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新聞でも大きく報道された「自衛隊による市民運動の団体や個人への監視」。
防衛大臣をはじめ、政府関係者は「大きな問題ではない」と
深刻に受け止めてはいないようですが、
果たしてこの“事件”は、憲法上はどうなのでしょうか?
いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら。
陸上自衛隊の情報保全隊が、イラク派遣に批判的な団体や個人を監視し、情報を収集していたことが共産党の取得した内部文書によって発覚しました。医療費負担増反対や年金改悪反対の運動、春闘まで監視対象になっていましたし、市民団体や労働組合、地方議会、報道機関のみならず、高校生のグループまで含まれていました。そして、実名での記録や参加者の写真撮影も行われていたのです。
久間防衛大臣は、写真撮影について「マスコミの取材の場合はよくて、自衛隊ならだめだという法律の根拠はない」と答弁したそうです。これには驚きました。マスコミは私人であり、憲法の適用を直接受けないが、自衛隊は国家権力であるから、当然に憲法に拘束されるという憲法の基本中の基本をまったく理解していないようなのです。
こうした人間が防衛大臣をやっていられる日本の政治とはいったい何なのでしょう。この調子ですから、「隊員や家族を安心させることが目的だった」「訓令で情報保全隊に与えられた情報収集活動」と違法性を否定してなんら反省しないのは当然なのかもしれません。
本来、この情報保全隊は、自衛隊内部の機密が漏洩しないように調査する組織であったはずです。それが、国民の行動を監視し、そのプライバシーを侵害する行為を行っていました。さて、憲法的にはどのような問題があるのでしょうか。
まず、プライバシー権の侵害があげられます。憲法は13条の幸福追求権の一内容として、自己に関する情報をコントロールする権利としてプライバシー権を保障します。これは国家にみだりに自己に関する情報を取得されない権利を意味します。今回の監視と情報記録はこれを侵害します。
そして写真撮影は、肖像権の侵害です。最高裁も、「何人も、その承諾なしにみだりにその容貌を姿態を、撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が正当な理由もないのに、個人の容貌等を 撮影することは、憲法13条の趣旨に反し許されない」としています。そして、写真撮影が許される場合として、現行犯性、証拠保全の必要性、手段の相当性などの要件を課しています。
警察による写真撮影ですら、こうした厳格な要件のもとに認められるだけです。ましてや犯罪とは無縁の平和活動を捜査権のない自衛隊がみだりに撮影できる根拠はありません。肖像権の侵害であることも明白だと思われます。
そもそも国民が認めている正式な軍隊であれば、敵対情報について調査することは当然許される範囲内のことなのでしょう。しかし、自衛隊は正式な軍隊ではありません。政府の見解によれば、あくまでも自衛のための実力組織にすぎません。ましてやその存在自体が違憲という見解が憲法学説では通説になっているような組織です。そのような組織が明確な法律上の根拠なく、国民の人権を侵害するような行為をすることは憲法上許されません。
そして、そもそも今回の調査対象は自衛隊に対する敵対行為の情報ではありません。イラク派遣反対や年金改革反対といった国の政策に反対する勢力への監視行為です。これはどう考えても自衛隊の任務とは無関係と言わざるを得ません。自衛隊は政治的には中立でなければならないはずです。仮に家族を安心させる必要があるとしても、それはシビリアンコントロールの原則から言えば、政府が対応するべきことであって、自衛隊が内部で秘密裏に行えることではありません。
そして何よりもこうした自衛隊の行為によって、国民の集会や表現活動に対して萎縮効果を与えてしまう点に大きな問題があります。間接的に表現の自由への侵害となるのです。
こうした監視が行われ、その情報が国家によって保有されているとなると、市民は安心してこのような集会に参加できなくなります。学生など、もしこの情報が公務員試験に合格した後にマイナスに評価されたらイヤだと思ったり、裁判官や検察官をめざす学生は司法試験に合格した後の任官する際に不利益に扱われないかなどと心配したりしてしまいます。
もちろん、これらが杞憂であったとしても、本人がこうして萎縮してしまうようなことを権力側が行うこと自体が問題なのです。自由な表現が保障されない社会は健全ではありません。自分の言いたいことが自由に言えないような社会や、権力に不都合なことを言いよどんでしまうような社会は、憲法がもっとも嫌う社会です。
先月、成立した国民投票法でも、公務員や教育者の地位利用による国民投票運動が禁止されました。どのような場合に許されるのかその基準が極めて不明確です。これも典型的な萎縮効果が生じる場合で、表現の自由の侵害となります。憲法論的には文面上無効といって、このような不明確な文言による規制は、法文の文面自体が無効で効力がないという主張もあるほどです。
どのような国民投票運動をすると懲罰されるのか、予想がつかないのでは安心して行動できません。本来、許されるような行為まで萎縮して自制してしまいます。これでは自由な国民投票運動はできません。
自由で民主的な社会であるためには、権力の側は自分たちに都合の悪い表現行為であっても、それを認める度量を持たなければなりません。民主主義はそうして発展していくのです。
「国家機関に監視され、ブラックリストにのる」一般の市民なら、
そう思うだけで、萎縮し自己規制してしまうのではないでしょうか。
果たしてそんな社会が民主的で健全なのでしょうか。
とても見逃すことのできない今回の問題です。
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