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伊藤真のけんぽう手習い塾(第63回)

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シリーズでお届けしている「非暴力」による「防衛」を現実的に検証していくコラム。
今回はそのもとになる考え方について紹介していきます。

いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら「伊藤真のけんぽう手習い塾」から生まれた本です。
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非暴力防衛、市民的防衛の出発点

市民的防衛の目的は、領土ではなく市民を守る

 前回、市民的防衛を考える前提として、その目的は形式的に領土としての国土を守ることではなく、市民の生命、財産そして自由を守る点にあることを確認しました。この点は、従来の軍隊による防衛が領土防衛を意味していたことからすれば、相当な意識の転換が必要かもしれません。

 非暴力抵抗による市民的防衛は、非暴力の手段によって市民が主体となって行う抵抗運動ですから、市民が生活していない無人島などでは、外国軍隊に侵略されたときにその時点では効果的な防衛はできないことを覚悟しなければなりません。

 そこでこうした国境警備に関しては、限定された軍事力をもって対応するべきだという考えもありえます。しかし、私はたとえ限定されたものであっても軍事力と評価されるような組織を持つことは、その弊害や危険性の方が大きいと考えますから、せいぜい強化された国境警備隊などの警察力によって防衛するにとどめるべきだと考えています。

 ただし、この点は議論の余地のあるところですから、市民的抵抗が効果的でない地域の領土防衛をどうするかは今後の検討課題とすることにします。

 まずは領土防衛よりも市民を守ることに重点を置いて議論を進めます。さて、非暴力抵抗による市民的防衛を考えるうえで、考えておくべき戦略の方向性、根底の価値観を確認しておきましょう。

 非暴力防衛を考えるに際して、2つの出発点があるように思われます。ひとつは原理的な非暴力防衛です。これは非暴力自体に原理的な価値を見いだし、そもそも人間のあるべき姿として、紛争を解決する際に暴力に訴えることがあってはいけないという考え方から導き出されるものです。ガンディーやマーティン・ルーサー・キングのように非暴力に対する強い信念を持った指導者の下で主張、実践されてきたものです。

「非暴力とは原理的にいえば、闘争の最中でも相手を敵視する見方を克服しようという行為形態である。」(寺島俊穂「非暴力防衛の思想」平和研究22号6頁)と表現されるように非暴力的な社会の構築をめざしていくもので、非暴力という手段がそのまま目的になっている考え方といえます。

 もちろん100%完全な非暴力の社会で人間が生きていけるわけはありません。人間が生きていくには人間以外の生命を暴力によって奪うことはある意味で避けられないことです。また、個人のレベルでの正当防衛を否定するわけにもいかないでしょう。

 ただあくまでも国家や集団のレベルにおいては、非暴力に徹することが原理的に正しいというわけです。私は戦争で罪のない人々が殺されることやある国家目的のための手段として人間の命が利用されることは正しくないと考えていますから、こうした原理的非暴力の考え方に共感します。

非暴力による防衛の方が、犠牲が少なく抵抗手段として効果的とする考え

 しかし、もう少し現実的に非暴力防衛をとらえる考え方もあります。戦略的非暴力と呼ばれるものです。非暴力による防衛の方が、暴力的手段による防衛よりも犠牲が少なくより効果的であるというプラグマティックな理由から非暴力防衛を支持する考えです。

「軍事技術の発達により一定の地域を中心にした防衛が有効である可能性は、たいていのばあい、ゼロになってしまっており、その結果、人民が自分たちの自由と社会を守るには、人民自身が主役とならねばならないという地点にまでわれわれは投げ出されてしまっている。」(ジーン・シャープ「武器なき民衆の抵抗」95頁)という認識のもとに、賢明な戦略と戦術によって市民による非暴力抵抗は、軍事力に代替する防衛手段となりうるという発想です。

 非暴力防衛の有効性への確信を高めることができれば、国家の政策として採用される可能性もあるという前提にたって、軍事的防衛から非暴力による市民的防衛に転換し、防衛の主体も国家から市民に移すことがもっとも防衛の効果があがると考えるわけです。

 このように非暴力防衛の出発点は原理的なものと戦略的現実的なものとあるのですが、私はどちらの価値観を前提とするものであってもよいと思っています。原理的にそれが正しいと考えようが、プラグマティックにとらえようが、市民の犠牲がより少ないのであれば、非暴力防衛の方法を真剣に検討するべきだと思うからです。

 さて、これまで一般的に、防衛とは軍事的防衛を意味し、防衛能力と軍事力は同一であり、軍事占領は敗北であり政治的服従と同義ととらえられてきました。しかし、こうした常識から一度自由になってはどうでしょうか。防衛能力を非軍事的手段によって高め、その目的を達成した例はいくつも報告されています。また、軍事的占領は、被占領国の政治的支配を当然のように可能にするわけではないこともわかってきました。

 侵略してきた外敵に、実効支配が不可能であることを認識させ、その占領意欲をくじくことによって、撤退を余儀なくさせるさまざまな方法もあるのであり、それらを検討してみる価値は十分にあると思われます。

「防衛とは軍事的防衛を意味し、防衛能力と軍事力は同一であり、
軍事占領は敗北であり政治的服従と同義である」。
その「常識」を疑ってみることから見えてくる、
新たな「市民による市民のための防衛」を検討していきたいと思います。


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