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世界から見た今のニッポン

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第39回

スイス

第18回のコラムで、国民投票が盛んなスイス国民として、
日本でそれを行う場合の問題点を指摘したデーラーさんは、
その後、チューリヒ大学で博士論文
(「1946年~1956年ソビエト連邦における
日本人抑留者とドイツ人捕虜の問題 ~体験記・比較論~」)を
書き上げました。ここでは、そのエッセンス部分を紹介します。

アフガニスタン戦争とイラク戦争の共通点(タチアーナ・ヴィルト)

リチャード・デーラー(Richard Daehler)1933年チューリッヒ生まれ。スイスのダンザス運送会社に勤務。日本支社社長を経て、1995年末に定年退職。その後チューリッヒ大学に入学し、日本学、ロシア語、文学を専攻。2002年に同大学修士課程を修了。

捕虜に関する国際的合意

戦争捕虜の過酷な運命は、歴史上数多くの記録に残されています。戦闘員・非戦闘員に関わりなく、戦争捕虜は無権利状態に置かれ、殺害や強制労働は日常茶飯でした。モンテスキューは『法の精神』(1750年)、ルソーは『社会契約論』(1762年)で、戦勝者の権利を「捕虜が再び武器を取れないようにすること」だけに限定するよう主張しましたが、戦争捕虜と負傷兵の保護に関して初めて国際的合意が実現するのは、ハーグ陸戦条約(1899年にオランダで開かれた第1回ハーグ平和会議において採択され、1907年の第2回ハーグ平和会議で改定され今日に至る)まで待たなければなりません。

生きて捕虜の辱めを受けず

明治維新以来、日本は欧米諸国に匹敵する地位をめざし努力してきましたが、そのためには軍隊および教育制度の強化が必要と考えました。そして、1882年には「軍人勅諭」、1890年には「教育勅語」が発布され、軍隊と学校の役割と義務が明確化されます。

日本は、捕虜の待遇改善を提起した1929年ジュネーヴ条約の批准には拒否しました。日清戦争、日露戦争、そして第一次世界大戦中は捕虜を正当に処遇してきたにもかかわらず、日本が態度を硬化させたのは、大国意識が生れたこと、外国との経済的、政治的摩擦による火種が増大したこと、軍部が次第に発言権を高めていったことによります。

それに従って、たとえ敵国が物理的に優位であっても、精神力があれば、その差を埋め合わせ、ひいては日本を勝利へと導くといった考え方が支配的になりました。そのため、捕虜と捕虜の親族は恥ずべき者とされ、捕虜は軍体内で懲罰の対象とされたのです。

ドイツの近代化

日本と同じような近代化を進めたドイツでは、ドイツ皇帝の立場を強固にし、絶対服従を要求するような勅令・勅語の類はありませんでした。国民教育が中央政府によって統制されることはなく、皇帝の権威とともに議会と教会の権威も存在していたのです。さらに、それぞれの地方にふさわしい権限があり、中央集権により権限を持たなかった日本の都道府県とは比較できません。ドイツの軍隊は厳しい規律を重視してきましたが、「皇帝に殉ずる」ことが最大の義務に引き上げられることはありませんでした。

シベリア抑留時の日本兵とドイツ兵

両国民の違いは、敗戦後、ソ連のシベリア強制労働収容所(ラーゲリ)に入れられたドイツ兵と日本兵にも見られます。ドイツ人はソ連との長い消耗戦を繰り広げていたため、敗戦が近づいていることを感じており、長い間の物理的、精神的ダメージに打ちひしがれていました。それに対して、抑留日本兵の多くには、(彼らが満洲にいたため)戦争の終結は瞬く間のできごとでした。しかも天皇が終戦詔書という敗北宣言を行ったので、捕虜たちは降伏を自分の恥辱と受け取らなかったのです。

固有の価値観という嘘

「生きて捕虜の辱めを受けず」と叩き込まれながら、敗戦後、日本兵が捕虜の立場に甘んじたことは、捕虜に対する蔑視が日本の伝統に根ざしたものではないからだと思います。

1937年3月30日に文部省が「国体の本義」を発表しました。それは国民が国家とその歴史に帰属することを強調したものです。「国体の本義」は、これまでの欧化政策は度を超して危険であり、愛国心と天皇への絶対服従を「日本固有の価値観」であるとしました。しかし、捕虜に対する蔑視や愛国心の強制は、近代化の過程で他国にもみられます。それらを日本の伝統として正当化しようとしたところにこそ、当時の日本の特徴がうかがえるのです。

日本語と日本の近現代史について本格的な勉強を始めたのは定年後というデーラーさん。
その意欲と地道な研究の成果は、チューリヒ大学で高い評価を受けました。
デーラーさん、ありがとうございました。

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