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伊藤真のけんぽう手習い塾
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表現の自由(憲法21条)の権利とは何かについて。
先日有罪の判決が出された「立川反戦ビラ配布事件」を例にあげ、教えてくれています。

いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

表現の自由(憲法21条)の権利が侵されるとき(「立川反戦ビラ配布事件」判決について)
・ なぜ「立川反戦ビラ配布事件」は有罪となったのか?

 前回は、国家は国民の生活に干渉してはいけない部分があるのだ、それを守ることが憲法の重要な目的であり、立憲主義の意味だとお話しました。そうした視点から見たときに、大変重要な判決が先日、東京高等裁判所で出されました。2005年12月9日の立川反戦ビラ配布事件有罪判決です。

2004年2月27日、イラクへの自衛隊派兵に反対している市民グループ「立川自衛隊監視テント村」の事務所やメンバーの自宅が警視庁公安2課と立川署に家宅捜索されて、メンバー3人が逮捕されました。その1ヶ月以上前の1月17日に、東京都立川市の防衛庁官舎の郵便受けに「自衛官・ご家族の皆さんへ 自衛隊のイラク派兵反対! いっしょに考え、反対の声を挙げよう」というビラを入れたことが住居侵入罪にあたるとされたのです。3月19日に起訴されましたが、同年12月16日に1審の東京地裁八王子支部は無罪判決を出します。検察が控訴していたところ、今回2審の東京高裁が有罪判決を出したものです。

たとえ、マンションの郵便受けまでであっても他人の住居といえる部分に立ち入ったのだから、それはまずいと考える人もいるでしょう。ですが、この問題の本質は単なる住居侵入だから処罰されるのは当然だといえないところにあります。

実は、防衛庁官舎へのビラ配布は20年以上にわたっておこなわれてきましたが、今回のように問題とされたことは一度もありませんでした。また、飲食店や不動産関係のビラが無断で郵便受けに入れられることは私たちも経験していることですが、これについても問題にされることはまずありません。自衛官募集のビラが入っていることもあるくらいです。そうしたことを考えると、今回の逮捕、起訴は、配布した人物とビラの内容を理由に行われたものと言わざるをえません。取調べでもテント村の活動から手を引けと説得されたそうです。こうした事件をどう考えたらよいのでしょうか。

多数決で決めてはいけないこともある

そもそも住居侵入罪とは、他人の住居やその敷地内に勝手に入ってはいけないというものです。その家や敷地を管理している人の管理権を侵害するので違法であり犯罪とされるのです。一種のプライバシー権侵害だといってもいいでしょう。かつては住居の平穏を害するから処罰すると言われていましたが、いまは住居の管理権者の自由(つまり人を立ち入らせるかどうかの判断権)を侵害するから処罰すると考えられています。

確かに勝手に他人が自分の家の敷地に入り込んでくることは困ります。ですが、そうした行為があれば常に処罰されるわけではありません。少し刑法の話になりますが、ここで犯罪が成立するための条件をお話しておきましょう。

犯罪の成立には3つの条件が必要となります。これを犯罪の成立要件といいます。第1は、条文によって規定された一定の行為をすることです。これを構成要件に該当するといいます。人を殺してしまったというようなことです。

第2は、たとえ構成要件に該当しても、特別に違法とはいえない状況があれば処罰されません。これを違法性阻却といいます。たとえば、正当防衛だったような場合が典型例です。殴りあいをしているボクシングの選手が暴行罪や傷害罪にならないのもこれが理由です。社会的に許されると認められた行為はたとえ構成要件に該当しても違法性がないと判断されるわけです。

第3は、このように構成要件に該当し違法が阻却されなくても、責任がないと判断され不可罰となる場合があります。ここでいう責任とは非難可能性という意味です。重い精神病にかかっているために善悪の判断ができなくなってしまっていたというような場合には責任能力がないという理由で処罰されません。自分のやったことを理解できない人を非難しても意味がないからです。この場合には刑罰よりも治療が必要なのです。

以上からわかるように犯罪の成立するためには、?構成要件に該当すること、?違法性が阻却されないこと、?責任(非難可能性)があることの3つが必要となります。今回の事件は構成要件に該当したとしても、果たして違法性があるかが問題となります。

憲法は、個人の価値観、人の心の領域を守るためにある

刑法は刑罰を科す法ですから、刑法で予定している違法性はある程度強いものでなければなりません。たとえば、刑法235条には「他人の財物を窃取したものは窃盗の罪と」すると書いてあります。隣に座っている友人の机の上のチィッシュ1枚(これは「他人の財物」にあたります)を黙ってもらって鼻をかんだとします。これは窃盗罪の構成要件にあたると考えることができます。

このときに10年以下の懲役刑が科される窃盗罪で処罰することは不当です。とても処罰の必要性があるとはおもえません。処罰に値するほどの違法性がないので処罰するべきではないのです。なぜでしょうか。

