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個人の尊重が憲法の本質的価値であることをお話しました。
この個人の尊重は、「人は皆同じ」「人は皆違う」という2つの意味内容を持っています。今回は「人はみな同じ」という方について考えてみます。これは、人は生きているだけで誰もがかけがえのない価値を持っているのであって、それぞれの人として生きる権利は尊重されなければならないということです。豊かな人も貧しい人も、健康な人もハンディキャップのある人も、大人も子どもも、人種も性別も一切関係なく、誰もが人間として尊重されるべきだという考え方です。この世の中に生まれてこなければよかった子どもなど、ただの一人もいないということです。こうして言葉にすると当たり前のことのように見えますが、実際にこの日本でこうした考え方をみなで共有することは本当に大変なことだと思っています。
誰もが人間として生きる権利があることを認めるということは、どんな凶悪犯罪を犯した人も人間であるかぎりは、人として尊重することを意味します。凶暴な殺人犯であっても人間である以上は、人権があるのだと認めなければなりません。これはそう簡単なことではありません。ですが、そもそも人権は善人の権利を認めればいいというものではありません。たとえ犯罪者であっても、人間である、ただそのことだけで一定の権利があるのだということを認めなければならないのです。どんな悪人でも人権があるのだということ認める覚悟がなければ、人権を口にするべきではないということです。
そんな奇麗ごとを言って、自分の身内を殺されたときに、その犯人としてつかまった者を人間として尊重するなどとお前はいえるのかと問われたら、はっきりいって自信はありません。すぐにその場で殺して欲しい思うくらいの憎しみと怒りを持つかもしれません。ですが、それでもその者が裁判を受ける権利という人権があること、適正手続によって裁かれる権利を持っていることは認めなければなりません。人権には忍耐が必要なのです。皆がそうした忍耐を受け入れることが、文明国家であることの証となります。
もちろん、このことと被害者への物心両面にわたるケアが必要なこととはまったく別の問題です。被疑者・被告人や犯罪者の人権と被害者の人権を対立させてしまうことは、憲法や刑事訴訟法への知識不足からくる最もありがちな基本的な誤りですが、この点はまた別の機会にお話します。 |
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前にも述べたとおり、そもそも人権や個人の尊重という価値観はけっして人類普遍の原理ではありません。イギリスで人権が生まれたときには、それはあの島に住んでいる白人の権利でしかありませんでした。インドやアフリカの人たちのことはなどまったく考えていません。1789年のフランス人権宣言も、男の権利宣言でしかありませんでした。アメリカの独立も先住民の皆さんたちへの虐殺と略奪の歴史ですし、奴隷制や人種差別など当たり前の世界でした。いまだにアメリカもヨーロッパも人種や民族などの問題を抱えています。
そんなことは子どもでも知っています。人権は決して普遍的な価値ではありませんし、その時代時代に都合よく使われてきた概念にすぎません。ですが、そうした事実は人権が無意味だと決めつける理由にはなりません。このように普遍的な価値ではないけれども、それでも、人間には誰にも生きる権利がある。それを正当な理由なく奪ってはならないというルールを人権として作ったのです。
わがままな人間同士が共存していくためには、人権という価値を認め合って、お互いに尊重しあうというルールをつくることが必要だと考えたのです。あくまでも人間が共存していくためのルールであり、方便であり、フィクションです。そうしたルールを持たなければ力の強いものが勝つジャングルの世界と同じになるからです。人権は「である」という事実の問題ではなく、「べき」という当為の問題なのです。あくまでも、こうあるべきだと主張することが人権です。だからこそ、人権や個人の尊重を主張する価値があるのです。
自分の人権を認めてもらいたいと願うものは、他人の人権も認める覚悟が必要です。ときどき、一部の評論家や文筆家が、人権や自由を攻撃することがありますが、「人権なんていい加減なものだ」と主張することができるのは人権や自由があるからに他なりません。人権は誰もが持っているという本質を忘れてしまうと滑稽です。
たとえ、被疑者・被告人でも人権を保障されるべきだと考えるのは、いつ自分がそうした立場になるかわからないからです。いつ自分や自分の愛する人が無実なのに犯罪者として疑われ、不当な扱いを受け、処刑されるかわからないとビクビクしている社会は、けっして人々が幸せになれる社会ではないと憲法が判断したのです。「疑わしきは罰する」ではなくて、「疑わしきは罰せず」としたのです。
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そして、この考え方は、権力は過ちを犯す、警察や裁判官も人間である以上は間違いを犯すという避けがたい事実に基づいています。もし、全能の神が裁判をするのなら、「疑わしきは罰せず」つまり無罪の推定などいりません。不完全な人間が裁判を行う、不完全な人間が権力を行使せざるをない。そうした認識に基づいて憲法は、不当な権力行使から、人々を守るために、人権、そして個人の尊重という価値を保障しているのです。憲法や人権という概念自体が、人間の不完全性への謙虚さから生まれていることを知っておかなければなりません。
このように一人ひとりが人間として尊重されることが、個人の尊重のひとつの重要な内容だということになると、あくまでも一人ひとりが幸せに生きることができるようにするために、国家は存在するのだということになります。あくまでも個人のために国家があるのであって、国家のために個人があるのではありません。かつては国家のために個人が犠牲なることを強制されました。もちろん、個人的な価値観として国家のために、個人が犠牲になることはすばらしいと考えることは自由です。ですが、そうした価値観を認めるということと、それを国家が強制したり、教育によって国民を洗脳したりすることとはまったく別です。
あくまでも一人ひとりの幸せのために組織や国家が存在することを忘れてはなりません。たとえば、教育もあくまでも、一人ひとりの子どもが自立して生きていけるようにするために行われるべきものであり、ときの権力者が自分たちに都合のいい国民を育成するために行われるものであってはならないのです。
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