ホームへ
もくじへ
伊藤真のけんぽう手習い塾
最新へバックナンバー一覧へ
日本国憲法は、市民革命を経て生まれた西欧近代憲法の流れをくんでいます。
ここで規定される「国家とは?」「国民とは?」について、
塾長がていねいに教えてくれています。
いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

国民投票法について(その3)
 護憲派ではなく立憲派として
 いまの憲法は、総じてよくできた憲法です。特に統治機構の部分において、中央と地方の役割分担の発想など、とてもよく考えてあると感心します。また、これまで述べてきたように、私は憲法の積極的非暴力平和主義の考え方に賛同しています。とくに9条を今変えるのはまずい。大変にまずいと考えています。

 ただ、よく講演などでも話すのですが、私はある意味では護憲派ではありません。今の憲法をそのままでじっと守ろうとは思っていないからです。今の憲法も当然ながら、不十分なところはいくつかあります。たとえば、参議院の緊急集会は衆議院が解散されたときにしか召集できませんが、ほんとうは、任期満了の際にも対応しておくべきだったりします。

 まあ、どこの国にも完璧な憲法などありませんから、それは当然かもしれません。私がフランス人だったら、今のフランス憲法の本文にも人権条項ぐらいはほしいなあと思うかも知れません(現在のフランス憲法本文に人権条項はありません。前文に1789年のフランス人権宣言と第四共和制憲法が引用されているだけです。)。

 ですから、護憲派というよりも、自分では、立憲派と自認しています。そのときどきの憲法によって権力を拘束する立憲主義自体に意味を見いだしているからです。

 今の憲法の天皇制が気に入らないという人もいるかと思います。たしかに法の下の平等とはほど遠い制度ですし、その天皇が国民の象徴とは理解しづらい面があることも確かです。ですが、この天皇制自体も国民の総意に基づいているのですから、私たちはいつでもその内容を変えることができます。

 つまり、国民が天皇制をどのように維持しようと考えるのかによって、改憲などしなくても、世襲という点を除いて、いくらでも天皇制の内容などは変えてしまうことができます。それが国民主権の時代の天皇制というものです。ですから、私にとって天皇制はそれほど重大な欠点には見えません。

 私の考える現行憲法の最大の弱点は、天皇制などではなくて、西欧近代キリスト教社会を前提にして創られた価値観をベースにしているために、人間中心の憲法になってしまっているという点です。植物や動物のことは考えていません。この地球の生きとし生けるものを包含する大きな命という点からみれば、人間もその命の一つに過ぎないのですが、そうした謙虚さはあまり感じられず、あくまでも人間中心です。この点は個人的には少し不満です。

 弱点という言い方をしましたが、この人間中心という点は日本の憲法が西欧諸国の憲法の正統派の流れをくんでいることの証でもあり、優れた点でもあります。愛国心とか国家というものを考える前提にもなりますから、これから数回、この点について考えてみたいと思います。ちょうどワールドカップも始まりましたので、愛国心について考えてみるのにも良い機会です。
近代立憲主義の流れをくむ日本国憲法
 人間中心の思想は、憲法では、個人の尊重として表されます。これは中世立憲主義の時代(近代市民革命前)から市民革命を経て、近代立憲主義に至る過程で、「身分の特権を守るための憲法」から「個人の人権を守る憲法」へと憲法が変貌を遂げてきたことの結果として、西欧近代憲法共通の価値となりました。

 かつては、貴族や僧侶など、一定の身分をもった人の特権を国王から守るものとして憲法は生まれ、機能していたのですが、それが市民革命のあとは、一人一人の人間を個人として守るものに変わっていきました。身分として十把一絡げで把握されていた人間を一人一人の人間に着目して、捉えていくようになったのです。国民を身分や集団として一体的に捉えるのではなく、あくまでも個人として捉えるところに近代憲法の本質のひとつがあります。

 これまで何度も言ってきたように、憲法の本質は、「国家」の権力を制限して「国民」の人権を守るところにあります。そして近代の憲法の特質のひとつは、ここでいう「国民」を一人一人に着目して、個人の集まりとしてとらえるところにあります。これが個人の尊重です。

 もうひとつの特徴は「国家」を民族や文化、伝統から解放して、単純に権力主体としての国家として位置づけようとしたところにあります。それまでの国家は共通の文化や伝統をもったものとして捉えられることが多かったのですが、それを文化、伝統、民族などから切り離して、人為的に作り上げられた、抽象的な権力主体としての国家として意識しようとしたのです。

 憲法は国家と国民の関係を規律するものですから、こうして国民とは何か、国家とは何かをしっかりと考えておかないと議論がかみ合わないところが出てきてしまいます。まずは国民の方から検討していきましょう。

 私たちの憲法も、この個人の尊重を基本価値としていて、憲法13条前段は、「すべて国民は個人として尊重される。」と規定します。なお、ここでいう国民は日本で生活するすべての人という意味であって、国籍保持者には限られません。あらゆる人は個人として尊重されるという意味です。個人の尊厳とも、人間の尊厳ともいいます。

 人は誰もが同じように「人」として尊重される。また、誰一人として同じ人間はいないのであって、「個」として尊重される。人と違うことはむしろすばらしいという考えです。私はよく、人は皆同じ、人は皆違うと表現しています。次回はこの点をもう少し掘り下げてみることにします。
「人は皆同じであり、人は皆違う」。
憲法の本質の一つであるこの考えについて、塾長はこれまでたびたび語っています。
一見当たり前に思えるこの考え方ですが、今、このことがきちんと尊重される
世の中の方へと動いているかどうか、改めて考えてみたいと思います。
ご意見募集!
ぜひ、ご意見、ご感想をお寄せください。
このページのアタマへ