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伊藤真のけんぽう手習い塾
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伊藤塾長自らの体験に基づいた愛国心についての考え方や、
集団的自衛権と集団安全保障の根本的考え方の違いなど、
今回も明快に解説してくださいました。

いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

60年間日本が平和だったのは、なぜなのか?を考える
「家族を守るために戦うのか、戦わないのか」という質問の罠
教育基本法の改正が問題になっています。
法律に「わが国と郷土を愛する」ことを規定すること自体に反対ですが、まして教育の目標とされることには大いに疑問をもっています。「愛」は学校で教育されるものではないからです。国の愛し方を学校で教えさせて、(その愛し方の程度について)点数をつけさせる国とはいったいどのような国なのでしょう。子どもたちが自然に愛する国を作ることが、大人の責任なのではないでしょうか。

愛国心に関連して少し、自分の話をさせてください。
私は、多感な中学生のころドイツに住んでいて、愛国者になりました。外地で外国人としての悲哀を味わい、日本がバカにされることが耐えられず、もっと日本のいいところを知ってもらいたいと思うようになりました。

ずっと理系に進もうと思っていたのですが、帰国してからは日本の歴史を学び、日本のために仕事がしたくなり、外交官になるために大学は法学部へ進むことにしました。高校時代は日本の伝統文化に惹かれ、弓道部で主将になり弓を引いていました。毎日着物を着て袴をはき、神棚に柏手を打ってから弓を引いていたのです。

日本のいいところをもっと外国に知ってもらいたいし、日本人としての誇りを持ちたいとずっと考えていました。国家のあり方もそのころから私の中では大きなテーマでした。初めはアメリカのように軍隊を持って自分の国を守ることが望ましいと考えていたのですが、それでは外国のサルマネでしかないことに気づきました。日本独自のあり方はないかと考えていたときに、憲法の平和主義に遭遇しました。

日本は聖徳太子以来、「和」を尊重する国柄ではないか。この和を貴重にした憲法は極めて日本的だと考えるようになったのです。外国のマネではなく、日本の英知としての9条の発想に共感を覚えるようになりました。ほかにはどこにもないということがなにか誇らしげに思えたのです。憲法の本質も知らないときですから、今から思えばずいぶんと幼稚な発想ですが、当時は真剣でした。
軍事力を背景に行う外交交渉の現実性について
日本の誇りをどこに見いだすのか。私がドイツにいたころは、日本人のことを「エコノミックアニマル」といってバカにする風潮がありました。経済で世界と戦える力をつけていこうと努力している日本人がなぜそのようにバカにされるのか。私には西欧人が持っていない理念を主張していくことこそが、最良の手段だと思えてきたのです。それが私にとっての憲法でした。そして非暴力平和主義だったのです。少なくとも私にとっての9条はけっして押しつけではありませんでした。

憲法は、個人の尊重を最高価値とする立憲主義に基づきます。この点は西欧近代憲法の正統派の流れをくんでいます。いわば本流です。人類の英知を引き継いでいるといってもいいでしょう。そして前文と9条の非暴力平和主義は日本の英知だと思っています。軍事力によらないで国を守り、軍事力によらない国際貢献をする。これは画期的なことです。

憲法になんらかの平和条項を持つ国は世界で百数十カ国に及びます。もはや侵略戦争をしないとか、平和をめざすというのは特別なことではありません。しかし、いっさい軍隊を持たないと宣言している先進国はありません。ある意味では世界の非常識です。

なぜ、世界で戦争放棄の国が現れないか。
それは、意味がないからではなく、大変に困難なことだからです。
どこもがやりたくてもなかなかできないことだからです。軍事力によらずに自分の国を守り、軍事力によらない国際貢献に徹することなど、やりたくてもそうそうはできません。日本でこのような非常識を実現できたのは、多くの犠牲があってのことでした。負けてなお勝利する。きわめて困難なことを多くの犠牲の下で成し遂げたのです。それを簡単に投げ捨ててしまうのは、それこそ戦争で亡くなった多くの方たちに申し訳ない、と私は思います。

日本は占領され、アメリカに9条を押しつけられたフリをして、実は一番おいしいところを持っていくことができました。私はこの外交戦略はすばらしいと思います。外交とはいかに自国民の利益を守るかです。したたかなものでなければなりません。安保をただ乗りと批判する人がいますが、それはあまりにお人好しです。私はただ乗りしているとは思っていませんが、仮にただ乗りできるのであればそれは最高の外交だと評価すべきです。

これからアメリカはますます暴走する危険性があります。そんなときに「あなたたちが押しつけたどうしようもない憲法があるから仕方がないんですよ。」と言ってアメリカの要求をはねつけて、国民を守ることこそが外交ですし、政治家の仕事です。
混迷する国際社会の中で、ますます必要とされる9条という外交オプション
将来的には軍事的手段を持たない国になっていくことが理想です。しかし、近い将来にそれが実現するとは思っていません。それまでは9条を活用しながら、世界の紛争に巻き込まれないようにしつつ、非暴力の手段での世界の紛争解決に尽力していけばよいのです。

