|
|
|
安倍政権は新憲法制定とともに、教育改革を最優先にするということで、教育基本法を改悪しようとしています。先日、東京地裁で出された君が代・日の丸強制違憲判決でも、東京都教育委員会の通達や指導は国旗・国家を事実上強制するもので、教育の自主性を侵害する上、教職員に対し一方的な理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項で禁止される「不当な支配」にあたるとの判断がなされました。
前回は憲法19条の観点からこの強制がいかに憲法を無視したものであるかを論じましたが、今回は自民党による教育基本法の改悪がどのような内容のものか、その主な問題点を確認してみましょう。現在の教育基本法(以下「現行法」といいます。)と2006年4月28日に政府が国会に提出した教育基本法法案(以下「法案」といいます。)を比べながらみていくことにします。
まずは前文です。現行法では冒頭で「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、・・・この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」と宣言しますが、法案ではこの部分を削除しています。ここは日本国憲法の価値を実現することこそが教育の本質であることを述べた重要部分ですが、法案ではあっさり削除して憲法との関係を断っています。
法案ではむしろ逆に、「我々日本国民は、・・・国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。」という教育とは何の関係ない国家目標を掲げています。しかも、国家を発展させることを第1としています。国民は国家を発展させるためにあり、そのための教育だということなのでしょう。この時点ですでに憲法13条の個人の尊重に反しています。国民が国家を発展させるためにあるのではなく、国家が個人のためにあるはずです。
これに続いて現行法では「真理と平和を希求する人間の育成」とあるところが、法案では「真理と正義を希求」となります。平和よりも正義を求めるということですが、この2つでは目指すところがずいぶんと違います。正義の希求となると、正義のためには戦争も辞さない人間を作ろうということでしょうか。
さらに、法案では、「公共の精神を尊」ぶ人間の育成と、「伝統を継承」する教育を推進することが謳われます。自民党の新憲法草案でもその前文で、国民は「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を共有させられます。また、「公共の福祉」にかえて「公益及び公の秩序」という概念を持ちだして、人権制限の正当化根拠にしようとしています。こうした個人の自由よりも公益を重視する国家観を教育により植えつけ、文化も個性豊かな多様な文化よりも伝統を重んじる教育をめざしています。 |
|
|
次に1条では、教育の目的が規定されていますが、現行法では「個人の価値をたつとび」、「自主的精神に充ちた」国民の育成をめざしますが、法案ではこれらを削除してしまいます。そのかわりに、「国家及び社会の形成者として必要な資質」を備えた国民の育成をめざすことになります。つまり、個人のための国家ではなく、国家のための個人となっているのです。これまで繰り返し述べてきた憲法13条の個人の尊重とはまったく逆方向ということになります。
一人ひとりの国民が主人公で個人の尊重を実現できる主体的な人間を育成することよりも、国家のための資源としての国民を国家の都合のいいように育成することが教育の目的となってしまっているのです。
この部分は本当に大問題だと思っています。国民を個として尊重し、その主体性を育むのではなく、国家に従う従順な、国家にとって都合のいい国民として教育しようというのです。自由はないけれど、国のいうとおりに従っていれば安全に保護してあげるからいうことをききなさいという国民に仕立て上げられてしまいます。私はこれを奴隷の幸せと読んでいますが、「自立した個人の幸せ」がいいのか、「奴隷の幸せ」がいいのかは重要な価値判断です。
ときの権力者にとっては、国民が奴隷の幸せを求めてくれれば都合がいいのかもしれませんが、長い目で見たときには、それこそ国力を削ぐことになります。民主主義の実現はときの政府や権力者を国民がいかに監視できるかにかかっていますが、これではこの国の民主化もかなり遠のいてしまうでしょう。私たちはもっと自覚的にこの選択を意識しないといけません。
もちろん、奴隷の幸せの先に待っているものは、国家の都合のいいように使われる兵士です。憲法で戦争のできる国にすると同時に、消耗する人的資源の供給を教育が担うことになるわけです。
|
|
|
2条では、「教育の方針」が規定されていましたが削除され、「教育の目標」となります。目標となると、達成基準を明確にし、その達成度を測ることになります。教師を評価する際の成果目標の達成度においても威力を発揮することでしょう。国家が決めた個人の内心領域にわたるような事柄について、教育によって強制されていくわけです。
まさに教育内容に国家が介入することを正当化することになります。戦前において国家が教育内容に介入することで大きな失敗をした反省から、現行法は国家権力が教育内容に口を出すことを極力さけようとしています。それを正面から教育の目標として教育内容の法定化を肯定する規定をおくのです。
国家が国民のあるべき態度を法律で決めて教育によって強制してくるなど、立憲主義憲法の精神からは考えられないことです。国家の役割は何なのかを私たちはしっかりと考えないといけません。何でも国に頼ろうとする態度がこうした法案を生む素地になっているのでしょうか。
特に1号の「豊かな情操と道徳心」、5号の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」というところは問題です。
道徳や愛国心、郷土愛を国家が一律に決めてそれを押しつけ、評価することになります。愛国心の法定がいかに愚かなことかはここでは述べません。一点だけ、ひとつの基準を国家が定めてそれを押しつけることが、憲法的には大きな問題であることだけを指摘しておきます。君が代を歌う愛国心の態度もあれば、歌わない愛国心の態度もあるはずです。それを一律に強制することは、多様性を重視し個人を尊重する憲法の理念に正面から反することになります。
さらに「国際社会の平和と発展に寄与する態度」として何が望ましいのかは、政府がとっている方針によって決められるわけですから、たとえばイラク自衛隊派遣に賛成だという態度を取らずに反対デモに参加したりするとC評価になってしまいます。こうした問題についてこそ多様な意見をぶつけて議論することが教育の本質だと思うのですが、そうではなくなります。ここでも国の言いなりです。
子どもたちは評価が進学につながりますから、いうことを素直にきくのでしょう。教師もこうしたことが法律によって根拠づけられてくると、成果主義によって評価され処分されたときにものがいえなくなります。
|
|