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伊藤真のけんぽう手習い塾
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いよいよ国会への国民投票法案提出か、という状況になっています。
しかし委員会で十分な審議がされたのでしょうか?
 国民の関心や認知度は高まっているのでしょうか? 
先ほどの特別委員会において、参考人として発言を
求められた伊藤塾長が、国民投票法について、
じっくり解説してくれています。
いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

国民投票法について(その1)
 「たかが手続き」ではない国民投票法
 5月18日に衆議院憲法調査特別委員会に参考人として出向いて、憲法改正国民投票法制の要否について話をしてきました。もうひとり、慶応大学法学部の小林節教授も呼ばれていました。私は護憲派、小林教授は改憲派と認識されているようです。小林教授とは9条についての考え方が違いますし、改憲を急ぐべきか否かについても逆の考え方を持っていますが、憲法の本質についての認識は一致していますので、懇意にさせていただいています。いろいろと教えていただくことも多く、法律家として教育者としてとても尊敬している先生です。

 たぶん、二人を呼んだ方としては、改憲派と護憲派でまっこうから意見が対立するであろうと考えていたのかもしれません。しかし、実際は、憲法の意義やイラクへの自衛隊派遣が憲法違反であること、愛国心教育がとんでもないことなどについて、ぴったりと意見が一致して、現政権のやっていることを憲法の本質から批判したものですから、聞いている方には新鮮だったかもしれません。

 特に、憲法とは、国家権力を拘束するものであって、国民に義務を課すものではないという点について、当たり前ですが、認識は共通します。そしてこの共通認識がない段階で改憲や国民投票法の制定に走るのは危険だというのが私の考えなのですが、小林先生も自民党の議員の暴走ぶりを見て、最近ではこのまま改憲するのはちょっとまずいかもしれないと考えられているようです。

 これから何回かに分けて、この特別委員会での議論に補足しながら、国民投票法について考えてみたいと思います。

 さて、私は、今、国民投票法の制定を急ぐべきではないという立場から、概略、次のようなことを話してきました。

 まず、国民投票法を「たかが手続法」として軽視するべきではないと考えています。法制度においては手続がすべてを決めることが往々にしてあります。裁判がその典型といっていいでしょう。たとえば、刑事手続きでも無罪の推定の原則が手続法にあるかないかでは大違いです。また、取調の可視化に警察が反対するのは、こうした手続だと処罰できなくなる可能性が高いと考えているからです。つまり、手続が内容の結果を左右することがあるのです。

 刑事手続きにおいて、犯罪者を一人も逃さないという目的を持つのか、一人の無辜をも処罰しないという目的を持つのかによって手続は変わってきます。このように手続は一定の目的との関係で常に存在するのであって、具体的な目的を持たない手続法を作ろうとしてもほとんど不可能です。

 そして、人間のやることで結果が正しいかどうかわからないときには、手続の正当性が重要となります。裁判の結果が正しいかどうかわからないからこそ、裁判手続は適性であるべきですし、多数決の結果が正しいかどうかわからないからこそ、審議討論という過程が重要となるのです。

 憲法改正の結果も、たとえ改正の限界内であったとしても、本当に国民にとって正しかったのかわかりません。だからこそ、手続が重要なのであり、改憲の正当性をまさに根拠づけるものとなるのです。たかが手続法といって軽視するべきではありません。

 特に、国論を二分するような憲法改正のときには、反対した側がその結果に従うことができるのは手続の正当性の裏付けがあるからこそです。納得できない手続のときには、双方の対立や溝は埋まらず、国民にとってそれは不幸なことです。
国民主権の具現化とは、多数決の意思の反映ではない
 つぎに、憲法改正国民投票法は、国民の意思を実現する法律であり、国民主権の具体化立法として位置づけられます。では、国民主権の具体化とはどういう意味でしょうか。

 単に国民の多数の意思が反映しているという意味にすぎないのかを考えておく必要があります。

 そもそも、通常の法律が少数者の人権を侵害しているときには、憲法に照らして裁判所が違憲判決を出して救済することができます。つまり、多数の横暴があっても、裁判所によって救済されうるし、憲法はこのように多数派から少数派を守るために存在するといってもいいわけです。

