そこで人類は理性によって、多数派の考えを押しつけてはいけない事柄を見つけだします。多数決によってもやってはいけないことがあることを見つけだしたのです。
たとえ少数の人にとって意味があるだけで、多数派の人には不愉快なことであっても、それを多数派の人が奪ってはいけない事柄があると考えたのです。
物事にはあくまでも個人の自由に任せるべきで、人からとやかく言われるべきではない事柄があります。特にその人が心から大切だと思っている事柄については、人からとやかくいわれたくないものです。
たとえ、そのことが間違っていると人から指摘されたとしても、自分は正しいと信じているのですから、こっちが絶対に正しいと言われてもどうも腑に落ちない。言い換えれば、本当に正しいのはどちらか判断ができない問題については、他人から押しつけられても納得できないのです。結局は自分が信じているかどうか、自分の世界観、人生観にかかわってくるからです。
そうした問題は、他人がいくら多数決の結論だからといってきても、それが正しいことだと受け入れることはできません。実際、多数決による結果が正しいということは論証不可能です。そもそも個人が自分自身で判断するべき領域の問題については、多数決によってその善し悪しを決めることができないのです。
一人ひとりが自分の価値観で決めるしかない事柄に関して、多数決を基本にした民主主義のルールで決めようとすると、どうしてもひずみがでます。本来、決めてはいけないことを多数決で決めようとしているのですから、無理がでます。その多数決の結果に承伏できない人にとってみれば、自分の価値を否定されたわけですから、自分自身を否定されたように感じることもあるでしょう。その結果、大きな憤りを持ち、民主主義の決定過程自体に対して敵意をもつことになります。ときに暴力に訴えて、自分の価値を守ろうとするかもしれません。
そうした争いをさけるためには、多数決で決めてはいけないこと、多数決でやってはいけないことを予め確定しておくことが必要です。それが憲法なのです。そして、このように多数決に歯止めをかけることによって、ひとり一人が自分で決めるべきことがらの領域を確保することが憲法に基づく政治の根幹になります。そのような政治を立憲主義といいます。