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伊藤真のけんぽう手習い塾
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「軍隊を持つのは、独立国として当然」という論調がありますが、
なぜ「当然」といえるのか?そして、私たちが60年間憲法の中に持ってきた、
「積極的非暴力平和主義」を捨て、「普通の国」になれば、何が得られるのか?
伊藤先生がさまざまな角度から、答えてくれています。

いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

60年間日本が平和だったのは、なぜなのか?を考える
「家族を守るために戦うのか、戦わないのか」という質問の罠
先日、ある講演会でこんな質問を受けました。
「あなたは軍隊を持たない、戦わないというが、それでは、家族を見捨てるというのか。」
このたぐいの質問はよく受けますし、軍隊を持ちたいと考えている人にわりと多い思考方法ではないかと思います。

つまり「自分の家族を守るために戦うのか、それとも戦わずに家族を見捨てるのか。」という2者択一形式の質問です。
この質問形式はいろいろと応用されます。

「外国から攻め込まれたときに、武器をもって戦うのか、それともみすみす見殺しになるのか」
「9条を変えずにこのまま中途半端なままで過ごすのか、それとも改憲してはっきりさせるのか」
「いつまでもアメリカの言いなりになっているのか、軍隊を持って真の独立国家となるのか」
などいくらでも応用できます。

こうした質問をされるとちょっと怯んでしまう人がいます。
まじめに相手の質問に答えようとすると、その質問の罠にはまってしまうからです。
実は、この質問の仕方は、自分の望む方向へ回答を誘導するときに使われる、ありきたりの使い古された手法です。いわば、いかがわしい霊感商法や新興宗教の勧誘と同じなのです。
「この壺を買うか、それとも不幸になるか、あなたが選択してください。」
「私たちの教えに従って快適で希望に満ちた生活を送るのと、苦しい地獄に堕ちることが決まっている生き方と、あなたはどちらを選ぶのですか。」
「伊藤塾に来て弁護士になるのか、それともだらだらした無為な人生を送るのか、どっちがあなたにとって幸せですか。」

まずい! 伊藤塾を霊感商法と一緒にしてしまった!
まあ、これは冗談として、内容はなんであれ、こうした質問の仕方がフェアではないということです。ですから、こうした質問方式をとる相手は、注意した方がいいということです。

こうした質問方式は、回答者の思考を限定し、回答を一定方向へ誘導するときの常套手段です。さまざまな条件を捨象していますし、かってに一定の条件を設定して、その中でしか回答を許しません。これでは、回答者が第三の回答をしたいと思っていても回答できないのです。

冒頭の質問では、「自分の家族を守るために戦う」ということが前提になっていますが、戦うことが本当に家族のためになるのか、戦死する危険を負う行動が、残された家族のためになるのか、その前提に納得できない人は多いでしょう。
また、「戦わずして家族を見捨てる」という後段ですが、ここも、戦わないことが家族を見捨てることになるのか、いや、むしろ戦わないことが家族にとって安心であり、家族とともにいることがもっとも家族を守ることになると考える人もいるはずです。

こうした人はこの質問には2者択一では答えられません。というか答える必要がありません。ですが、ぐずぐずしていると、「それみたことか、答えられないじゃないか」とたたみかけられてしまいます。

「私は自分の家族を守るために戦わないという選択をします。逆に質問しますが、あなたは、9条を捨てて家族が戦争の犠牲になって殺されるのと、このまま家族が安全に暮らせる社会とどちらがいいですか。」と切り返せばいいのです。

冒頭のような質問に惑わされてはいけません。
軍事力を背景に行う外交交渉の現実性について
さて、本題です。
前回は、中国・北朝鮮脅威論について反論しましたが、あのような話をすると、近頃では、売国奴だの、北朝鮮や中国の回し者だの言われてしまいます。本当に日本は表現の自由が保障された国だと、つくづく喜ばしく思います。“アカ”だの言われてしまうこともあるのですが、私は塾の経営者です(意味わかりますよね)。ちなみにうちの塾のスクールカラーはキイロです。

なかなか本題に入れませんが、ちょっとだけ、前回の復習です。軍隊を持つべきだと考える人は、具体的にどこと戦うことを想定しているのでしょうか。中国、北朝鮮でしょうか。
ですが、日本の経済つまり私たちの生活は今や中国抜きには考えられません。その中国と戦争してどうするのでしょうか。多くの中国人を再び殺したときにそれでも日本製品を買ってくれる中国人はいないように思います。日本企業の工場を作らせてもらえる地域はないように感じます。中国と戦うことがそんなに日本のためになるのでしょうか。

