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伊藤真のけんぽう手習い塾
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軍事的脅威論に振り回されるのではなく、
冷静になって近隣諸国から攻められる蓋然性について、
現実的に考えてみることが必要だと塾長は指摘します。
またよくある「戸締り論」についても、わかりやすく反論しています。

いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

日本が国防のための軍隊を持つディメリットを考える
「蓋然性」がほとんどない脅威に対して、万全の備えをするディメリットを考えよう
今回は日本の国際貢献のあり方について書こうと思っていたのですが、中国が軍事費を増強したとのニュースを受けて、やっぱり中国に対抗するには日本も軍隊を持たないとだめだという議論が盛り上がるといけないので、今回はもう少し、国防のための軍隊について書いてみます。

中国や北朝鮮などの軍事的脅威からこの国を守るためには軍隊が必要だと考える人たちは、中国が軍備を拡大し、北朝鮮が核兵器を保有していると発表したことなどを捉えて、これらの国が日本を攻撃してくるかもしれないと、ことさらに脅威論を振りまきます。ですが、もっと現実的に考えることが必要ではないでしょうか。

現実的に考えるとは、まず、本当にこれらの国が、日本が何もしていないのに攻撃してくる蓋然性があるかどうかです。もちろん、可能性はゼロではありません。しかし、可能性というのであれば、アメリカだって日本に攻撃をしかけてくる可能性はゼロではありません。そんなことを言い出したらきりがありません。可能性(possibility)ではなく蓋然性(probability)(編集部注:がいぜん性。事象が実現されるか否か、またはその知識の確実性の度合。公算。確からしさ)があるかが、問題なのです。

私がここで突然に9条を変えて日本も軍隊を持つべきだと書き始める可能性はありますが、蓋然性はありません。夏目漱石があげた例と同じように、私が講義中に突然、逆立ちをする可能性はありますが、蓋然性はありません。何事も可能性を言い出したらきりがないのです。もっと現実的に考えなければなりません。

いや、安全保障の問題は可能性がゼロでない限り、その脅威に対する万全の備えをしておくべきだと考える人がいるかもしれません。ですが、政治はもっと現実的な世界です。あらゆる政策はそれを行うメリットとディメリットを比較し、優先順位をつけながら行われます。可能性はあるが、蓋然性がほとんどない脅威に対して、万全の備えをすることに伴うディメリットを冷静に考えなければなりません。

アメリカという突出した軍事的脅威に対しても、攻撃される可能性があるからといって対抗できるだけの軍事力を備えようとするのでしょうか。そうではないでしょう。せいぜい中国や北朝鮮を仮想敵国とした備えにすぎないのだと思われます。それは可能性に対して万全の備えをしようとしているとはいえません。

なぜ、アメリカを仮想敵国としての軍事的備えを訴えないのでしょうか。アメリカに攻められる可能性は低い、つまり、蓋然性がないと判断しているからに他なりません。また、そんな蓋然性のないことに予算と労力を使うくらいなら、もっと国内の年金や医療などの福祉の充実、失業者対策、少子化対策、自然災害対策、環境問題など私たちが政治にやってほしいと考えていることが山ほどあるからです。こうして政治的な判断は蓋然性と優先順位によって行われます。

結局、安全保障の問題は可能性がゼロでない限り、その脅威に対する備えをしておくべきだとはいっても、それだけの必要性と許容性があるかによって判断されるのです。ですから、中国や北朝鮮が攻めてくる蓋然性がどれほどあるのか、それに対して軍事的な対抗手段をとる準備をしておく必要性がどれほどあるのか、軍隊を持って準備しておくことによるディメリット、つまり、許容性があるかをしっかりと具体的に考えなければいけないということです。
自衛戦争と侵略戦争の区別はない
では、中国や北朝鮮が日本に攻撃をしかけてくる蓋然性はどれほどあるのでしょうか。
こうした国が攻めてくると考える根拠はどこにあるのでしょうか。
軍備増強をしているからでしょうか。
潜水艦や戦闘機などによる領海、領空侵犯事件が起こっているからでしょうか。
領土問題やガス油田の問題などで強硬な姿勢をとっているからでしょうか。
靖国問題などで日本の政治家のやっていることに口を出すからでしょうか。


