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多様性が確保されて、異論や少数意見を持つ者が自由に発言でき、多数派もそれに耳を傾けることができる。そこで始めて民主主義は正しく機能します。為政者の見かけに惑わされたり、マスコミに踊らされたりすることなく、自分の頭で考える姿勢を崩さないことが大切だとお話してきました。一人ひとりの国民が自分の頭で考えて、自分の意見をもって行動できる自立した市民であることが民主主義の前提です。
これはいわば、当たり前のことであり、憲法の話としてここで私が言うようなことではないのですが、こうした当たり前のことを前提に憲法ができあがっているのだということを、再確認したくてあえてお話しました。
9・11以降、アメリカは変わったと言われます。もともと大統領という強大な権力をもったトップを国民がさらに後押しして、テロとの戦いを続けてきました。国民はイラクに大量破壊兵器が隠されている、アルカイダと結びついているというウソの情報を信じ込まされて、間違った方向へ誘導されてしまいました。マスコミも、一部を除いてそうした風潮を後押しして、自由な言論というアメリカの良識が失われてしまいました。
この5年間で世界のテロは4倍から5倍に増えてしまったそうです。軍事力や暴力は、テロ対策には何の役にもたたないということを実証してしまいました。このことは「日本も軍隊を持ってテロとの戦いに備える」という改憲派の主張の根拠を突き崩すという点では意味があったのかもしれませんが、その代償はあまりに大きかったように思います。
アメリカの大統領制は、もともと独裁の危険を持ちます。だからこそ、そこを議会や裁判所が大統領と対等な立場で抑制していくシステムが予定されています。ですが、そうした厳格な権力分立のシステムも、テロへの恐怖や間違った情報によって、国民が正しい判断ができなくなってしまったことでうまく機能しませんでした。
まさに大統領制の弱点が露呈したような形になっています。アメリカの大統領制では、大統領に民意を背景にした強い力を与えている反面、議会と裁判所にもホワイトハウスと対峙できるだけの権限を与え、大統領が率いる行政権の行きすぎを議会と裁判所がチェックし抑制するシステムをとっています。ところが、議会も国民の怒りと恐怖から生まれる排他的な愛国心を吸い上げて、ブッシュ大統領を後押しすることはできても、それを抑制することはできなかったようです。国民の圧倒的な熱気の中では、厳格な三権分立といっても機能しないのだなとつくづく思いました。 |
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一方、日本ではどうでしょうか。世界のどこよりも早くアメリカのイラク戦争を支持し、ブッシュ大統領との絆を守るために、憲法の枠を無視した自衛隊派遣でイラク戦争に加担してしまいました。私たちはイラクの民間人虐殺の加害者になったも同然です。そんな小泉政権をいまだに多数の国民は支持しています。
本来、日本が採用する議院内閣制という政治システムは、慎重な議論を経て行政運営がなされますから、暴走しにくいシステムであったはずです。ところが日本では小泉人気に支えられた内閣主導で、憲法の価値とは逆の方向へ政治が進んでしまいました。その行き着いた先が、五年以内の改憲をかかげる安倍政権の誕生です。
結局、どのような制度を採用しても、最後は国民しだいだということがよくわかります。国民とマスコミのあり方によってどうにでもなってしまうということです。これは民主主義の国なのですから、いわば当然のことかもしれません。こうした国民の熱気に流されて間違った判断をしないように、権力に歯止めをかけるために存在するのが憲法です。その憲法を民主主義や国民の声の名のもとに解釈改憲をしてしまったり、明文改憲を安易に進めたりすることがあっては、もとも子もありません。
憲法によって民主主義にも歯止めをかけていく政治、つまり立憲民主主義をうまく機能させるために、憲法自体が、さまざまな方法で権力の暴走をくい止めようとしています。三権分立がそのひとつであることは言うまでもありません。権力を相互に抑制、均衡させて、お互いを監視し合うようにしているわけです。
ですが、議院内閣制のもとでは、この三権分立による抑制均衡は少し変容を受け、弱まってしまいます。国会という立法権と、内閣総理大臣を長とする内閣つまり行政権は、三権分立の要請からは本来、別々であるはずなのですが、議院内閣制の下では、国会の政党の党首が内閣のトップを兼ねることになりますから、ここで国会と内閣が一体化してしまうのです。よくマスコミなどで、政府与党という言葉が使われますが、これは政府という行政権と与党という国会が一体化していることを示す言葉といえます。
