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先週に引き続き、教育基本法について検討を続けますが、「国旗と国歌」に関する先の東京地裁判例が出た後、石原都知事と東京都教育委員は、まったくこれまでの姿勢を変えようとはしません。たとえば、石原都知事は都議会の代表質問で以下のように答えています。
私は、共産党でもありませんし、日教組でもありません。ですが、あの判例に喜んでいます。もちろん、「生徒に日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てる」ことが重要だと言っている部分のように、賛成できないところもあります。ですが、日の丸、君が代の歴史を正しく捉え、それを前提に思想良心の自由の侵害として、違憲判断をした点は高く評価されるべきものだと思っています。
また、石原都知事の発言の最後の部分ですが、たしかに「公務員は法令に従う義務」があります。しかし、それ以前に彼も含めて、憲法に従う義務があります(憲法99条)。法令よりも憲法の効力が上であることを、憲法の最高法規性といいます。憲法98条1項は「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」とします。よって、まずもって憲法に従わなければいけないのですが、その本質が理解できていないようです。
ところが、この判決にもかかわらず東京都の姿勢は一向に変わりません。これはどうしたことでしょうか。なんのための裁判だったのでしょうか。これは素朴な疑問だと思います。
日本は三審制をとっていますから、裁判の結果に不服がある人は、上訴してさらに争うことができます。これは判決に賛成の人でも甘受しなければなりません。制度としては、一方に不利になる形で上訴を制限することはできません。特に憲法判断は、最高裁が終審であると憲法に定められていますから(81条)、憲法問題を地裁レベルで終了させるような制度をつくることは憲法違反になります。
結局は、国や自治体相手の裁判の場合には、政治家の見識に委ねられることになります。この判決に対して上訴してきたことも含めて、都政や都知事の見識を住民が判断するということになります。残念ながら裁判は万能ではありません。選挙や世論などの政治過程によって政治を変えていくという方法が、必要な場面もあるのです。地道で時間がかかりますが、そうした主権者の行動によってよりよい社会をめざすことが、民主主義国家のあり方です。
もちろん、裁判所という公的機関の判断であることは事実なのですから、私たちがそれを根拠に自分たちの主張を強化していくことは十分に可能です。そうして積極的にこの判決を活用していけばよいのです。
さて、今回は前回に引き続き、政府提出による教育基本法案の5条から検討していきましょう。前回同様、現在の教育基本法(以下「現行法」)と2006年4月28日に政府が国会に提出した教育基本法法案(以下「法案」)を比べながらみていくことにします。 |
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5条では、義務教育について9年という期間を削除し、法案では、「別に法律で定めるところにより」として教育期間を弾力化しています。飛び級を認めていくこの制度は、一見合理的に思えますが、その背後には競争社会、格差社会、勝ち組・負け組といったやさしくない社会をめざす発想が見て取れます。義務教育においてこうしたことが必要かは、もっと議論するべきなのではないでしょうか。
法案の5条3項には「国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。」とあります。水準の確保という点が気になります。旭川学力テスト判決(最高裁昭和51年5月21日)などでも、全国的に一定水準を確保すべき強い要請があるとして、教師の教育の自由を制限しました。全国一斉学力テストなどにより、学力という一元的な評価で序列をつけることが、ますます進むのではないでしょうか。子どもの多様性を踏まえて、多元的に子どもをみていくことが、憲法の理念に合致する教育のはずです。
現行法5条の男女共学が削除されました。ジェンダー問題や夫婦別姓など性や家族の問題について、世界の趨勢から取り残されつつある日本で、男女共学は役割を終えたと言っていいのでしょうか。どうも封建的な昔の日本に郷愁を感じる人たち、つまり男女の職能分担や役割分担を押しつけたがっている人たちの価値観と共通するものがないか、しっかりと検証しなければなりません。
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法案では10条で家庭教育が規定されました。そもそも家庭教育という本質的に私事に属することを法律で規定することがよいのかという問題があります。もちろん家庭教育に問題がある場合もあるでしょう。ですが、だからといって国が家庭の中にまで入り込んで、習慣を身につけさせろということが妥当なのかは疑問です。もっと根本的な原因を見つけて解決するために国のなすべきことはあるのではないでしょうか。
