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伊藤真のけんぽう手習い塾
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司法試験界のカリスマ講師の伊藤真塾長に、
時には明快な切り口で、時には懇切丁寧な解説で、
「憲法の根本的な意義や役割について」連載で教えていただきます。
第2回は、日本国憲法が保障する人権の本質
“個人の尊厳と平等”を具現化した憲法24条についてです。

いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

憲法は、一人ひとりが違った価値観のもと、幸せになることを保障している
新憲法制定の発議は現憲法では憲法違反である

先週は天皇家の長女と黒田さんの結婚式の話題でマスコミが盛り上がりました。清子さんは「黒田家の一人として新しい生活に臨んで参りたいと思います。」と記者会見で述べたそうです。結婚生活への抱負を公にしなければならないとはお気の毒ですが、そこでのコメントやその報道はこの国の結婚の姿をよく示していて興味深いものでした。翌日の新聞には「黒田家の一人として」という見出しが踊りました。二人の婚約が決まったときも、式や披露宴は天皇家と黒田家のどちらがイニシアティブをとるのか、どのように行われるのかなど世間は大騒ぎでした。

皇族は国民の税金で生活しているのですから、多少、国民を楽しませることは必要だとしても、あまり「家」を強調するのはいかがなものでしょうか。憲法は24条1項において、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」とし、2項では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない。」と規定しています。

皇族という特殊な地位にある人は完全な婚姻の自由が保障されていませんから、その婚姻が両性の合意のみに基づいて成立するものではないのはやむを得ないとしても、2項が保障する「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」は全うしてほしいと願っています。

戦前は、国家のために個人や女性が犠牲になった

この24条の規定は、憲法で保障する人権の本質である、「個人の尊厳」(個人の尊重ともいいます)と「平等」をともに具現化したもので、とても意義深い条文です。戦前の「家制度」の下で女性が一人の人間として、個人として尊重されず、男性と対等に扱われなかったことに対する切実な反省から規定されました。よく知られているように、この規定を憲法に盛り込むことに尽力されたのは、ベアテ・シロタ・ゴードンさんという当時22歳の女性です。戦前の日本の女性差別の実態をよく知っていたベアテさんは、アメリカ合衆国憲法にもない男女平等条項を世界のさきがけとなってほしいとの願いも込めて日本に贈りました。

「私は日本の社会のなかに入っていたから、女性が圧迫されていることを自分の目で見ていました。奥さんは家にいて、旦那さんのためにお食事をつくって、いろいろなことをして、旦那さんが会社からお友達を連れて帰ってくると、お食事を食べるでしょ。奥さんが全部やって、サービスして、あんまり会話にも入らないで、一緒にお食事も食べなかった。外に出るときは旦那さんがいつも前にいて奥さんが後ろから歩いていたでしょ。そういうことはとても不思議だと思いました。」(ベアテさんのインタビューでの発言『映画 日本国憲法読本』/フォイルより)

今の時代、家庭における個人の尊重と男女平等は世界の趨勢といってよいと思います。韓国でも2005年の3月には男性中心の家制度を支えてきた「戸主制」が廃止されました。家という集団を重視するのではなく、一人ひとりに着目してその個人を尊重していこうという発想は、アジアでも共通の価値観となりつつあると思います。

結婚はあくまでも個人と個人の問題であって、けっして家と家の問題ではありません。それが憲法の個人の尊重という価値の帰結です。戦前のように家に縛られて自由に離婚もできなかった女性は、財産権を保障されないだけでなく、人間としての尊厳も認められませんでした。夫の家に入り、家のために尽くし、ときに家のために犠牲になる。個人が家という制度のために犠牲になることを美徳とする価値観があったのです。それを否定し、あくまでも一人ひとりの個人が大切であり、女性も家の一員だから存在価値があるのではなく、一人の個人としてかけがいのない価値があるのだという価値観です。戦前は国家のために個人が犠牲になることを美徳としました。同様に家のために女性が犠牲になることも美徳だったのです。

すべての国民は個人として尊重される

その価値観を180度逆転させて、個人のためにこそ国家は存在意義がある、個人の幸せのために家庭があるべきだとしたのが「個人の尊重」という憲法の根本価値です。憲法はこれを13条で「すべて国民は個人として尊重される。」と規定して保障し、24条で家制度を否定して「個人の尊厳」として再度、規定しているのです。

嫁ぎ先の家族と共に仲良く暮らすことはいいことですし、その家族を大切に想う気持ちはやさしい人柄の現れと感じ取れます。しかし、嫁ぎ先の「家に入る」とか「家の一人として」という言い方をされてしまうと、ちょっと違和感を持ってしまうのです。まあ、いろいろな家庭があってよいのですから、私がとやかく言うことではありませんが、未だ世間では結婚は家どうしのものと言われても何とも思わないのかもしれません。個人の尊重への道のりはまだまだ遠いようです。

個人の尊重という価値の下では、家族のあり方もそれぞれでいいのであって、「男性は外で働き、女性は家を守る」というような性別役割分担がはっきりした家族を押しつけたり、男性同士、女性同士、子どもがいない家族、独身者などを変わった家族として異端視したりすることだけは辞めてほしいものです。そして、今後、マスコミも含めた日本の社会が、くれぐれも理想的な家族などのイメージを二人に押しつけないでほしいと願うばかりです。

日本の憲法の中で最も大切なことの一つが、「それぞれの価値観で一人ひとりが
幸せになることを保障している」ことだと伊藤先生は言います。
“一人ひとりが違っていていい”という思いが、
すでに60年前の憲法に書き込まれていたことには、驚かされます。
「押し付け」というよりはむしろ「贈り物」と言うほうが
ふさわしいと感じますが、みなさんはどのように考えますか?
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