これからの国際社会は、アメリカの帝国主義支配とイスラム世界の戦い、中国やロシア、そしてインドの台頭とそれに対する反発などまだまだ激動の時代が続きます。宗教戦争など数百年いや数千年の戦いを続けているのです。そんなところにのこのこ当事者として出かけていってどうするのでしょうか。日本が一方の側について参戦することは、まったく場違いだと思っています。

9条は非常識、いわば掟破りです。「自分の国は自分で守るのがルールだろ(軍隊による国防)、ゲームの仲間がやられたら助けてくれるはずじゃないのか(軍事的な国際貢献)、なんで(武器も軍隊も)放棄しちゃうんだよ。それじゃゲームになんないぞ」と言われてしまいそうです。そう、くだらないゲームをしない唯一の方法が、試合から降りるということなのです。私はこれはすばらしい国家としての選択だと思います。

意味のないゲームには参加せずに、それよりも中立を保ちながら、ときにゲームそのものから離れ、ときに仲裁をかって出る。そして無意味なゲームそのものをやめさせる。それが日本の国際貢献のあり方です。

もちろん、なかなか無意味なゲームはなくなりそうもありません。ですが、それまでは憲法は理念としてめざすべきものとして位置づければいいのです。軍縮や非暴力による国際貢献を進めるという国家の方向性を指し示すものとして十分に9条は存在意義があると考えます。

理念としての9条という言い方が気に入らない人には、あえて、「たてまえ」としての9条は残しておくべきだという言い方をしましょう。西欧諸国もこれまで、自由や民主主義をたてまえとして使ってきました。人権という概念ですら、もともと貴族たちが自分たちの既得権を守ろうとして主張したものです。アメリカなどは今でもイラク戦争などで真の目的を隠すために自由や民主化をたてまえとして使います。政治も私たちの生活も常に本音とたてまえのせめぎ合いです。それが現実です。そのときにたてまえを捨てて本音だけではうまくいきません。方便もたてまえもときに有効なのです。

外交オプションとして9条を残しておくことは日本の外交の幅を広げます。軍事力を背景にしなければ外交力がなくなるというのはまったく逆です。むしろ、軍隊をもち普通の国なってしまって、アメリカと同視されてしまうことの方が外交の幅が狭くなり、多面的な外交をするには不利になります。要は9条も使い方次第だということです。なお、日本が軍隊を持った場合に、アメリカから軍事的に独立できると考えるほど私は非現実的な人間ではありません。

もちろん、いますぐに自衛隊をなくすことなどできないでしょう。まずは9条というオプションを残しておいて、それからじっくり国防のあり方や国際貢献のあり方、災害救助のあり方を考えていけばいいではありませんか。なぜアメリカから言われたからといって、あわてて9条という有効なカードを捨て去る必要があるのでしょうか。

そして、たてまえも主張し続けていれば、いつしか本音になります。
自分ができる国際貢献について考える
私は非暴力平和主義を理念(たてまえ)とする日本ができる国際貢献は無数にあると考えています。
世界には、ノーベル平和賞を受賞したIAEAなど軍縮に向かうための多くの組織があります。国際社会は大量破壊兵器をなくし、軍縮を進め、対話による紛争解決を尊重しようとしています。アメリカだけが国際社会ではないのです。世界に存在する27000発の核兵器は、奴隷制や人身売買と同じく世界からなくしていくべきものです。そうした世界の潮流に日本は大きな貢献をすることができます。

私にもかつて、軍隊による国防や軍事的な貢献も意味があるのではないかと考えていた時期がありました。もともと個人的な趣味の世界では、戦争ものも嫌いじゃありません。戦車のプラモデルも作っていましたし、武器や兵器の機能美にはほれぼれすることもあります。Fine Art modelsの1/192「Yamato」など欲しくても、とても手が届きません。ハーケンクロイツをつけたDRG時代の蒸気機関車などもとても魅力的だと思っています。ボーイスカウトにも入っていましたし、軍人にいわゆる「男らしさ」を感じ、憧れることもありました。

しかし、現実の話しとなるとまた別です。
軍隊で国を守るのならば、国民皆兵が民主主義の帰結でしょう。しかし、自分は軍人にはなれないと思いました。警察官や自衛官ならできる。しかし軍人はできない。なぜなら、警察官や自衛官と違って軍人は人殺しを目的とする職業だから。人の命を守る仕事は自分の危険を承知で勇気と誇りさえあればできる。しかし、国という抽象的なものを守るために、自分が個人的に恨んでもいない相手の軍人や民間人を殺すことはできない。そう思ったのです。

よく「愛する人を守るために戦う」と言います。ですが、これは前にも述べたように真実ではありません。自分が相手国の民間人を殺したからといって、自分の愛する人が守られるわけではありません。

自分がやりたくないことを人に押しつけるわけにはいかない。職業軍人にやってもらえばいいとは思えなかったのです。私にはそうやって人任せにすることが卑怯なことに思えました。では、自分でもできる国防や国際貢献は何か。それが非暴力による平和主義だったのです。外国の人と仲良くして、日本を理解してもらうために発言したり、行動したりすることは自分でもできる。誰もが参加できる。自分で自分の国を守り、国際貢献していると実感できる。つまり主体的に関われると考えました。