なぜ家庭で、親が子どもたちに生活のために必要な習慣を身につけさせてあげることができないのか、夫婦とも働いているからではないか、安心して子育てができる環境にないからではないか、子どもの育児や教育に関わる余裕がないからではないか、親自体が何か問題を抱えているからではないか、そうしたことも含めて、家庭教育と国家の関わりは、安易に国に頼るような仕組みにしてはいけないと考えます。
13条で新設された「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」という項目のめざすものは何なのでしょうか。確かに地域社会の中で、学校を地域の住民が皆で見守り発展させ、子どもを地域で育てていくということは大切です。ですが、一方で安倍首相は教育バウチャー制という地域の連携を壊してしまう制度を、導入しようとしています。目指そうとするところがわかりません。
しかも、学校、家庭、地域住民で協力というだけでなく、そこにさらに「その他の関係者」が相互に連携し協力することになっています。この「その他の関係者」とは誰なのでしょうか。実は地域で学校を支えていくというよりも、いざというときに学校での教育を核として、地域と家庭と警察や自衛軍などが連携をとっていけるようにするための布石ではないか、と勘ぐってしまいます。
地域の自警団の団長さんなどがやってきて、軍事教練まがいのことを子どもたちにしている姿を想像してしまうのは、私の妄想にとどめておきたいものです。
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最後に、現行法10条では教育行政に歯止めをかけています。まず、教育は「不当な支配に服することなく、国民全体に対し、直接に責任を負って行われるべきもの」として、教育の責任の名宛人を国民としています。つまり教師は、国民の負託によって主権者たる国民に教育の責任を負います。
法案ではこの規定を削除します。誰に責任を負うのかわかりません。それどころか、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とすることによって、法律に従うことが、あたかも責任を果たすことであるかのように規定されます。
教育内容についても法律で規定され、愛国心を始めとする内心についても教育内容として一定の価値を押しつけられ、教師を法律で縛ると同時に子どもたちを教育によって国家の望む国民に仕立てあげていきます。もちろん、そうした法律も憲法に反することはできませんが、憲法が公益を重視するように変わってしまうと、憲法違反の主張も困難になります。
さらに、現行法10条2項にある「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を、目標として行われなければならない。」という規定を削除しています。教育行政は条件整備に限られるのだという基本的な立場を変えてしまいます。そして、法案では、教育行政は「公正かつ適正に行われなければならない」として裁量の余地がきわめて広い規定をおきます。裁判所で争っても、「それは行政裁量の範囲内であり違法とはいえません」という判断が連発される危険があります。
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さて、目立つところだけを見てきました。他にも中央と地方の関係などの問題もあります。ですが、一番問題なのは、教育を国家の都合のいい国民に仕立て上げる道具として利用しようとしている点です。憲法は一人ひとりを、主体性をもった、自立した個人として尊重することを、根本価値としています。憲法13条の個人の尊重です。
それをより広め、実現していくことが教育の目的であり、国民が幸せになる方法だという発想に立っているのが、現行の教育基本法です。確かに、これまでは教育現場で、正しい憲法教育が十分に行われてきたとはいえないかもしれません。ですが、今多くの地域において教師の方々が憲法を学び、実践しようとされています。
そうした現場の実践と工夫によって、教育は改善されるべきなのであり、上からの押しつけでよくなるものではありません。現在の日本のどのような問題を解決しようとしているのか。そしてその問題の原因がどこにあるのか。こうしたことをしっかりと議論しないで、なんでも教育基本法と憲法のせいにするのはあまりにも安易です。また、それではなんの解決にもなりません。かえって悪化するだけでしょう。
政治や官主導の教育改革に翻弄されて、いかにそれが現場を混乱させ、教師を疲弊させるかはこれまでの実績を見ても明らかなはずです。何が一人ひとりを幸せにするための教育としてふさわしいのかを、本気で考えないと大変なことになります。
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