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自民党の党首選は安倍晋三氏の一人勝ちのように報道されています。今回から数回にわたって政党と行政権のあり方について考えてみましょう。
そもそも憲法の中には政党は登場しません。ドイツのように政党について憲法の中に規定をおく国もあります。ドイツの場合には、ナチスの苦い経験から、憲法に反対する自由を認めませんから、政党も自由に憲法批判できません。国民とともに戦後できたドイツ憲法に対して忠誠を尽くす政党しか生き残れないことになっています。
自分の国の憲法を攻撃することが、政党や政治家によって堂々と行われるどこかの国とは大違いです。最近のドイツでは、愛国心というときに、運命共同体としての国家や、民族の集合体としての国家や伝統を愛するのではなく、憲法の定める規範つまり「自由で民主的な基本秩序」や「人間の尊厳」といった憲法価値にドイツ人のアイデンティティーを求めるべきだという考え方(憲法愛国主義)が評価されるようになってきているそうです。
独自の文化や伝統、そして民族にこだわって、ヒトラー・ナチスの台頭を許してしまったという大きな失敗を経験したドイツならではの考えですが、大和魂や日本民族、天皇制など文化、伝統へのこだわりを憲法に持ち込んで国家を論じようとする人が少なからず出てきている日本でも大いに参考になる考え方です。
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こうして民族や伝統にこだわらないで国家を考え、憲法を前提としていこうとすると、国民が同じ民族としての価値を無言のうちに共有できるわけではありませんから、必然的に議会で十分な議論を展開して政策を決定することになります。なんだかわからないうちに政治家が強引に政策を進めてしまい、あとから国民が「仕方がないなあ、まっ、いいか。」と事後承認するような政治の進め方では政権が持ちません。
激しい言論の応酬と、国民からの厳しい監視の目のなかで、説得的力のある議論を展開して、国民を納得させなければなりません。単なる感嘆符つきの短い言葉ではなく、論理によって国民を説得するような本当の意味の言葉の力が、政治家に求められるようになります。雰囲気や感性、感覚ではなく、論理で政治を見ることが求められます。
同じメンタリティーをもった同質的な社会では、ここまでのものは要求されないでしょうから、政治家にはぬるま湯でらくちんかもしれません。同質的な日本民族の集合体としての国家にこだわる人たちも、ひょっとしたら、議論や論理によって国民を説得する自信がないからかもしれないな、と思ってしまったりもします。
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そして実質的な議論が成り立つためには、多数派つまり政権党は自分たちの気に入らない少数意見や異論であっても、それを認め、討論の場でその価値を認め合うようでなければなりません。気に入らない言論を警察や検察権力を使って封じ込めるような偏狭な態度では議会制民主主義は成り立ちません。
たとえば、市民の防犯意識の高まりに乗じて、いわばそれを口実に実質的に言論を弾圧するような取締は、自由な議論を保障する民主主義に不可欠の公共空間をとても狭く息苦しいものにしてしまいます。
8月28日に東京地裁で出されたビラ配布無罪判決は、はっきりと表現の自由の価値には言及してはいないものの、憲法価値に配慮した妥当な判決と評価されています。それは、憲法を専門的に学んだ者しか理解できないような難しい理屈に基づくという意味ではありません。一定範囲での少数意見や異論の表明を認め合ってこそ民主主義は成り立つという、常識的なバランス感覚を持つ市民であれば、誰もが納得できる論理に基づくという意味です。
立川ビラ配布事件の際に論じたように、表現の自由には憲法上、優越的な地位が与えられています。それは民主主義にとって不可欠の価値だからです。そしてその価値を守るためには、市民同士がお互いに少しずつ我慢をしなければならないこともあるのです。自分にとって心地よくない言論であっても、それを表現することは認め合う寛容の精神がなければ、自由な民主主義社会は成り立ちません。
一人ひとりの人間の価値観や思想を含めてその多様性を認め、異論に耳を傾け、積極的に議論をしてこそ、社会は進歩します。ところが、ここ数年、日本では、メディアを利用した派手なパフォーマンスで国民を引きつけ、数の力で異論を封じ込めて、批判を許さないような政治手法が長く続きました。まるで議会制民主主義を否定するかのようです。しかし多くの国民はこうした手法をとる小泉首相を支持してきました。
行政のトップである内閣総理大臣と国民はどのような関係にあるのでしょうか。政党の憲法上の位置づけや議院内閣制という制度の仕組みを踏まえながら次回から少し検討してみることにします。
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