ですから、議院内閣制をとるということは、政治部門の中における権力の抑制が働かない危険をもつことを意味します。そこで、国会と内閣の抑制均衡のかわりに、新たな権力の抑制と均衡の仕組みを作らなければなりません。
これまでの日本の政治では、良かれ悪しかれ、自民党の中にいくつかの派閥があり、その派閥間の抑制均衡がある程度の意味をもってきました。タカ派的な考えの議員もいれば、ハト派的な人もいて、極端に一方に傾かないようにバランスをとってきたのです。
それが、最近の自民党は、小選挙区制によって、選挙区で一人しか当選できなくなり、総裁や幹事長という政党の幹部に気に入られないと事実上当選できない仕組みになってきましたから、党首脳部の力がこれまでと違って格段に強くなり、党の内部に抑制均衡のシステムがなくなってしまいました。小泉政権にせよ、安倍政権にせよ、勝ち馬にのれという流れは止めることはできません。
そうだとすれば、新たな抑制均衡の仕組みをどこかに見いださないと、権力は腐敗するという格言どおり、政治は暴走し、国全体がとんでもない方向に進んでしまう危険性があります。抑制均衡の仕組みというのは、あえて権力を対立させて、お互いに検証させ合うということです。つまり、対立軸を明確にした仕組みということです。
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では、憲法はどのような対立軸の仕組みを予定しているのでしょうか。それが与党と野党の対立、衆議院と参議院の対立、中央と地方の対立という軸です。そして政治部門と司法部門の対立も重要です。憲法は、こうした権力の相互抑制システムを何層にも用意して、権力の集中による弊害を除去しようとしています。
小選挙区制は2大政党制や政権交代が起こりやすい選挙制度だといわれます。ある政党が大差で勝つことがありますが、ちょっとしたことで、逆転する可能性があるのが、小選挙区制です。与党と野党がときに入れ替わることによって、チェック機能を果たすことが期待されます。民主党など野党の頑張りがこれまで以上に重要になります。
また、衆議院と参議院という二院制も、国会の内部に権力分立の発想を持ち込んだものといえます。それぞれの院の任期の違い、選挙方法や選挙時期の違いによって、国民の中の異なった意見が国会に反映されるように二院制を作用しています。たとえ衆議院で与党が圧倒的な多数を占めていても、参議院が違った党派構成であれば、そのこと自体が抑止力として働きます。
そして、日本では、中央の議院内閣制に対して、地方では大統領制を採用しています。地方自治体の首長は住民が直接選ぶことができます。民意を背景にした首長の強力なリーダーシップのもと、住民の意見を迅速に行政に反映させ、その力をもって中央に対峙して、中央政府の権力を監視し抑制することが重要な役割として地方自治体には期待されています。政治権力をこうして中央と地方に分散させ、地方による中央への監視機能を果たさせることも地方自治制度の大切な目的のひとつなのです。
しかも、中央では議院内閣制をとり、衆知を集めての慎重な議論を行い、地方においては、大統領制をとって、迅速で強力な行政運営によって、住民の意見を政治に速やかに反映させることを予定しています。この役割分担はとても重要です。
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最後に、国会、内閣といった政治部門の暴走を止めるのは、司法部門つまり裁判所の役割です。裁判所は国民の多数派の意見に従うのではなく、法と理性に従った冷静な判断で、政治部門の暴走に歯止めをかける役割を担っています。裁判所が判決の中で憲法問題などについて積極的に言及するのは、まさに裁判所としての役割を果たすことなのであって、けっして出しゃばっているのではありません。むしろ政治に影響を与えるからといって憲法問題に口を出すことを差し控えすぎてしまうのでは、裁判所はその存在意義を失ってしまいます。
憲法は、権力が集中することによって国家として冷静な判断ができなくなり、政治が暴走して国民が不幸になることを避けるために、さまざまな手を打っています。ですが、こうした仕組みをうまく使いこなすかどうかは、国民しだいです。国民の監視が不可欠なのであり、どんなにすばらしい憲法であっても放っておいて自動的にうまく回るというようなものではありません。
野党が力をつけ、地方が力をつけ、裁判所が遠慮することをやめ、そして国民がしっかりとものを言う国が、真の立憲民主主義の国といえるのです。
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