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伊藤真のけんぽう手習い塾
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いよいよ間近に迫った統一地方選挙。
その投票についての考察をとっかかりに、
憲法改正国民投票の「発議」について考えてみます。
いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

統一地方選挙
価値基準によって異なる判断
 当選する人が複数となる選挙(大選挙区制)の場合にはあまり鮮明に問題とならないことが、一人を当選させる小選挙区制になると話題になることがあります。知事などの首長を選ぶ際も一人しか当選しませんから、小選挙区制と同様の問題が生じます。

 たとえば、知事選において、現職のA、対立候補のB、Cの3者が争っています。Aに不満を持つ人から、反Aで一致団結するべきで、Cは立候補するべきではないとの声があがることがあります。Cに投票する人がでてくると、反Aの票が分散してしまい、結果的にはAを当選させることになってしまうというわけです。これに対してCを支持する人からはなんと失礼なことだと非難の声があがります。

 これは、反Aという立場にどれほどの価値を置くのかというその人の価値判断の問題です。自分がCに投票したことで、結果的にAが当選したとしても、それは仕方がない。Aに投票した人が多かったのだから、その結果は受け入れるべきだという価値観の人は、Cが立候補せずにBに投票せざるをえないくらいなら、Aのままでよいという価値基準で判断していることになります。

 つまり、Aは気に入らないけれど、それは妥協して受け入れるということです。AもBも、Cと比べたら同じようなものだと考えているわけです。ちなみにCが立候補しないのなら棄権するという選択肢も同様の価値基準と判断されます。Aのままでよいということです。

 Cの立候補をやめるべきだと考える人は、Aでないことに意味があるという価値基準を持っていることになります。Bは気に入らないけれど、それは妥協して受け入れるということです。極論すればAでなければ誰でもよいということです。

 つまり、権力の座にいるものはつねに腐敗する危険をもっている、さっさと交替するべきだというわけです。国政における政権交代自体に意味があると考える立場と同様です。たとえ同じような人に替わったとしても、交替すること自体に意味があるというわけです。二大政党制も、大きく価値観が異なる政党の選択というよりも、たとえ微妙な違いに過ぎなくても、政権を交代させることで腐敗防止を図ろうという発想と考えることができます。

 結局は、その時点で自分自身の持っている価値基準が異なっているのですから、それは議論して一方が他方の考えの人の意見を変えていくしかありません。よって、こうした議論をすること自体は意味があります。

判断対象をどう設定するかで、結論は変わる

実はこうした問題は、あらゆるところで起きるものです。会社の中でも、いわゆる総論賛成、各論反対という言葉で象徴されるような事態は頻繁に起こります。この場合も、総論の課題よりも各論の課題の方が大切だという価値基準によって判断するのかというだけのことです。

 これが法律の世界では、裁判において深刻な結論の違いとなって現れます。 たとえば、裁判所の結論は、評議という裁判官どうしの議論によって出されますが、3人の裁判官のそれぞれの結論が分かれたときに最後は多数決で決めることになっています。

 A裁判官は有罪。B裁判官は正当防衛で無罪。C裁判官は責任無能力で無罪。
 このとき有罪無罪の結論で多数決をとると2対1で無罪になります。理由ごとに多数決をとると、正当防衛だという裁判官は1人だけですから、否決。責任無能力という裁判官も1人だけですから否決。よって、被告人は有罪となります。

 この場合には、刑事司法で重要なことはその被告人がその犯罪について、処罰されるべきかどうかですから、結論を基準にするべきです。それは正当防衛かどうかという点よりも有罪か無罪かの方が重要だという価値基準に立つべきだからです。

 ですが、犯罪ごとに結論が分かれた場合はまた別です。
 A裁判官は窃盗については有罪。詐欺は無罪。B裁判官は窃盗については無罪。詐欺は有罪。C裁判官はすべて無罪だとします。このときに、犯罪ごとに決をとると無罪。なんらかの犯罪で処罰するべきかという点で決をとれば有罪となります。

 しかし、現行法は「犯罪を犯すような危険な奴は処罰するべきだ。どんな犯罪でもかまわない。」という立場をとっていません。あくまでも具体的な特定の犯罪があるかないかを問題にして裁判が行われることになっています。この点で、「およそ被告人を処罰する」ということよりも「具体的な犯罪の成立」の方が重要だという価値基準に立っていることになります。

 このように多数決で物事を決めようとする場合には、どのような判断対象を設定するかが重要な意味を持ってきます。選挙の場合には、国民自身が先のような議論をして立候補者を絞り込んだり、または何人か並立して票が分散することもやむなしという意思決定を国民自らが行うことができます。