まず、最後の靖国問題では、最近はアメリカも口を出すようになってきています。何も中国、韓国だけではありません。こんなことを理由に攻められるかもしれないなどと考えることは、子どもの喧嘩以下でしょう。

領土問題やガス油田の問題でしょうか?
どこの国であっても自国の利益を厳しく主張するのは当然のことです。こんなことで驚くのは、その人が本来の外交の厳しさを忘れているからに他なりません。もともと外交は国益のぶつかり合いですから、厳しい主張がお互いから出てくるのは当然です。中国ではエネルギー問題は深刻な問題ですから、勢いその主張が厳しくなることは当然のなりゆきです。ですが、それは日本を軍事的に攻撃する根拠にはなりません。たかが、(あえて、たかがと言いますが)ガス油田の権益を守るために、外国からの投資熱を一気に冷まし、最大の貿易相手国との関係を断つ、せっかく勝ち取ったオリンピックや万博をなげうっても、日本を軍事的に攻撃して自国の主張を通そうと中国首脳が考える蓋然性が、どれほどあるでしょうか。

領海侵犯事件が起こるからでしょうか?
領海、領空侵犯は許されることではありません。きちんと抗議をし、毅然とした態度で批判すべきことがらです。ですが、それ以上でもそれ以下でもありません。なんらかの目的のために軍事的に威嚇をする国もあるでしょう。ですが、仮にそうなら、どうだというのでしょうか。そんなものはこちらが脅威と考えなければいいだけです。こちらが騒ぐから脅す側は効果があると考えてしまうのです。脅迫罪などの犯罪も、被害者が動じないことがわかっていれば、そんな割に合わないことをする人はいません。

軍備を増強しているからでしょうか?
確かに軍事的なハードの増強は軍事的な脅威になり得ます。しかし、軍備の増強といったハード面における脅威だけでは、攻められるという根拠にはなり得ません。世界一の軍事的脅威はアメリカです。アメリカは世界の軍事費のほぼ半分を一国で占めている軍事超大国です。中国どころかEUの国々や日本が束になってかかっても、アメリカにはかないません。

アメリカはイラクを大量破壊兵器を持っていると言って攻撃しました。そして今また、イランにも同様に、核武装する危険があると言って攻撃をしかけようとしています。もしイラクもイランも軍備を持っていなければ、アメリカに攻撃の口実を与えることもなかったでしょう。さすがに、フセインが気にくわないというだけでは、あからさまな侵略戦争になってしまい、国際社会から孤立してしまうことは明らかです。
信頼関係がないから、不安を感じ脅威になる
「いや、日本はアメリカとの安保条約があるから安心だよ」という人がいるかも知れません。アメリカと日米安保という軍事同盟を結んでいれば本当に安心なのでしょうか。かつて日本はイギリスと日英同盟という軍事同盟を結んでいましたが、結局、イギリスを敵に回して戦争しました。軍事同盟などあっても信頼関係が破壊されてしまったら役に立ちません。

軍事同盟があるから安心なのではなくて、軍事同盟を維持できるだけの信頼関係があるから安心なのです。この因果関係を逆転させてはいけません。
これをウラから言えば、軍事的脅威があるから不安なのではなくて、信頼関係がないから不安なだけなのです。アメリカに対して攻撃されると不安を感じている人はそれほど多くはいないと思います。それはアメリカが日本を軍事的に攻撃するほどには信頼関係が崩れていないし、アメリカが日本を攻撃するメリットがあるとは思えないからです。

軍事的脅威がそのまま、攻撃される不安感につながっているのではないことをしっかりと理解しましょう。信頼関係をくずすことが、何よりも私たちの不安の原因となっているのです。だから、日本が正規の軍隊を持つことで、アジア諸国との信頼関係を崩し、他国に攻撃の口実を与えることは得策とはいえないと私は考えるのです。

隣人にナイフで脅されて強盗された人が、その犯人が隣に住み続けている状況で、再び、ナイフを集め始め、今度はピストルまで持ち始めたとしたらどうでしょうか。はっきりとした謝罪もないのに、すくなくとも被害者の側は納得する謝罪を受けたとは思っていない時期に、「いやもう十分に謝ったのだから怖がる必要はないでしょう」といって、犯人の側が武器を準備し始めたら、その被害者はどう思うでしょうか。隣人としての信頼関係はよくなるのでしょうか。ありえないでしょう。被害者と加害者とでは客観的な立場の違いのみならず、感情やその思いは大きく違います。どうしたら隣人とよりよい信頼関係が築けるか、加害者の側がより慎重に真剣に考えていかなければならないのは当然のことだと思われます。

