存国家の是正、社会システムの基盤の構築、過剰な国家歳出の削減、内需拡大――を実行すれば、日本は20年以上にわたる危機と、「アジアの病める国」という評価から脱するだろう。
 決定的な転機は来年訪れるに違いない。2010年夏の参議院選挙、連立政権が上下両院で過半数を確保するか、それとも民主党が単独過半数を制するか。今夏の民主党の圧勝は自民党に対する不満が生んだものであり、野党への信頼という要素は少なかったと思う。次回は鳩山政権の改革が問われる番である。

●ドイツ――スーパー選挙イヤー

 ドイツの2009年はスーパー選挙イヤーと名づけられている。1月から9月にかけての国内6つの州議会選挙、欧州議会選挙、そして最後を飾るドイツ連邦議会選挙。しかし、アンゲラ・メルケル首相の人気は高く、国民に「チェンジ」への気持ちは欠けていた。変化が生じたとすれば、これまでにない投票率の低さ、そして政党に対する有権者の視線である。
 9月27日に行われた連邦議会選挙はドイツ統一以来、もっとも内容に乏しく、熱気のない選挙として、歴史に残るだろう。ただ選挙結果は退屈なものではなかった。2大政党(国民政党)のひとつ、ドイツ社会民主党(社民党)が大敗北を喫し、3つの小政党(自由民主党〔自民党〕、緑の党、左派党)の得票率は10%を超えたのである。ドイツの政党システムのなかで、5つの政党が自らの立ち位置を確固たるものにした。政権にはもうひとつの大政党、保守のキリスト教民主同盟(民主同盟)と自由主義経済を重視するリベラルの自民党がついた。

 2005年の前回の連邦選挙では、それまで政権を担っていたゲアハルト・シュレーダーを首相とする社民党と緑の党の中道左派政権が敗北した。社民党が掲げた社会制度改革に対する労働組合員や旧東独の有権者の反発、そして同党の指導的政治家個人に対する反感が大きな理由だった。
 その結果、生まれたのは民主同盟(得票率35.2%)と社民党(同34.2%)によるやむをえないかたちでの連立だった。ドイツの連立政権は互いにコンセンサスを探りながら、小さな歩みを続けていたが、2008年秋の金融危機以降、銀行救済対策法の可決、労働市場の安定化、自動車買換えのためのスクラップボーナスによる景気刺激策(従来のガソリン車をスクラップにしてEUの環境基準対応車に乗りかえるとボーナスがもらえる)などの政策を行なった。これらの改革は、民主同盟が2005年まで掲げていた市場原理主義的な党是からの転向を意味し、これまでで最大規模の財政出動がなされた。

 とはいえ、民主同盟と社民党による連立政権の4年間、両党は独自色を出せず、政策的な特徴を明確にできなかった。アンゲラ・メルケル首相(民主同盟)は旧東ドイツ出身、政界に進出したのは1990年である。彼女は民主同盟の伝統的な旧西ドイツ男性政治家たちのネットワークを利用できなかった。しかし、それが彼女には有利に働いた。というのも、2000年に民主同盟のヘルムート・コール元首相に対する闇献金疑惑が生じた際、無傷のメルケルは党首として指導力を発揮したからである。党内基盤が脆弱な彼女は2002年の連邦選挙で首相候補にはなれなかったが、ライバルが同選挙で敗北したことで、2005年には首相候補への道が開けた。
 メルケル首相の政治手法は、周囲とあまり波風を立てずに妥協点を探る、メディア首相などと揶揄された前首相のシュレーダーとはまったく違うものだった。

 社民党の党首にはフランク・ヴァルター・シュタインマイヤーが就任した。彼は2005年に連立協議を行なっている際に初めて政治家になった。それまでシュタインマイヤーはシュレーダーの長きにわたる親友かつシュレーダーの事務所の責任者であり、シュレーダー政権時代には、その確実な仕事ぶりが際立っていた。