北朝鮮の拉致問題は許されない。だからといって軍事的な攻撃をしかけるべきだと考える人はいるのでしょうか。拉致被害者のことを真剣に考える人なら、そのような考えを持つ人はいないと思います。かの国にはまだまだ各国の拉致被害者が生活している可能性があるのですから。せいぜい経済制裁ではないでしょうか。軍事的な攻撃をしかけて懲らしめてやるべきだというのは、とても冷静な判断とは思えません。しかもそれはとりもなおさず、国際紛争を解決するための戦争であり、侵略戦争となります。

いや、日本が戦争をしかけなくても、むこうが攻めてくるだろうという人もいます。ですが、この点は、前回も述べました。それがほんとうに現実的な話か冷静によく考えてみる必要があります。日本を本気で攻撃してくる国がほんとうにあるのか、可能性と蓋然性をしっかりと区別して具体的に考えなければなりません。

不安があるとすると領土問題でしょう。竹島、尖閣諸島のガス油田開発も不安材料かもしれませんが、いまやこうした問題を軍事力で解決するという時代ではありません。なぜなら、代償があまりにも大きすぎるからです。北方領土問題をロシアとの間で軍事力によって解決しようとするのでしょうか。

そうは言っても、外交交渉において、軍事力を背景に持たなければ舐められてしまう。日本もしっかりと他国と対等に外交交渉を行うためには軍事的プレゼンスが必要だという主張があります。

確かに、国際社会の現実は厳しいものです。そこでは自国の利益をめぐってあらゆる手段を駆使して戦います。そこに軍事力による威嚇も含まれるのがこれまでの普通の国のあり方でした。

さて、日本の国益を考えたときに日本が一番しっかりと交渉しなければならない国はアメリカです。もっとも関係が深く、かつ利害が対立することが多いからです。

私にもアメリカ人の友人はいますし、アメリカの好きなところもたくさんあります。ですが、アメリカは、女子差別撤廃条約、子どもの権利条約、経済社会文化権利条約、京都議定書、包括的核実験禁止条約、弾道弾迎撃ミサイル制限条約、生物兵器禁止条約、化学兵器禁止条約、対人地雷禁止条約、国際刑事裁判所規程などの条約への署名や批准を拒否している国です(Newsweek 2005.2.2より当時)。こんな国にどこまでも追従していていいのでしょうか。

この最もタフな交渉が必要な国、アメリカとの間では、米軍再編問題でも、BSE問題でも金融緩和でもありとあらゆる交渉で、日本はアメリカにしてやられています。これまでも年次改革要望書のいいなりです。この点は、『拒否できない日本』(関岡英之著・文春新書)などでわかりやすく解説されています(著者とは自由や個人主義の理解の仕方が少し異なりますが、アメリカとの距離の取り方の参考になります。)

では、軍隊をもった日本はアメリカと交渉するときに軍事力を背景に威嚇しながら有利に交渉を進めることができるのでしょうか。軍隊を持つ普通の国になって、アメリカと戦争をするリスクを背負いながら、タフな外交交渉ができるほど日本の官僚は鍛えられているのでしょうか。私はたとえ軍隊を持ったとしても、アメリカとの交渉で軍事力を背景に外交交渉するということは、多くの国民は想定していないと考えます。

ならば自分よりも弱い国と交渉するときにだけ、軍事力が意味を持つことになります。その際には言うことをきかないと、アメリカがイラクにそうしたように現実にたたきつぶすだけの力と行動を伴わないと意味がありません。かえって舐められるだけです。これは自衛のための軍隊ではもちろんありません。まさに国際紛争を解決するための軍隊であり、簡単にいえば侵略戦争のための軍隊です。

外交交渉の背景には軍隊が必要だという考えはこのように、いざというときには侵略戦争も辞さないという考えがあるのです。まさにアメリカがそうであるように。

独立国家だから当然だ、国を守るためには当然、軍隊が必要だ。当たり前じゃないか。
こうした主張の当然とか当たり前とかいう、その意味を具体的に明らかにしていくことが大切です。なぜ、軍隊がないとダメなのか、国境警備隊や災害救助隊ではダメなのか。「当然」という言葉で思考停止になるのではなく、なぜ、どうしてと問いかけ続けることが必要です。