 こうした議論自体が国民相互の価値基準の違いを際だたせ、さらに議論を深めていく上では重要な意味を持っているといえます。

どのようなくくりで「改憲」を問うのか

しかし、国民がこのように判断対象を自らの意思で設定できないときには、問題はより難しくなります。国民投票において、国民が議案を発案できるのであれば、国民自身がどのような判断を求めるのかを設定できますから、先のような議論をして国民投票にかける議案を深めていけばいいということになりますが、憲法改正国民投票の際には、国会が発議することになります。その際にどのような議案として発議されるかがより重要な問題となってきます。

 よく、新聞の世論調査として行われるように、改憲自体について賛成かと問われれば、賛成。しかし、9条改正はどうかと言われると反対という人もいるはずです。また、9条1項を残して2項削除は賛成だけれど、自衛軍の創設には反対という人もいます。自衛軍の創設には賛成だけれど、国会の承認が不要となっている部分には反対という人もいます。

 このときにどのようなくくりで国民の判断を求めるのかは、発議する国会の権限となります。 発議された場合、国会議員の多数派は当然に改憲賛成となっていますから、改憲が通りやすい方向でのくくり方をすることになります。

 憲法改正国民投票の際には発議された議案ごとに個別に、国民は自分の意思が反映されているかどうかを判断して、妥協できる範囲内のくくり方になっているかによって賛成、反対の意思決定をします。

 「軍隊を持つことには反対だけれども、自主憲法制定自体に意味があるのだから、賛成」という人もいれば、「国民自らが憲法を作ることには賛成だが、軍隊を持つべきではないから反対」という人もいて当然です。

 それは、人それぞれの価値観に優先順位があるからです。内容はどうあれ、自主憲法自体に意味を見いだす人と、自主憲法という手続的な問題よりも軍隊を持たない憲法という内容に意味があると考える人の違いです。要するに自主憲法と軍隊を持たない憲法のどちらがより重要であると考えるかということです。

 たとえ、条文ごとに投票することになっても同じ問題は生じます。たとえば、自民党新憲法草案9条の2で自衛軍を創設することになっていますが、2項での文民統制は「国会の承認は必ずしもいらない」という骨抜き文民統制になっています。この9条の2という条文についても、「1項で自衛軍を持てるのなら、多少、2項の文民統制が緩くてもいいや」と考えて賛成する人、「1項で軍隊を持つことには賛成だけれど、こんなずるずるの2項による文民統制では危険だから反対」という人に分かれることになります。

 仮に項ごとに投票する場合でも同じです。9条の2の3項についても、その中には、@国家を守る活動、A国際的な活動、B治安維持活動と3つの自衛軍の活動が規定されています。そのうちの@には賛成だがAは反対とか、@Bには賛成だがAには反対とか、いろいろな声があるはずです。

 さらにAの国際的な活動には賛成だが、自衛軍の派遣を法律で自由に決められる点については反対という人もいます。つまり、 どこまで細かくしても必ず、総論賛成、各論反対という人がでてくるのです。結局はどこで妥協できるかの判断を投票権者が求められているということです。

 そして、その判断には投票権者が自分の中で物事の優先順位を決めることができるだけの判断材料が与えられていて、かつ、その判断ができるだけの知性を備えていることが必要となります。

発議の際の議論にも、国民は積極的にかかわるべき
 発議の決議事項のくくりが大きければ大きいほど、国民としては妥協を迫られる範囲が広くなります。その分だけ、国家の暴走を許すリスクを背負うことになります。

 憲法は国家権力に対する歯止めですから、できるだけ国民の意思が正確に反映し、国家が好き勝手をしないように歯止めをかけていかなければなりません。すると、可能な限り個別の判断を求めるようにすることが必要だということになります。つまり条文ごとでなければなりません。ただ、あくまでも例外的に一体として判断せざるを得ない条文だけが例外的にセットとして発議されるべきです。

 ある程度のまとまりとしてのくくり方を国会が決めることができるとすると、発議の仕方自体が恣意的になってしまう危険もあります。そして、発議の際の議論から国民は積極的に関わっていかなければなりません。たとえ、個別の条文ごとの発議であったとしても、どのような条文にして発議するかは前述したように投票権者の判断に影響を与えてしまうからです。

 確かに憲法96条は国会に発議権を与えていますが、これは、国民が直接、発議することが事実上難しいので、便宜上、国民の代表者である国会に行わせているにすぎないと考えなければなりません。あくまでも国民に憲法改正権があるのであって、国会にはそのような権限はないのですから。

国民の意思を正確に反映した国民投票結果を得るには、
「発議」の段階から国民が声を上げてかかわっていくことが大切。
そして投票にあたっては、国民が優先順位を決めるための十分な判断材料と、
それを吟味し判断できる国民自身の知性が必要になる、と塾長は言います。
安倍内閣が憲法改正に向けて「国民投票法案の早期成立」を掲げる今、
しっかりと胸に刻み込んでおきたいことの一つです。
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