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伊藤真のけんぽう手習い塾

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安倍首相の突然の降板について、いろいろな噂や憶測が飛び交っていますが、
はっきりしているのは、私たち国民が選挙によって、「ノー」をつきつけたからです。
私たちが主権者である、ということを実感した
今回の「安倍退陣」だったのではないでしょうか? 

いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら「伊藤真のけんぽう手習い塾」から生まれた本です。
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第52回:安倍首相と私の夢

安倍退陣は国民の意思によるもの

 「夢はかなう。心から思い描いた夢は必ず実現できる。」
 毎日、受験生にこう言い続けてきました。先日、新司法試験の発表があり、多くの塾生が合格しました。旧司法試験をしばらく受けてから、法科大学院に転進した受験生がほとんどなので、勉強を初めてから5年から10年かかっている人もいます。憲法価値を実現できる良い法律家になってほしいと心から願っています。

 彼ら、彼女らの夢は人のために法律家になりたいというものでした。そうした高い理想をかかげながら夢を追いかける受験生たちを心から応援していました。

 同じ夢でも、まったく応援する気にならなかった夢を追っていた人が、道半ばで去っていきます。安倍首相です。思い描く夢が悪すぎました。戦後レジームからの脱却、美しい国、そして改憲。こうした人々を不幸にするような夢には天も味方しません。やはり、思い描く夢の質によって、天の助けを得られるか否かが違ってくるようです。

 最近、安倍首相の突然の辞任劇の背景に何があったのかさかんに取りざたされています。彼の首相としての業績をどう評価するのか意見が分かれるところですが、戦後、誰もできなかった多くの「偉業」を成し遂げたことは確かです。

 教育基本法改悪、防衛省昇格、そして国民投票法制定。これまでのこの国の有り様を大きく変えるトンデモ立法を次々、強行採決していきました。私たちは彼のこの負の遺産にしばらくは苦しめられるでしょう。しかし、ここで何とかくい止めることができました。あのまま突き進んでいたら、本当にこの国は壊れてしまったでしょう。

 あの流れを変えたのは憲法の力です。国民の力です。選挙で国の進む方向を変えることができるということを国民は実感することができました。国民主権の勝利であり、主権者の意思が政治にしっかりと反映することが実証されたのです。

 2005年の小泉郵政選挙では民主主義の怖さと脆さを実感し、今度の参院選では民主主義の力を実感しました。ただ、一つだけ気になることがあります。それはこの国で生活している多くの定住外国人の方々にとって、この選挙、安倍退陣はどのように映ったのだろうかということです。

定住外国人と選挙権

 言うまでもなく、日本では現在、外国人に選挙権はありません。この国で生まれ育ち、日本語を話し、税金を納めて、生活の本拠がここにあるにもかかわらず、選挙権がありません。政治に直接影響を与えることができないのです。

 2009年から始まる裁判員制度は、司法にも市民が参加するべきだという建て前があるにもかかわらず、選挙権のない外国人は参加できません。市民が司法参加して職業裁判官の独善を防ぐ、そのためには市民感覚を裁判に取り入れるべきだということなのですが、この国の市民であるはずの定住外国人は裁判員になれません。

 選挙権がないから、主権者ではないからということなのですが、そもそもなぜ外国人に選挙権がないのでしょうか。なぜ主権者ではないのでしょうか。そんなことは国民主権から当然だといわれてしまいそうですが、国民主権でいう国民を国籍保持者とする理由が本当にあるのかを考えていくと、話はそう簡単ではないことがわかります。

 明治憲法の時代、日本は多くの植民地を持っていました。朝鮮半島、台湾などを占領し、そこに住んでいた人々を大日本帝国の臣民つまり日本国民にしてしまいました。そして、帝国臣民として日本民族に同化させるため、日本名や日本語の強要、天皇崇拝などの皇民化政策がとられます。日本国籍を持つことになるわけですから、制限はあるものの参政権(選挙権、被選挙権)が保障されていました。

 戦後、日本はポツダム宣言を受諾し、台湾、朝鮮などの旧植民地に関する主権(統治権)を放棄します。その結果、旧植民地の人々は日本国籍を失い、外国人として生活することを余儀なくされます。これにより日本国内における生活実態は何も変わらないにもかかわらず、参政権は奪われました。

 戦前は、強制的に日本人とされ日本民族との同化を強要した上で参政権を認めていましたが、戦後は、強制的に日本国籍を奪い外国人として扱って参政権を認めません。日本で生活し、政治に関心を持っている実態は何も変わらないにもかかわらず、参政権があったりなかったりします。これはおかしなことではないでしょうか。

 そもそも、選挙権のような参政権は、民主主義を実現するための人権です。そして民主主義とは、治者と被治者の自同性という言葉で表されますが、その国で支配される者が支配する側に廻ることができる、つまり一国の政治のあり方はそれに関心を持たざるを得ないすべての人々の意思に基づいて決定されるべきだということを意味します。

 とするなら、日本で生活し、日本の権力の行使を受ける者であれば、その政治に関心を持たざるを得ないのですから、たとえ外国人であっても、それらの者の意思に基づいて政治のあり方が決定されるべきだということになります。

 つまり外国人であっても生活の本拠が日本にあるのであれば、選挙権が保障されるべきだということになります。このことは民主主義原理からはむしろ当然の要請なのです。

国民主権の「国民」とは?

 こうして考えてみると、国民主権というときの国民も日本国籍保持者に限定するべきではないことがわかります。民主主義原理からはそこに生活の本拠を有する市民を広く国民と考えるべきなのです。

 これは名古屋大学の浦部法穂教授が提唱された考え方ですが、私がもっとも納得できる考え方です。教授がこうした考えを初めて主張された時、学会でもかなり異端と見られたようです。それこそ外国人に参政権を認めるなんて、それまでの憲法学における国民主権の理解からは考えられない、きわめて非常識な結論だということだったのでしょう。

 しかし、その後、外国人にも参政権を認めるべきだという教授の考え方は、最高裁判例にも影響を及ぼします。外国人に地方参政権を認めることも許されるという画期的な判例を引き出します。これは地方自治レベルの選挙権ですが、それでも大きな一歩といえます。こうして憲法の学説も進化していくのです。

 「国民」主権の「国民」がこの国のすべての生活者を意味するときが必ず来ます。日本に生活の本拠がある外国人も含めてすべての生活者が当たり前に国政に参加できる日が来るべきなのです。男女平等や人身売買禁止のように、それを提唱することが過去においては非常識だったことが、現在、常識になっていることは多々ありますが、同じように、今、非常識でも将来、この国や世界の常識になっていることがいくつもあるはずなのです。

 9条もまたそのひとつだと確信しています。軍事力によらないで国民を守ろうとすることも非常識だと批判を受けることがあります。しかし、9条が世界の常識になる日が必ず来ると確信しています。

 もちろんこれらは私の夢にすぎないかもしれません。ですが、「夢は実現するためにみるものであり、心から思い描いた夢は必ず実現する」と、毎日、受験生に言っているのですから、自分でもそれを実践しなければなりません。日々の一歩一歩の努力の積み重ねを怠らないことだと自分に言いきかせています。

「選挙権」をはじめ、
日本に長くくらす外国人たちの権利について、
私たちは、もっと考えるべきでしょう。
塾長、ありがとうございました!


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