ベーベル&ライナー・シュラーダー(Baerbel & Rainer Schrader)
ベーベル・シュラーダー(右):1942年ドイツ・ワイマール生まれ 演劇学者
ライナー・シュラーダー:1940年チェコ・プラハ生まれ 演劇プロデューサー
2人とも現在は年金生活。 |
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ベーベル |
私は1942年10月24日、ワイマールで生まれました。ドイツの敗戦(1945年5月)までのことで覚えていることですか?
一番古い記憶は、戦争末期のころです。ワイマール市内も爆撃の対象となっていたので、両親は私と姉を市の郊外に住む祖父母のところに預けました。でも、そこにも米軍の戦闘機が飛んできました。かなりの低空飛行だったのでしょう。生まれて初めて見た戦闘機は、私には大きな蝶々のように見えました。それが何かものすごい音を立てたのです。それが機銃掃射だということを知ったのは、もう少し大きくなってからでした。
もうひとつは、空襲のため地下室にこもっていたときのこと。ものすごい衝撃音とともに頭の上から砂埃が降ってきたと思ったら、停電で真っ暗になりました。ただ、自分の置かれている状況はよくわかっていなかったですね、なんせまだ2才でしたから。
その次の記憶は戦後です。私たちの町にアメリカ軍の黒人兵士が大きな戦車に乗ってやってきました。その彼が私にダークブラウンの小さな塊をくれたのです。「食べてごらん」って。びっくりして家に帰った私は、母に「これは何?」とたずねました。チョコレートを見たことがなかったんです。母は「わが子はチョコレートも知らなかったんだ」と涙ぐんでいました。 |
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ライナー |
私は1940年、プラハ生まれです。当時のチェコはドイツの占領下にありました。父はプラハのラジオ局に勤務しており、子供の私はとくに不自由もなく、幼稚園でチェコの子供たちとも遊んでいました。
1943年のメーデーの日(5月1日)だったと思います。プラハの町で大きなデモがありました。数百人のパン職人、肉屋、庭師たちが労働歌を歌いながら、行進しているのです。うちで働いていたチェコ人のメイドさんも加わっていました。私はデモを家の窓から見ていました。
プラハでは、SS(ナチスドイツの親衛隊)の若い隊員から、ヘルメットに隠し持っていた板チョコを一枚もらったことを覚えています。それ以来、私は、SSというのはいい人だと思っていました(笑)。
その後、父は兵隊にとられ、やがてドイツは敗戦。父はどこにいるかわからず、母と兄、そして私はプラハから離れた抑留者施設に入れられました。母はそこにある鉱山で働き、私たち兄弟を育ててくれましたが、私たち兄弟はいつもお腹を空かせていました。
ドイツに帰った――私の場合は「帰った」というより、「向かった」わけですが――のは1948年ころです。ドイツで父と再会できましたし、私たち一家は幸運だったと思います。
ドイツが戦争中何をやったのかを知ったのは15才くらいのころだと思います。 |
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ベーベル |
私はもう少し早かった。というのも、ワイマールにはブーヘンヴァルト強制収容所があったからです。私の祖父は戦後、他のドイツ人とともにアメリカ軍の車に乗せられ、収容所跡を見せられた後、事情聴取を受けたそうです。
私の家族は強制収容所があることは知っていました。たくさんの人々が殺されているとは思いもよらなかったそうですが、町中から囚人服のようなものを着せられた人たちが郊外に連れて行かれるのをときどき見たそうです。
戦後、祖父母や両親は政治にはほとんど関わらずに過ごしました。 |
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ライナー |
私たち家族がすでにベルリンに住んでいたから、たぶん1950年ころだと思います。国立オペラ座前の広場――といっても周囲はまだ廃墟のままでしたが――で、「アレクサンダー・アンサンブル」というソ連赤軍の軍楽隊が演奏会を開いたのです。
彼らは「カチューシャ」や「カリンカ」などのロシア民謡のほか、ドイツの歌も歌いました。ロシア訛りのドイツ語なのでおかしかったのですが、千人以上もいた聴衆は大喜び。日本人にとって、戦争中のロシア人のイメージはよくないかもしれません。でも、私にはよい思い出の方が多かった。 |
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その後、ベーベルさんはベルリンで大学を卒業し、東ドイツ芸術アカデミーの演劇専門家に。ライナーさんは東ドイツの労働者演劇の製作に携わる。そして結婚――。
戦後の2人は、冷戦の最前線である東ベルリンに暮らし、ベルリンの壁崩壊(1989年)、ドイツ統一(1990年)を経験する。その後もソ連解体、ユーゴ紛争などヨーロッパの地殻変動を経て、21世紀には欧州統一通貨ユーロを手にした。
そんな2人は、9・11以降の世界にあって、憲法9条についてどんなことを思うのでしょうか? |
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ベーベル |
戦争放棄の9条は日本の歴史、とりわけヒロシマとナガサキの悲惨な経験から生まれたものだと思います。ドイツの基本法にもそのような条項が加えられればと願ってやみません。
私の理解では、日本は自国の防衛に限り、軍事力を行使するということですね。にもかかわらず、いまの日本が経済的な関心、あるいはグローバルな影響力をもつためにか、イラクに自衛隊を派遣したことには落胆しました。私の個人的な意見ですが、9条の規定する立場を毅然として守るべきだったと思います。
ドイツではイラク戦争に反対する全国規模のデモが起こりました。ベルリンでも百万人以上の人々が通りに繰り出しました。ドイツ政府も、さすがにそれを押し切ってまで派遣はできませんでした。
すでにドイツ連邦軍は1990年代にボスニア・ヘルツェゴビナやユーゴスラビア(ユーゴスラビア社会主義共和国解体後、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって構成。2003年には国名をセルビア・モンテネグロに変更)へのNATOの爆撃に参加しました。ドイツの軍隊が戦後初めて、自国領土を超えて国外に出たのです。もう(そんなことは)十分です。
当時の米国やNATOの大義は、セルビア人によるクロアチア人やムスリム人の虐殺を阻止する――私はセルビア人だけがやっていたとは思えませんが――というものでした。でも、他の国の体制についていろいろ文句をつける前に、たとえば米国は自国内のことをきちんとすべきではないでしょうか。大量破壊兵器をもっていたと嘘を言って他国に戦争をしかけるような政権は交代させるべきです。でも、それを外国がアメリカに対して強要したらどうですか? そんなことはアメリカ国民には耐えられないでしょう。それなら自分たちも(他国に対して)やらない方がいい。民主化を行うべきは、その国の人々なのですから。 |
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ライナー |
マスメディアの言説にも注意しなければなりません。大半のマスメディアはユーゴ紛争について、ミロシェヴィチ(元セルビア共和国大統領)を「大量虐殺者」と呼びました。でも、彼らはチリのピノチェト将軍(1973年にクーデターを起こし、当時のアジェンデ大統領を殺害し、軍事政権を樹立)をそうは呼びませんでした。同じ独裁者だったのに、どうしてでしょう? ミロシェヴィッチがヨーロッパ最後の共産党系の指導者で、ピノチェトは経済的には自由主義路線をとった国家元首だったからではないでしょうか。
マスメディアの言葉には、誰かの利害がかかわっていることがあります。
イラクがそうでしょう。「サダム・フセインの圧制を終えさせ、イラク国民に自由をもたらす」といった掛け声の裏には、エネルギー源の確保や中東戦略上の理由があったのではないでしょうか。そこを見逃してはいけないと思うのです。
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