成 点模(スン・チョンモ)さん(右)
1930年1月、サハリン生まれ。1945年以来、ソ連占領下のサハリンに強制「残留」。「サハリン残留朝鮮人」向けの唯一の新聞「新・高麗新聞」の代表を長年勤め、サハリンの朝鮮人コミュニティーの中心的知識人として活躍。現在も日本のメディアのロシア語通訳を務める。
金 梅子(キム・メージャ)さん
1935年8月、サハリン生まれ。1945年8月、ソ連軍の監視を逃れ、船で脱出し北海道江別に上陸。しかし、父と兄がサハリンに残留したため、やむを得ず帰島。以後、強制「残留」となり、優秀な婦人服仕立て工として長年勤めあげる。
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サハリン残留朝鮮人に関連する主な事柄 |
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1905 |
ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南が 日本に譲渡される |
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1910 |
日韓併合。土地・財産を失った朝鮮農民の 樺太への移住が始まる |
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1938 |
国家総動員法制定 |
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1941 |
アジア太平洋戦争開始 |
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1945 |
8月8日、ソ連の宣戦と同時に南樺太にソ連軍が侵攻 8月15日、終戦 |
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1946 |
ソ連地区引き揚げ協定。日本人の引き揚げは開始(49年までに29万3000人の日本人が本土にもどる)。しかしこのときは、日本国籍のない韓国・朝鮮人やその日本人妻は引き揚げ対象から外される |
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1950 |
朝鮮戦争勃発 |
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1957 |
サハリンから後期日本人引き揚げ開始。韓国・朝鮮人やその日本人妻も対象となり、2300人が日本にもどる |
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1987 |
日本の国家議員たちによって結成された「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」結成 |
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サハリン(樺太)に韓民族がいまだに残っているのは、日本政府による1942から45年までの「強制連行」「徴用」があるからです。北海道新聞のデータでは、7万人という数字が出ています。そのうち3万人が九州に二重徴用されました。つまり朝鮮半島から樺太に徴用されて、樺太からまた徴用で九州に回されたんです。
二重徴用の背景には、1944年後半、戦争の影響による運搬船や労働力の不足で、樺太で生産された石炭を日本に運搬するのが難しくなったことがあります。それで日本政府は、樺太の炭鉱を閉鎖して、そこで働いていた朝鮮人を九州のほうに移動させたわけ。内地の炭鉱で、もっと石炭の生産量を増やそうという政策です。ところがその人の家族、妻子達は樺太に残されたまま、終戦を迎えたのです。
終戦当時、樺太にいた韓民族は4万3千人。2000年度の人口調査では、2万9千600人です。4万3千人から2万9千600人に減ったのは、私の父親の世代、一世が亡くなったからなんです。
ウチの親父の場合は、「強制連行」が始まる前、1920年頃から樺太開発計画で「自由募集」というのがあったんですが、それで1929年頃に樺太に来たんです。ところが、徴用の期間というのは半年といわれたにもかかわらず、期限が過ぎるともう強制的に、毎度延長された。そのとき労働者たちを樺太に定着させるために、家族を呼ぶことが許可されました。そこで親父は家族を呼んで、1930年1月に私が生まれたわけです。 |
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1945年8月15日、日本が敗戦となったとき、地元の日本の行政府が「朝鮮人は日本人より先に国へ帰れる」という噂を流しました。それで北のほうからみんな荷物かついで、子供を背負って、「大泊」(現コルサコフ)港に数千、数万人が集まってきたわけ。そのとき、ソ連とアメリカの間で引き揚げに関する協定ができて、日本人は1946年12月から帰国が始まり、1949年7月に完了しました。
ところが朝鮮人には、協定どころか何もなかったのです。文句を言うにも、ソ連の政府は「我々は分からない」と言う。戦争で2千万人を亡くしたソ連にとっては、サハリンにいる4万もの朝鮮人が労働力として必要だったのです。樺太にあった日本の行政府はなくなり、交渉のしどころがない状況のなか、私たちは「捨てられた民族」となったのです。
日本人の敗戦の悔しさは分かりますが、その八つ当たりが朝鮮人に来ました。樺太では敗戦の3日後の8月18日に朝鮮人17人、8月22日には朝鮮人27人が虐殺されています。