それは同時に自分にも向けられる問いかけです。私もよく「当然」といってしまいますからね。本当に軍隊を持たなくてもいいのか、自分の命や家族の命を守れるのか。具体的にしっかりと考えていかなければなりません。
60年間平和だったのは、日米安保があったから? 9条があったから?
私は、9条は貴重な外交カードだと考えています。それこそ非暴力の外交手段の切り札です。非暴力平和主義も日本の国益(具体的な一人ひとりの国民の利益の意味です)のために方便で主張するくらいの狡猾さも外交では必要です。9条を逆手にとって、アメリカと交渉するくらいの気概があっていいでしょう。なぜ貴重なこのカードをみすみす捨てようとするのか私には理解できません。

戦後の日本は9条があるから平和だったのだ、いや日米安保があるから平和だったのだ、この両方の主張のどちらが正しいのでしょうか。この判断はかなり難しいと思われます。「仮に」ということが歴史において意味をなさないからです。歴史の流れは、ある事実を取り除けばこうなると簡単にその因果関係が論証できるほど単純ではありません。

法律の世界では、因果関係はまず条件関係といって「あれなければ、これなし」つまり、ある事実を取り除いたら、結果が発生しなかったということが最低限、必要だとされます。彼がピストルを発射しなかったら(「あれなければ」)、被害者はその弾で死ななかったはずだ(「これなし」)という関係です。

ですが、歴史の事実はこのように単純ではありません。もちろん、法律の世界でももっと複雑なのですが、現実の歴史は比較にならないほど複雑な要素が相互に関連して進んでいきます。
ですから、日本は9条があるから平和だったのか、日米安保があるから平和だったのか、そう簡単には論証できないと思っています。

ただし、そこで唯一、はっきりしていることは、9条があってかつ安保があって、結果として現実に60年以上も戦争をしないですんだということです。9条のおかげか安保のおかげか、それとも両方のおかげかわかりません。ですが、それが証明されていない段階で安易に9条のおかげではないと結論を出して、取り返しのつかない結果を招くことは避けるべきでしょう。

今、現実に具体的な不都合があるからどちらかを変えるというのならわかります。ですが、具体的な不都合を感じているのはアメリカだけでしょう。今現在、中国から攻められているわけでもなし、北朝鮮から攻められているわけでもないのですから。「いまそこに危機があるのだ、平和ボケもはなはだしい」と叱られてしまうかもしれませんが、これまで述べているようにその危機の中身を具体的に考えるとどうもあやしくなります。

私は、現状を変える必要性を主張する側がその必要性の立証責任を負っていると考えます。ですが、今のままではどうしてもダメだという具体的な論拠にいまだ遭遇していません。どれも抽象的な理由ばかりです。

よく左翼は理想ばかりだとか現実を伴っていないとか批判されます。何をもって左翼というのかわかりせんが、現実はいま9条があって、この国はまがりなりにも平和だということです。日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも参戦しなくてすんだし、とりあえずアジアのバランスが保てているという事実です。もちろん、中台問題、北朝鮮問題、竹島、ガス油田、北方領土問題などはあります。ですが、決定的な国家間の対立にはなっていません。この現実はなによりも強いでしょう。近代日本で60年間も戦争のない時代はありませんでした。9条のおかげかどうかはわかりません。ですが、9条がある日本の現実であることは確かです。

私は9条のない国に非暴力平和主義の憲法を作れといっているのではないのです。いまこの国には9条があり、60年以上戦争がなかった。それは現実です。この現実に目を向けるべきではないでしょうか。9条は架空の条文ではなく、いまここに存在する条文なのですから。
一度捨ててしまったら、9条を持つ特別な国にはもどれない
9条の存在を守ろうとすることは、極めて現実に即した考えだと思います。改憲派の主張の方が、仮定や憶測に基づいての主張にすぎず、具体性、現実性がないように私には思えるのです。事は国防の問題です。失敗したら取り返しがつきません。政治家が国会で陳謝すればすむような問題ではないのです。それほど重要な問題について、憶測や可能性でリスクをとるほど私はお人好しにはなりたくありません。