●各党の選挙対策とポスター

 選挙運動中、街角などに貼られる選挙ポスターは、政党のポスターのみであり、日本のような各候補者の顔入りポスターが貼られることはない。各党のポスターは、スローガンや政策が書かれている。
 民主同盟は連邦議会選挙の選挙戦において、マニフェストの内容は曖昧にし、メルケル首相の高い人気を頼りとした。その典型が、選挙戦終盤に立てられた大きな選挙看板である。そこには具体的な党のマニフェストは記載されておらず、ただ「私たちは首相に投票する」とだけ書かれている(※1)。

 自民党も基本的にシンプルだった(※2)。同党は前回の選挙同様、党首、マニフェスト、民主同盟との連立の意向を前面に掲げた。金融危機にもかかわらず、減税と小さな政府というイデオロギーを下ろさなかった。

 左派党はほとんど社会主義政党として対峙した。連邦議会選挙で同党は純粋な反対政党として、ポピュリズム的な要求を掲げた(※3)。選挙ポスターには「金持ちに課税せよ」「67歳からの年金支給反対」「アフガニスタンから(ドイツ国防軍は)撤退せよ」といったスローガンが記された。

 最小政党である緑の党は、経済と社会にテーマを特化した(※4)。選挙戦に入るに当たって、同党は基本路線として民主同盟と自民党との連立政権への参加の可能性は排除した。

 最も苦しい立場に置かれたのは社民党である。首相候補であるシュタインマイヤーは地味な官僚出身者のイメージだ(※5)。同党は最低賃金制度の導入と脱原子力に重点を置いた。

●選挙の結果、見えてきたこと

 17回目のドイツ連邦議会選挙は歴史上、まれにみる低い投票率(70.8%。日本の投票率〔69.3%〕とほぼ同じ。ただし、日本では比較的高い数字とされているが)だった。3つの小政党はこれまでで最大の得票率を記録(自民党:14.6%、左派党:11.9%、緑の党:10.7%)。一方、2大政党はドイツ連邦共和国の建国以来、最低の得票率となり、民主同盟と社民党を合わせても3分の2に満たなかった。とくに衝撃的だったのは社民党の23.0%という落ち込みである。民主同盟は微減の33.8%であり、自民党の躍進により連邦議会で多数派を占めることになった。
 民主同盟のメルケルは首相に留まった。しかし、市場原理主義を明確に否定したことから、自民党が選挙戦で喧伝していたネオリベラルな政策は行なわないと思われる。中道右派政権が明確にしているのは、原子力発電所の運転の延長、企業と富裕層への減税、健康保険の民営化である。それ以外では、財政・社会・民法に関わる政策の方向がはっきりと打ち出されるだろう。
 社民党にとって、他の2つの左派政党(左派党と緑の党)との差別化をはかりながら、野党として国民の信頼を獲得することは難しい。
 テーマを特化した新しい政党の躍進はドイツ政治の近年の傾向である。2006年に設立された情報保護のみを訴えた小政党は得票率2.0%(得票数84万5,904票)を獲得した(ドイツの選挙制度では、比例区で得票率5%を満たないと議席は獲得できない)。一方、2大政党(民主同盟と社民党)は従来の支持者に対する明確な選挙公約を打ち出せず、党員数も減っている。ドイツ統一後、従来の社会環境が変わり、国民の関心が個別化している。これがここ20年間における投票率の低下と小政党の誕生となって現れているのである。
 日本とドイツでは政権交代が行われた。しかしながら、日本では国の統治システムの転換を掲げた民主党が勝利し、「変化」を求める声に欠けたドイツでは保守勢力が政権についた。両国の有権者は異なる選択をしたわけだが、それらはともに政治の深層における変化の予兆といえるのである。

日本とドイツは、両方とも小選挙区制と比例代表制ですが、
ドイツでは少数政党の躍進が可能です。
そのあたりの違いについては、ディマさんのインタビューで紹介していく予定です。
お楽しみに!

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