刑罰は最大の人権侵害ですから、ほんとうに必要最小限の刑罰を科すことが許されるだけだからです。刑罰に値するような行為をやっていない場合には処罰するべきではないのです。

そしてその行為が処罰に値するかどうかは、そこで行われた行為の目的や方法、相手方の侵害された利益の大きさなどをいろいろと考慮して決められます。何のためにそのような行為をしたのかも重要な判断要素となります。憲法上の重要な権利を行使しようとして行われた行為であれば、被害者の側の被害の大きさを考えた上で、刑罰を科さないこともあるのです。

たとえば、出版のような表現行為によって、他人の名誉を侵害したとします。公然と、事実を摘示して他人の社会的評価を下げてしまった場合には、それがたとえ真実であっても名誉毀損罪(刑法230条)の構成要件に該当します。条文には「その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若くは禁錮又は50万円以下の罰金に処する」とあるからです。

しかし、その表現行為が政治家の不正を暴く内容であった場合には、真実だと証明されれば処罰されません(刑法230条の2第3項)。公務員に関する事実の場合は、その表現行為が公益目的でなされたものであり、そこで摘示された事実が公共性を持つものと考えられるので、憲法の表現の自由を重視して処罰しないことにしたのです。ここでは、公務員のプライバシー権よりも表現の自由を尊重したわけです。

また、労働者が使用者と交渉しているときに、要求を受けてもなかなか事務所から立ち退かなかったとします。これは不退去罪(刑法130条後段)にあたる行為です。ですが労働基本権(憲法28条)の行使なので処罰されないことがあります。ここでも使用者の住居権よりも労働者の人権の方を優先しているわけです。

同様に住居侵入罪も、住居権者の意思やプライバシー権とここでビラを配りたいという人の表現の自由の衝突をどう調整するかの問題となります。そこで表現の自由を重視しようとする立場に立つのであれば、被害者の損害の大きさを考慮しつつ、その被害がそれほど大きくなければ、処罰に値するほどの違法性はなく犯罪不成立とすることは十分に可能なことなのです。逆に表現の自由にあまり重きをおかないのであれば、違法性は阻却されないと判断することになります。

刑法は住居侵入を犯罪として処罰することで、住居権者の利益を守りかつ社会の秩序を維持しようとします。ですが、刑法でも憲法上の価値とぶつかるときには、一定限度で犯罪にすることを差し控えなければなりません。それは刑法よりも憲法の方が上にあるからです。刑法によって国家権力が刑罰権という権力を行使しようとしたときに、それに歯止めをかけることもまた憲法の役割です。

・ 表現の自由が奪われることは、民主主義と立憲主義が崩壊すること

民主主義社会は自分と異なる意見をも受け容れ、そうした考えを持つ人と議論をすることによって初めて発展します。自分の聞きたくない意見であっても、ある程度それを受け入れなければならないときがあります。私たちの権利はお互いに衝突することがあります。そこではお互いに少しずつ我慢することも必要です。私も右翼の街宣車の音楽や演説をちょっとうるさくてイヤだなと思うことはあります。

ですが、だからといってそうした表現を一切禁止するべきだとは考えません。自分と違う意見の人の声をきちんと聞くということから民主主義は始まりますし、人権を尊重しようとするならば、私たちは多少、不快感や迷惑だと感じることがあっても、一定程度はそれを我慢しなければならないのです。そこはお互いさまです。

表現の自由(憲法21条)は、個人が自分の言いたいことを言って自己実現を図るために重要な権利ですが、それにとどまらず、民主主義に不可欠の意味を持っています。多くの多様な意見を参考に人々が自分の意見を創りあげ、そのことによって社会が進歩するという民主政治の根幹だからです。

もちろんいくら表現の自由といっても他人に大きな迷惑をかけることはできません。ですから官舎に住んでいる方々皆さんが本当にうんざりしていやがっている場合には、その意思を無視してビラ配りをすることはできないでしょう。

しかし、住民よりも官舎の管理者つまり国がいやがっていただけだとしたら問題です。国がいやがる言論は問答無用で取り締まるということになってしまいます。それでは自由な言論が保障された社会とはいえません。権力者にとって不愉快だからといって、異論、反論などの少数者の権利を封じ込めたのでは、民主主義は死んでしまいます。

立憲主義の思想は、国民一人ひとりがどのような政治的意見を持とうがそれには干渉しない、私たちの思想や言論のような精神活動の領域に国家はむやみに立ち入ってはいけないというところに本質があります。国家の統制が強くなり、人々が自由にものを言えなくなることは、立憲主義の崩壊につながります。

政府の気に入らない言論がどこまで許されるかが、その国の民主主義の程度を図るバロメーターになるといってもいいでしょう。

国家の統制が強くなり、人びとが自由にものを言うことができなくなったら・・・。
私たちはそのような社会を想像できるでしょうか?
 しかし「立川反戦ビラ配布事件」の有罪判決は、民主正義と立憲主義の崩壊につながる、
延長線上にある出来事ではないかと危惧します。
伊藤先生、わかりやすい解説をありがとうございました!
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