またリスクをおかして挑戦するほどに高い理想に向けた改正なら、それは考えてみる余地はあるでしょう。しかし、理想を捨てて、普通の国になろうというのですよ。そのような理想を下げるような提案にリスクをおかしてまで乗るわけにはいかないということです。

現状がとりあえず機能しているのであれば、現状維持が最適の選択です。私たちの日々の生活はめまぐるしく変わり続けています。ですが、変化の時代だからこそ、変わらぬ価値を見抜くこともまた時代にあった行動であると考えます。
「では、安保や自衛隊はどうするんだ。」と言われそうですね。私は、これらは9条を維持したうえでじっくり議論していけばいいことだと考えています。現在の主題は9条を変えて正式な軍隊を持つ国になることにどれだけのメリットがあるのかという一点です。

戦後60年、戦争をしないできたという事実を崩し、軍隊を持つ方が安全だと本当に納得できるほどの立証をすることは大変に難しいと思われます。米ソ冷戦が終わってテロとの闘いが始まったとか、中国の台頭など国際社会が変わったんだとか、時代が変化したんだからという声は、いかにももっともらしく聞こえますが、その変化がどうして、日本が軍隊をもってアメリカと一緒に戦争をすることができる国にならなければならないということにつながるのかよくわかりません。

「軍隊を持ったって、アメリカの言いなりにはならないよ。」という主張がいかに非現実的かは、これまで日本のやってきたことを見れば明らかです。アメリカと伴に軍事行動をとり、よりテロの標的になるようなことをあえて行い、再軍備により中国や北朝鮮を刺激して緊張を高めることをあえて行う理由がどうしても理解できないのです。

軍隊を持つ普通の国にはいつでもなれますが、積極的非暴力平和主義という特別の国にはそう簡単にはなれません。そのことを考えるといつでもなれる普通の国への変更は、本当に慎重にした方がいいと思うのです。もう戻れない覚悟の上で変更しなければなりません。

日本がひとたび正式な軍隊を持てば、国防のため、国際貢献のためという名目で軍隊は拡大の一途をたどるでしょう。当然、年金、医療、少子化対策、地方の活性化、災害対策などにお金をまわす余裕はいま以上になくなります。日本でも軍需産業との間に、現在の防衛施設庁の談合などの比ではない、アメリカ並みの利権構造が生まれるに違いありません。武器の製造と輸出を原則自由としてしまったら、ここでも元に戻ることは不可能です。一気に死の商人の道を突き進み、日本の軍需産業はその高度な技術力をもって、世界の紛争をより悲惨なものにすることに多大な貢献をするでしょう。

一端、軍需産業と利権構造がこの国を支配してしまったらそれをなくし、積極的非暴力平和主義に戻ることは、再び大きな戦争やテロに巻き込まれて、国民が痛い目に遭うことでもなければ不可能です。

日本は多大な犠牲をはらって先の戦争に負けたことによって、たまたまその希有なチャンスを与えられた幸運な国です。その幸運をみずからみすみす捨て去ることの愚かさを知るべきではないでしょうか。失ってからその大切さを知るのは何も親や健康だけではありません。自由や平和を得るためにどれだけの犠牲がさらに必要となるのでしょうか、元に戻す方法を知らないことはやめておいた方がいいと思います。


このことを考えるといつも、1992年、リオの環境サミットで12歳の少女が世界中を感動させた伝説のスピーチを思い出します。
「オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。死んだ川にどうやってサケを呼び戻すのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか、あなたは知らないでしょう。そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのか、あなたは知らないでしょう。どうやって直すのかわからないものを壊し続けるのはもうやめてください。」(あなたが世界を変える日、セヴァン・カリス=スズキ著、学陽書房より)

積極的非暴力平和主義という考え方は一端捨ててしてしまったら、再び取り戻すことはきわめて困難です。捨てるのは必死で維持する努力をしてみてからでも遅くはないと思います。

次回は国際貢献と「すっきり症候群」についてお話します。
9条を捨てて、軍隊を持ち普通の国になることは、簡単です。
しかし、ひとたびそうなってしまうと、9条と「積極的非暴力平和主義」を
取り戻すことは、困難であり不可能に近いと思われます。
9条は今ここに存在する条文であり、60年間戦争に参加しなかった、
この現実をもう一度考えてみましょう。
伊藤先生、ありがとうございました。
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