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伊藤真のけんぽう手習い塾:バックナンバーへ

伊藤真のけんぽう手習い塾(第61回)

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これまで「日本が軍隊を持つこと。そして文民統制について」
数回にわたり考えてきましたが、今週より、9条の理念でもある、
「軍事力によらない抵抗、非暴力による抵抗」を考えていきます。

いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら「伊藤真のけんぽう手習い塾」から生まれた本です。
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非暴力抵抗を考える

軍事力によらない抵抗を考える

 10万人が亡くなった3月10日の東京大空襲から63年になります。小田実さんの平和運動の原点になった大阪の空襲ほか、全国各地で敗戦まで無差別爆撃が繰り返されました。戦闘行為とは全く無関係な市民ばかりが犠牲になったのです。こうした国際法違反の無差別爆撃は重慶爆撃、ドレスデン爆撃、そして原爆投下など無数にありますが、戦争が始まってしまうと、非戦闘員の死者が圧倒的に多数であることがよくわかります。

 先日、一水会顧問の鈴木邦男さんに伊藤塾の「明日の法律家講座」で講演をしてもらいました。昔は、「こんな奴隷の平和に満足するのか」なんて言っていたそうですが、今は、「まず平和ですよ。」ということです。そして右翼も思想を国民に理解してもらおうとして運動するのなら、あくまでも言論でやっていかないとダメだと強調されていました。刺激的な話も聴けてとても勉強になりました。

 さて、これまでの検討で、この日本において軍隊を民主的にコントロールして、外敵から国民の生命、財産を保護するためには、極めて高いハードルがあることが見えてきたように思います。

 これからは、軍事力によらない抵抗について考えてみましょう。まず、軍隊を持たないからといって、なんの抵抗もしないわけではありません。右の頬を叩かれたから左の頬を差し出すというようなことは考えていません。こうした価値観や生き方を人に強制することができないのみならず、それによって、国民の生命、財産が守られるとは考えにくいからです。あくまでも市民の生命、財産を守るためにはどのような抵抗方法があるかを検討してみます。

個人として武器を持って闘うのはどうか?

 まず、日本が国家として軍隊を持たない場合に、市民が武装して抵抗することが考えられます。群民蜂起、パルチザン戦・ゲリラ戦と呼ばれるものです。憲法は国家権力を拘束するものですから、憲法で国家による軍隊や戦争を禁じたとしても、一人ひとりの市民が個人の自由として武器をもって闘うことは禁止されていないと考える余地があるからです。

 しかし、こうしたパルチザン戦・ゲリラ戦は戦闘員と非戦闘員の区別がはっきりしなくなり、あらゆる市民が犠牲になる危険性があります。侵略してきた敵側からすると、すべての人が民間人を装った軍人に見えてしまい、際限のない殺戮が繰り返されるおそれがあります。イラクではいまもこうした悲劇が繰り返されています。

 国家という組織による軍事的抵抗であろうと、市民による自発的、散発的な軍事的抵抗であろうと、暴力の連鎖が際限なく続く危険性があり、この方法が市民の生命、財産を守る最善の方法とは思えません。

 私はこうした市民によるパルチザン戦・ゲリラ戦も憲法9条は禁止していると考えています。それは9条の平和主義の理念に反するという理由だけではありません。仮に個人の幸福追求権として自発的に闘う権利があるとしても、正当防衛を越えて、パルチザン戦・ゲリラ戦を行うことは、あまりにも他の市民を危険に晒すため、内在的制約として許されないはずだからです。人権一般と同様に公共の福祉による制限を受けるということです。

非暴力による抵抗運動の議論は、あまりされてこなかった

 それでは軍事力や暴力によらない抵抗としてどのようなものが考えられるでしょうか。この点に関しては、これまでも様々な研究がなされています。しかし、それほど一般的なものになっていません。また、真剣にその可能性について政治家や国民の間で議論がなされたとは思えません。

 東大の長谷部教授は「憲法と平和を問いなおす」(ちくま新書)において、組織的不服従運動が成功するためには、「相手側の兵士の民度が高いという前提が必要」だとし、「結局のところ、組織的不服従運動が平和の維持と回復につながるという主張は、戦争と平和に関する問題の意義を劇的に小さくするほど、人類一般の理性と良識を信ずることができるという想定と結びついている。」そして「そこまで人類の理性と良識を信ずることはできず、・・・実効的に平和を回復する手段となるかは疑わしい」とされます(166頁)。

 私にはこの問題は、こうして簡単に切り捨ててしまうべきではないと考えています。人類の歴史の中で、非暴力による抵抗運動はさまざまな形で効果を上げてきていますし、その可能性はけっして簡単に否定されるべきものではないはずです。

 確かに、現実には他国から侵略される蓋然性がなかったとしても、その不安がある以上は、軍隊が必要だと思ってしまいがちです。人は理性よりも不安が勝ってしまったことによって合理的でない行動することが多くあります。

 そこで、こうした不安を除くためにも、暴力に代わる抵抗方法が効果的であることを知っておくことは必要です。次回から、ジーン・シャープ氏の「武器なき民衆の抵抗」(れんが書房)などを参考にしながら、非暴力抵抗運動の可能性とそれが機能するための前提条件などについて考えていきましょう。

国人の生命、財産を守るための非暴力による組織的な抵抗運動について、
きちんと検証し、可能性について議論することの重要性を塾長は指摘しています。
次回から、さらに具体的に考えていきます。


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