ただ、このように、自分がやりたくないから、軍隊を持ちたくないというのは、ずいぶんと利己的な感じがします。それこそ、国家レベルで日本ができないこと、やりたくないことを外国に押しつけるのはどうかという疑問もわいてきます。この点はどうでしょうか。

実は日本は戦争という暴力による紛争解決を外国に押しつけてはいませんし、押しつけるべきでもありません。外国にもそれは止めた方がいいですよと説得する側にまわるべきなのです。軍事的な貢献は真の国際貢献ではないと信念を持って説得すべきなのです。

「そうは言っても、世界の警察官はいるだろう。ならず者国家もあるんだから」と言われるかもしれません。確かに国際司法裁判所や捜査組織は必要です。最終的な手段としての武力行使も必要な時代はまだ続くかもしれません。ですが、日本の役割はアメリカと一緒になって、武力行使を推進することではありません。武力行使をしなくてもすむように積極的に働きかけることこそが日本のなすべき国際貢献です。

軍事力以外の貢献も山ほどできます。なにも日本が軍事力による平和維持に参加しなければならないわけではありません。むしろ、軍隊が登場しなくてもよいように紛争の解決に尽力する方がよほど貢献すると考えます。

集団安全保障と集団的自衛権の異なるスタンス
集団安全保障であっても軍事力による自衛権は必然ではありません。まえに述べたようにあくまでも例外です。軍事力は使うなと説得するべきなのです。集団安全保障というと軍隊が不可欠という発想自体をやめようということです。一国よりも複数になった方が相手を説得する選択肢が増えるというのが、集団安全保障の発想なのです。なにも軍事力に頼ろうとするものではありません。つまり、自分がいやだから、軍事的解決を他国にまかせようというものが集団安全保障ではないのです。

集団安全保障の枠組みの中で、日本だけが軍隊を持たないで参加することなどできるのか。そもそもそんな日本を仲間に入れてくれるのかという心配をする人もいます。しかし、そのような心配は無用です。そもそも、みんなで集まって他国からの侵害に武力で備えようというのは集団的自衛権であって、集団安全保障の考えではありません。集団安全保障とは、お互いに軍縮し、相互の信頼関係を高め、内なる脅威をなくしていこうとするものです。

地域全体を安定させることによって、対外的にも攻められない地域づくりをめざそうというものです。軍隊を持たない日本はこうした集団安全保障の仕組みづくりに多いに貢献することができるのです。

そして、日本は何よりもこうした国家の安全保障とともに人間の安全保障に対して大きな貢献をしてきましたし、これからもすることができます。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(前文第2項)という憲法の規定がそれを宣言しています。

平和は国の問題ではなく、個人の問題である
この規定によって、憲法は、戦争と平和の問題を国家の主権の問題としてではなく、人々の生存の問題、一人一人の人権の問題としてとらえたのです。「恐怖と欠乏からの自由」は、1941年のルーズベルト大統領の有名な4つの自由(言論と表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由)に由来するものですが、平和を人権の問題として捉えたのは画期的なことです。平和を国の問題ではなく、個人の問題として捉えたのです。

国連も冷戦終焉の後、1994年の人間開発報告書において、これまでの国家中心の安全保障から、人間中心の安全保障への転換を説きました。多くの人にとって安全とは、病気や飢餓、失業、犯罪、社会の軋轢、政治的弾圧、環境災害などの脅威から守られることを意味するとして、これらへの対策の必要性を強調したのです。

紛争には必ず原因があります。紛争が起こってからそれに対処するのではなく、紛争の原因をなくすために最大の努力をしようとするのが憲法の立場です。飢餓、貧困、人権侵害、差別、環境破壊といった世界の構造的暴力をなくすために積極的な役割を果たすのです。戦争は最大の環境破壊です。戦争をしないだけでも多大なる国際貢献といえるでしょう。現地の人と一緒になって井戸を掘り、学校を建て、病院をつくって医療を提供し、感染症撲滅に尽力し、経済的自立のための支援をする。本当に求められている国際貢献は何かをしっかりと考えてそれを実行するべきなのです。

21世紀の国際社会がめざす「恐怖と欠乏からの自由」に向けて、人間の安全保障の確立に努力することが、日本のアイデンティティであると考えます。そのために政府にまかせるのではなく、私たち一人ひとりがどのような貢献ができるかを考えることが必要です。平和も国際貢献も政府まかせでは実現しません。私たち個人の責任なのです。

今回はすっきり症候群について書くことができませんでした。次回にします。
「9条があるから日本だけ軍隊を派兵できず、積極的な国際貢献ができない」
という声がありますが、平和を国の問題ではなく、個人の問題として
捉えたときに見えてくる、国際貢献の意味があります。
私たち一人ひとりができる「本当の国際貢献」について、
じっくりと考えてみたいと思います。
伊藤塾長、ありがとうございました!
ご意見募集!
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