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2006年11月30日に大阪高裁で住基ネット違憲判決が出ました。初めて高等裁判所レベルで違憲判決が出たものです。個人情報を利用する国の事務が270種を越えて拡大し続けており、目的外利用を中立的な立場から監視する第三者機関がないことなどから、行政機関が住民票コードという11桁の番号をマスターキーのように使い、個人情報が際限なく利用されていく危険性があると指摘しました。そして、これは住基ネット自体の欠陥であり、こうした欠陥から、多くの個人情報が本人の予期しないところで利用され住民の人格的自律を著しく脅かす危険をもたらすことから、住基ネットは住民のプライバシー権を著しく侵害するとしました。
憲法のプライバシー権に配慮した画期的な判決でしたが、とても悲しいことに、この判決を書いた竹中省吾裁判長が12月3日に亡くなりました。裁判官の心理的重圧は大変なもので、表にはでないが自殺される方が多いという話はよく聞いていたもののショックでした。私は直接には存じ上げませんが、住民側が勝訴したいくつかの重要判決にお名前があり、人の痛みがわかる裁判官だったと惜しむ声があがるのは当然だと思いました。ご冥福をお祈りします。
その直後の12月11日には、名古屋高裁金沢支部で合憲判決が出ました。これは2005年5月30日に金沢地裁で出た違憲判決を覆したものです。このように裁判所でも判断が分かれてしまう問題ですが、また機会を改めて検討したいと思っています。
ただ、このシステムが行政によってひとたび悪用されれば、住民票コードを利用して、住民個々人の多面的な情報が瞬時に集められ、比喩的にいえば、住民個々人が行政機関の前で丸裸にされてしまう恐れがあります。こうして個人情報がすべて政府に把握されてしまうということは、国家と個人が支配・従属の関係になることを意味します。
この住基ネットや教育基本法の改悪、そして共謀罪など、国家が国民を管理し支配する仕組みが着々と整いつつあります。その先にあるものが何なのかをしっかりと見極めることが必要です。 |
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さて前回に続いて、国民投票手続法の話を続けます。
国民投票運動はできるだけ規制しない方がよいと言ってきました。公務員による運動も、教育者による運動も規制せず、もちろん、外国人によるものもマスコミによる報道も、規制するべきではありません。とくに公務員については、現在でも国家公務員法による規制がありますから、それをはずすことも重要です。
このように国民投票運動は原則として、自由に行われるべきものなのですが、ひとつだけ例外があります。それは有料の意見広告です。コマーシャル放送といってもいいのですが、まず、テレビ、ラジオなどの電波メディアを利用した意見広告は賛成反対を問わず一切禁止するべきだと考えています。
与党案では、投票日の7日前から広告放送を制限するとしており、かつての民主党案では規制しないとなっていました。最近の議論では14日前から規制したらどうだろうかという意見も出ているそうですが、私は一切許すべきではないと考えています。
確かに投票日直前は議論も活発になり、表現の自由という人権の観点からは、これを自由にするというのが一つの考えであることはわかります。
しかし、これを自由にしてしまうと、冷静な判断ではなく、情緒に訴えるマインドコントロールが行われてしまいます。冷静に合理的に判断することが民主主義の前提ですから、その前提が成り立たないことが予めわかっているのであれば、それを規制するのは当然のことです。
どのような広告が流されようとも、それを見て判断するのは国民だし、それで正しい判断ができなくても国民主権の建て前上、仕方がないと突き放すのは正しい態度ではありません。
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まず第1に、事柄の重大さを理解していないと思われます。何度か強調しているように、憲法改正国民投票は通常の法律案の国民投票や地方の住民投票とは意味が全く違うものです。一度、不適切な改訂を行ってしまったら、そう簡単には元に戻すことはできません。壊してしまったらもう戻せないようなものを壊すときに、慎重であれというのは合理的なことです。
第2に、表現の自由の名の下の国民への洗脳は許すべきではないということです。スポット広告は情緒に訴えて、考えさせないキャンペーンです。これは民主主義とは違うものと考えておいた方がいいと思います。このようなあらかじめわかっている弊害は除去しておくのが懸命です。
そもそも、民主主義万能ではいけないというのが、立憲主義の考え方の基本です。そのときどきの多数の国民も過ちを犯します。だから、そのときどきの多数に歯止めをかけるために憲法が存在します。
その憲法を変えようとするときに、単に多数の国民が理性的に判断できなかったとしても国民が賛成したのだからそれで仕方がない、と突き放すのはけっして立憲主義に理念にかなっていません。
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多数に歯止めをかける憲法の改正を、多数決で行わなければならないというジレンマをどう克服するかが、この国民投票手続の設計に課された重要な課題なのです。
国民主権なのだから、国民が愚かであった以上は失敗しても仕方がないというのでは、そもそも憲法などいらないと言っているのに等しく、またそれは、民主主義万能論であり危険です。ヒトラーも含めて民意を背景にしたものはすべて正当化されてしまう論理であり、とても賛成できるものではありません。
国民投票を頻繁に行うスイスでも、テレビ、ラジオなどの放送媒体によって賛否を訴える意見広告は全面禁止となっているそうです。
こうした理性的判断を奪うような放送媒体を通じた広告は、全面禁止にするべきだと考えていますが、もうひとつ、資金力にものをいわせる有料広告として活字媒体を利用したものがあります。
テレビのスポット広告は30秒500万円くらいするそうですが、新聞の全面広告も3000万円くらいするそうです。これでは、資金力のある者による意見が圧倒的に増えてしまうことが懸念されます。とくに現在は財界が9条を変えて軍隊を持ち、軍需産業への発注が増え、武器輸出ができることを多いに期待していますから、改憲キャンペーンへ提供される資金力は膨大になるでしょう。
企業による政治献金を株主代表訴訟によって抑制するなどの個別の措置をとって対抗することは当然としても、それとは別に、資金力による不平等が生じないように一定の制度的枠組みを設けておくことは必要なはずです。
活字媒体であっても、単に資金力格差の問題だけでなく、新聞や週刊誌を通じた徹底したキャンペーンによるマインドコントロールの危険性はやはりあるのですから、最低限の規制は必要だと考えます。
もちろん、市民によるミニコミ誌やフリーペーパーなどの媒体によるものは、賛成、反対を問わず自由に認めるべきですが、一定の商業誌を通じての有料意見広告は、賛否が対等な形で掲載されるように規制しなければフェアな制度とはいえないでしょう。
同様に政党が行う無料の意見広告も当然に、賛否が対等に扱われるものでなければなりません。議員数によって時間枠や掲載枠の大きさが決まるのであれば、とても公正な制度とはいえません。
国会は発議をするところまでが仕事であり、そこから先の国民投票に対しては一切、影響を与えることはできません。国会の発議を受けて、有権者の集まりである国民が、一種の国家機関としてゼロベースで国民投票において判断することになります。この国民の意思決定に影響を与えることは国会の権限として認められていないからです。
賛否について意見や情報が公平に国民に伝わってこそ、国民は正しく判断できるのであり、手続の正当性が確保されるのです。一方の主張のみが過度に強調されて伝わることがないように配慮しければならないことを再度確認しておきます。
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