もちろん、加害者の側が、「自分は加害者なんかじゃない、懲らしめてやっただけだ」、「強盗された側も、それによって家の安全対策が進んだのだから、強盗の被害にあったことも実はよかったんじゃないか」などと言っているようでは、そもそも話になりません。相手の立場に立って考えることは、あらゆる問題を考える際の基本だと思われます。イマジネーションの力を発揮することが重要です。
正しい文民統制など幻想である
強盗という例を出してしまったので、ここで戸締まり論と言われる議論について、最後に少しだけ触れておきます。「私たちは強盗に襲われないように家に鍵をするでしょう。国を守るために軍隊をもって防衛することもそれと同じですよ」という議論です。これのバリエーションとして、「自分が強盗しないと一方的に宣言したからと言って、強盗の被害に遭わないとは限らない」というものもあります。
確かにわかりやすい主張です。もちろん強盗から身を守るために私たちは戸締まりをします。しかし強盗に押し入られたときのために、自宅にピストルや刀を置いている人はいないでしょう。ましてや暴力団を家の中に用心棒として住み込ませている人はいないと思います。

日本という国だって誰でも入ってきていい、攻めてもらっていいといって、鍵をかけずに開け放しているわけではありません。いまでもきちんと国家としての戸締まりはしています。入国審査はありますし、警察も海上保安庁もそして自衛隊もあります。それでは弱すぎる、しっかりと軍隊を持たなければ戸締まりしたことにはならないというのかもしれません。ですが、それは鍵だけでは不安だから、もっと鍵の数を増やそうと言っているのと同じではありません。鍵だけでは不安だから、家の中にピストルを用意しておけ、暴力団を雇っておけ、と言っているのです。

このように軍隊を持たなければ戸締まりをしていないというわけではないのです。つまりこの比喩は意味がないということです。戸締まりをすることを軍隊による防衛と置き換えているのですが、まったく性質の違うものと置き換えているだけです。感覚としてはわかりやすいものですが、論理的ではありません。

あえて、戸締まり論にのって反論するなら、私たちは自分の家の鍵を閉めるだけではなく、近所で声を掛け合って地域ぐるみで防犯活動をすることがありますし、それはもっとも有効な手段だといわれています。これが集団安全保障です。強盗から自分の家を守る方法は、いざというときのために家に武器を用意しておくことだけではないのです。

この戸締まり論は、1950年代に保守派の政治家がさかんに主張し、芦田均は再軍備促進大会といういさましい大会で「家の外に強盗が横行している以上、戸締まりをするのは常識であります」と述べていたそうです。そして当時もこれに対する批判の論文も発表されています。詳しくは「『世界』憲法論文選」(岩波書店)73頁収録の山川均氏の論文を参照してください。当時はソ連に侵略されるという脅威でした。本当に同じ事を繰り返し議論しているのだなあとつくづく思います。議論尽くされたことをまた思い出したように蒸し返しては、前の議論を知らなかった若い世代がそれを新鮮に感じて繰り返すのです。「歴史は繰り返される」はここでも真理です。

私たちは過去の教訓からさまざまなことを学ぶことができるはずです。なぜ日本は戦争をしてしまったのか、被害者にも加害者にもなってしまったのか、そして戦後60年、なぜ日本は戦争をしないですんだのか。安保条約のおかげか、それとも9条があるからか。そうしたことの検証も含めて、私たちが過去から学ばなければならないことは、まだまだたくさんありそうです。憲法は、人類の過去の教訓から得られた英知を結集し、そして多くの犠牲の結果えられた日本の過去の教訓を踏まえて生まれたものだということを再認識するべきだと思っています。
アジア近隣諸国との信頼関係をどんどん崩していく
政治家トップの言動に歯止めをかけるために、私たち国民の一人ひとりが、
平和憲法を使って、信頼関係を回復し築いていくことが必要なのではないでしょうか?
 伊藤塾長、ありがとうございました!
ご意見募集!
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