 ところが、その憲法が少数派を侵害するような内容となってしまったら、どうやってもその少数派を救済する方法がありません。自然法に反するといってみても事実上は救済できません。もちろん裁判所で判断できるようなことではありません。裁判所は法律が憲法に違反しているかを判断することはできますが、憲法が自然法に違反しているかを判断する権限などありません。

 もし、憲法自体が少数派の人権を踏みにじるようなものになったら、もう国民は圧政に耐えるしかないのです。ここに法律と憲法の根本的な違いがあります。同じ多数決でも、法律の多数決と憲法改正の多数決ではまったく意味がちがうのです。だからこそ、改憲の国民投票は慎重でなければなりません。

 こうした不幸な結果にならないために、多数派の国民は少数派の国民のこと十分に考慮して投票する必要あるのです。自分も少数派になるかもしれないと、少数派へのイマジネーションが不可欠です。十分な審議討論とともに、交替可能性へのイマジネーションを働かせて議論し、投票しなければなりません。

 たとえば、愛国心を憲法の中に入れ込んだとします。 あるとき法律で、君が代を歌うことが愛国心だ、歌えと強制されるようになります。これは歌いたくない人には苦痛です。 しかし、政権が変わり今度は、君が代を歌ってはだめだと、愛国心の基準が変わって、逆の強制が行われるようになりました。これは歌いたい人には苦痛です。 つまり、こうした人間の内面の信条に関することを国家が強制することは、誰にとっても不幸なことなのです。

 だから、国家がこうした人間の内心に立ち入ることはできないとすることが必要だし、むしろ憲法はそうしたことを禁じるためにあるのです。 憲法は誰が権力を握っても、その権力を拘束するものであり、特定の価値を押しつけるものであってはなりません。 憲法も国民投票法も、どのような政権党であっても拘束されるものであり、可能な限り価値中立的なものであるべきなのです。

 こうしたことを理解し、想像できる力があって始めて、国民投票の多数決で憲法を決められるのです。つまり、一人一人が成熟した国民であることが不可欠の前提となっています。

 そして、こうした自由な議論が成り立つ公共空間を保障することも不可欠の前提となります。国民投票法の意義は、自由で公正な憲法改正運動を保障することにあるといってもいいでしょう。運動を、公務員はだめ、教育者はだめ、外国人はだめ、マスコミはだめといろいろな形で規制することは、改憲の正当性を失わせるものになってしまいます。
国民投票法の目的をはっきりと提示するべきでは?
 さて、国民投票法は今、必要なのでしょうか。

 私は今、必要ではないと考えています。それは今、9条を変える必要がないと考えるからです。9条という内容の話と手続の話を一緒にするのはおかしいといわれます。一般論としてはそのとおりです。

 本来ならば、国民投票法は憲法制定と同時または、具体的な改憲の論議が出ていないときに、中立的なものとして作っておくべきだったかもしれません。しかし、いったん具体的な改憲論議が出ているときには、中立的な手続法だといってもそれはまやかしでしかありません。具体的な改憲を進めるための一歩でしかないのです。ですから、むしろ、その改憲のための手続であることを正面から認めて、その上で議論する方がわかりやすくていいと考えています。

 要するに、いまは、自民党の新憲法草案が出ている段階なので、「9条を変えるためにはこの手続法も必要なんだ」と主張し、「いや、9条を変える必要はないから、この手続法もいらない」と、それぞれが主張すればいいのです。そして、それを国民に提示して考えてもらう。ただ、それだけのことなのに、それを立法不作為だとか、国民主権だのという議論を持ち出すのでわかりにくくなるのです。

 そういえば、国民投票法を作らなかったことは、法的な意味での立法不作為とは無関係であるという点でも、小林教授と意見が一致しました。ここも法律家ならば当然のことです。この点は次回にでも説明しましょう。
改憲するか、しないか。
この議論に不可欠なことは、塾長が指摘されているように、
憲法とは何か? 立憲主義とは何か? 
について、共通の認識、基盤を持っていることだと思います。
私たち国民は、しっかりとこの考えを、広めていく必要を改めて感じました。
伊藤塾長、ありがとうございました! 
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ぜひ、ご意見、ご感想をお寄せください。
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