でも、日本が戦争で負けたことの責任が、朝鮮人にあるわけがない。そのとき私は14歳だったけれども、「内鮮一体」という言葉があった。「朝鮮と日本は一つの国、一つの身体」「あなたたちも皇国臣民だ」と言われていたのです。朝鮮人もそのとき戦争で勝てるように、一緒に日本人と労働していたにもかかわらず、そのように悲惨な事件が起きたのです。 |
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ソ連時代に市民団体や社会団体を結成するというのは、反ソ連運動と見られて許可が出るわけがなかった。でも、個人的に帰国運動をした方々はいました。日本政府、日本大使館、ソ連政府、赤十字社に「国へ返してください」「朝鮮半島に帰りたい」とずっと継続して手紙を出して、1962年11月、1965年1月には、サハリン市の内務局からやっと回答を得たんです。「日本が入国許可をするならば、ソ連出国を許可する」と。ところが日本政府は入国を許可しなかった。日本に帰りたいといっているわけではない。日本を経由して韓国に行きたいだけなんです。ソ連と韓国の間に国交はない時代ですから。
そういうことが続いた後で、日本に「樺太抑留帰還韓国人会」が設けられた。多くの人たちはそこに手紙を送り、6924人の名簿を作成したんですが、その名簿も日本政府は認めてくれなかったのです。
1976年6月には、4人の一世の老人たちにソ連政府から出国許可が出ました。それでナホトカの港まで荷物を背負って、そこで日本政府と交渉を始めた。「日本を経由して私たちの国に帰りたい、何とか渡航証明書を頼みます」と。でもとうとう渡航証明書が出ず、サハリンに戻った後、もうみんな死んでしまった。
その後、1987年7月に日本の国会議員たちによって結成された「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」は大きな力になりました。2000年には韓国に日本政府の負担で489世帯のアパートが建設されて、現在は年4回の韓国訪問が、1回70〜80人ぐらいの規模で、日本政府の人道的支援という形で行なわれています。 |
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我々は朝鮮半島に生まれて、朝鮮人として育てられて、1940年2月からは強制的に日本の姓名に変えられて、日本公民となりました。1950年からはソ連の公民になるしかなかった。いったい我々は何者なのか。やはりいまでも朝鮮半島に帰って、韓民族の公民として生きていきたい。これが私の望みです。こういう人たちがいま2000人から2500人います。いままで永住帰国できたのが1500人ばかりですが、問題は、永住帰国の条件は老夫婦だけだということです。子どもは連れていけないのです。老夫婦だけで行って一人が死んだら、残った一人の面倒は誰が見るのか。私たちは子供をサハリンに捨ててまで、離散家族をつくってまで韓国に行くことができない、というのがその2000人なんです。
それに、強制連行されて炭鉱で働いていた人たちは、労働賃金をもらっていない。2、3年働いて、毎月タバコ代ぐらいしかもらっていない。残ったお金は「強制預金」された。そのときの貯金通帳を、子どもたちは私たちの苦難を物語る証拠として、いまだに大切に持っています。親の金を返してくれと未払いの賃金を求めても、日本のほうでは具体的な返事をしてくれない。九州へ二重徴用された人の、サハリンに残った家族や子供たちは、親の墓を探したいとも望んでいます。どこで死んだのか、その消息を知りたいし、せめて我々が墓参りできる支援をしてほしい。 |
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韓国・朝鮮人を戦後サハリンに残留させたという歴史的事件について、基本的な日本政府の立場はこうです。1951年9月のサンフランシスコ講和条約発効以降、朝鮮半島住民は日本国籍を失ったので日本政府は賠償や補償の義務がないし、サハリン残留韓半島出身者を帰国させる政治的・道義的責任もない、と。でも、講和条約締結以前に46年12月から日本人だけ帰国させて、なぜ我々は残したのか。それで私たちが日本の国籍を失ったからもう関係ない、日本には道義的責任がないというのはまったく理解できない話です。
日本はいまドイツと一緒に国連安保理事会の常任理事国になるという運動をしていますね。それに反対するわけではないけれど、戦後処理をまだしていない日本にその資格があるのか考えさせられます。ドイツはロシア人やユダヤ人などに賠償していて、戦後処理をしっかりやっています。日本はサハリン残留韓国人たちの問題に対して、いまだに道義的責任はないといっているが、それでいいのでしょうか。
それから、私は日本の歴史教科書をめぐる動きにも、まったく賛成できません。たとえば教科書問題も、私たちの考えでは、過ちを犯した歴史は、過ちの通りに、実際にあったことをそのまま書き、どうして過ちを犯したのかを説明すればいい。それが後代への正しい教育になると思います。嘘を言って教育させるのは、正しいことではない。
サハリンで信頼ある新聞『ソビエツキー・サハリン』にも、最近「また日本が軍国主義に戻りつつあるのではないか」という解説がありました。竹島問題についても、「日本はまた島の問題で隣国と争うようになった」。つまりロシアに続いて、もう一つの隣国である韓国とも島の問題で激しく争うようになった、と書かれてありましたね。
日本の9条の問題は、個人の考えとしていいますと、いまなぜ軍隊が必要なのかと疑問に思います。冷戦時代もずっと『軍隊』ではなく、『自衛隊』だったわけですよね。私のパスポートはロシアのものですが、ソ連や社会主義国家もなくなって冷戦が終わった時代に、突然『軍隊』に変えるというのは、考え方がおかしいのではないか。なぜそれが必要なのか、しっかり考えてほしいと思います。 |