東アジアにおける核の連鎖
2006年10月。この春中国に帰国してから2回目の出張で、私は東京にいた。ニュースを見ると、やはり北朝鮮の核実験に世の中の関心が集まっている。北朝鮮に対する経済制裁の延長線で、日本の政治家の一部から「日本の核武装について議論すべし」の発言がなされ、中国でも大きく報道された。
それに対して、安倍首相が記者会見で「非核3原則」を再三強調した。私も、原爆の被害者である日本国民が核武装を真剣に検討するとは思わない。日本が核武装をすれば、連鎖反応で韓国も核武装することになりかねないだろう。そうなれば、「朝鮮半島の非核化」は、もはや絵空事となってしまう。さらに、首相の交代と安倍首相の訪中によって、少し明かりの見えてきた日中関係が再び不信感と嫌悪感の闇に堕ちてしまうだろう。
北の核開発と歴史問題
日中関係は過去5年、「経熱政冷」の局面を乗り切れなかった。
日中関係、あるいは日本とアジア近隣諸国との関係において、「歴史問題」に対する認識の違いが常に争いの焦点となっている。靖国参拝問題はその象徴ともいえ、北朝鮮の核開発に対する日本と中国、韓国の反応もまた「歴史問題」と直結している。
東アジアにおいては、「歴史」=「過去」ではない。100年前の紛争さえ、今日のグローバル経済で生まれた相互依存関係に、なお大きな影を落としている。
平和的台頭は可能か
搶ャ平(トウショウヘイ)は、いまから30年前に「日中関係こそ中国にとっての一番重要な外交関係」と述べた。21世紀に入り、驚異的な経済発展を成し遂げた中国は「平和的な台頭」(peaceful rise)という外交路線を全面的に打ち出し、アジアないしグローバルの舞台で、大国としての責任を果たすことを宣言した。
中国で「平和」と「台頭」が共存できるかどうか、日本では疑問の声が聞こえる。東シナ海でのガス開発、潜水艦侵入事件、そして昨年の上海などの大都市で発生した反日デモと、確かに不安な材料が多い。一方、中国側にとっても、日本の政治家の「日本は正常な国になるべき」発言や、日本政府の国連安保理の席を争う行動が、アジア近隣諸国との歴史問題をきちんと解決できないことへの言い訳に聞こえる。
第三者の立場になって考えてみると、日中両国とも「平和的な台頭」を目標にしているではないだろうか。経済成長に牽引され、中国は世界舞台で「大国」としての重要な役割を果たしている。北朝鮮を巡る6カ国協議がその一例である。
一方、日本においては、戦後生まれ世代の世界認識が主流となりつつある。日本は、過去の過ちに束縛されず、世界第2位の経済大国、そして国連の最大の支援者として、もっと評価されるべきである。国連安保理の常任国になることも、戦後60年、そして今後、日本が世界の平和に貢献するためのひとつの手段だろう。
2つの国が手を繋いで「平和的な台頭」を実現できないだろうか。そのためには、お互いの過去から生まれた「被害者意識」を切り捨てなければならないと思う。
歴史と向き合う勇気を
中国は、1840年のアヘン戦争から約1世紀の間、欧米諸国、そして日本に侵略される悲しい時代を送った。5千年の歴史を誇るこの国の国民が長い間、その名のとおり「世界の中心にある大国」と思わせる輝かしい過去を背負ったゆえ、そこから生まれた「優越感」が100年間の戦争によって大きな打撃を受けた。
21世紀の世界で、中国が再び「責任ある大国」として活躍するためには、このような「優越感」と「被害者意識」のコンプレックスを乗り越えなければならない。それは、過去を忘れることではなく、もっと客観的かつ開放的な姿勢で、過去、そして未来と向き合うことだろう。
同じく日本でも、敗戦から生まれた「被害者意識」から脱皮しなければならない。「被害者意識」がなぜよくないのか。戦争の責任があいまいになってしまうからだ。日本は原爆の被害者である前に、まず戦争の仕掛けた側であったことを忘れてはならないと思う。社会科の教科書に、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの名前を入れることは、「被害者」としての歴史を忘れないという趣旨でもあろう。ならば同時に「慰安婦」に対する記述を削除すべきではなく、アジアの大国として、日本はきちんと歴史と向き合う勇気をもたなければならない。
歴史を忘れる国に将来はない。歴史の影から抜き出せない国にも同じことが言えるだろう。
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