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この人に聞きたい

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山内徳信さんに聞いた(その1) 

憲法力を手に闘ってきた

「米軍基地の村」沖縄県・読谷村長を6期にわたって務めた山内徳信さんは、
村長時代、村の基地占有率を大幅に減少させる「脱基地行政」を進めてきました。
さまざまな圧力にさらされた闘いの「武器」となったのは、
何よりも平和憲法だったといいます。

やまうち とくしん 1935年、沖縄・読谷村に生まれる。17年間の高校教師生活後、1974年、読谷村長に当選(6期)、その後沖縄県出納長を務める。1999年に山内平和憲法・地方自治問題研究所を開設。現在、基地の県内移設に反対する県民会議共同代表。著書に『憲法を実践する村 〜沖縄・読谷村長奮闘記』(明石書店)、『叫び訴え続ける基地沖縄 〜読谷24年—村民ぐるみの闘い』(那覇出版社)、『沖縄・読谷村の挑戦 〜米軍基地内に役場をつくった』(水島朝穂氏との共著・岩波ブックレット)、『沖縄は基地を拒絶する』(高文研)など多数。

高校教師から村長へ

編集部

 山内さんは、ずっと沖縄・読谷村の村長として、憲法を地方行政に生かすという村政を行ってきました。でも、村長さんになる前は、高校の教師をなさっていたんですよね。

山内

 そうです。私は、琉球大学の文理学部で歴史を学び、卒業後は読谷高校で社会科の教師になったわけです。迷いなく教師の道を選びましたね。

編集部

 それはやはり、戦争ということと関係あるのですか?

山内

 沖縄戦のときは、私は小学5年生。そりゃあ、悲惨なものでした。ようやく戦争が終わって学校が始まったとき、先生たちも腹をすかせながらも「ちゃんと勉強せんといかん」と必死に生徒たちに教えてくれた。教室には本気の熱気が溢れていましたね。だから私は、そんな先生方に少しでも恩返しをしたい、そう思って私は教師になった。真剣にいきることを生徒たちに伝えたいと思った、そう思ったんですね。

編集部

 教師から、村長選に立候補するというのは、どういう事情があったんですか?

山内

 1958年4月に私は読谷高校の教師になった。1972年の復帰前の沖縄では、高校の進学率は50%に達しなかった。そのころ読谷村では、高校に行っていない勤労青年たちのための夜間の青年学級を開設してたんです。私はそこの専任講師になりました。昼は読谷高校、夜は週2回の青年学級です。

編集部

 それは正式な学校だったんですか? 

山内

 いや、卒業証書はないんです。とにかく学びたい、という青年たちが昼の仕事を終えてから集まってくるんです。いやあ、みんな生き生きしてましたね。11年ほど専任講師をやってました。そのときの青年学級や読谷高校の教え子たちが、1974年に「村長になってくれい」と、学校やら自宅まで押しかけてきたんです。

編集部

 なにか、きっかけがあったんでしょうか?

山内

 当時の読谷村は総面積の73%が米軍基地。それが何をやるにしても邪魔になって、村政もうまくいかない。それに、基地の米兵による事故や事件は絶えず起こっていました。だから彼らは、なによりも人権が大事にされる村、安心して暮らせる読谷村を願っておったんです。それをきちんと米軍や政府に言える人間に村長になって欲しいんだと。しかし、私は万年教師でありたい、と突っぱねたんです。すると青年たちは「地域社会が必要としているとき青年は起て、というのが先生の教えだったじゃないか」と食い下がる。さらに私のかつての教え子でそのとき高校の教師をしていた浜元というのが来ましてね、「先生は、地域社会は民主主義の学校だって教えてくれたじゃないか。千名前後の読谷高校への未練を断ち切って、2万8千名(現在は3万8千名)の村民を生徒と考えてくれ」と言う。まあ、この言葉で吹っ切れたというか。

憲法9条と99条を村長室に掲げて

編集部

 それで1974年に初当選。それから6期24年間ですか。

山内

 そうです。長いような短いような---。

編集部

 そして、日本国憲法を武器にした村政を。

山内

 そう、村長室に憲法9条を掛け軸にし、99条を額に入れて来客用のソファからいやでも見えるように掲げたんですね。基地の村ですから、けっこう防衛施設庁の人なんかも来るんです。護憲的な人も来れば反憲法的な方も来る。「憲法力」という言葉を使う人もおるけれど、私にとっては、この条文は百万の味方のようなものです。本当に憲法は凄い力を持っていますよ。私は村政の理念として、あるいは実践の際にも、憲法をいつも盾にして闘いました。憲法を背負っていれば、怖いものなんかないですよ。

編集部

 たしか、村役場の前にも憲法を書いた大きな碑が---。

山内

 役場の職員たちが建てた大きな看板と石に刻んだ九条の碑が建っていますね。お互い触発し合っているわけです。

編集部

 そのように、憲法が息づいている一方で、沖縄でもこのところ次第にその力が弱まってきているような気もします。保守県政は覆らなかったし、名護市長選や参議院補選でも「反基地」の側が敗れる。

山内

 残念ながらそれが現状です。最近の選挙は負けていますが、あの95年の少女暴行事件の際の「沖縄一揆」は、いまでもそのマグマを保ち続けています。それは状況によってはいつでも爆発する力を持っている。それが沖縄です。

編集部

 いま、そのマグマはどんな状態にあるとお考えですか?

山内

 海底で静かに時期を見ているようなもんでしょうね。

編集部

 どういう形で、今後それが噴出してくると思いますか?

山内

 21世紀は環境の世紀です。人間だけが地球上にいるわけではなく、あらゆる生態系と共生していかなければならない。そんな中で、日米両政府は普天間飛行場の代替基地を辺野古の沿岸に作ろうとしている。これはそういうこれからの世界の動きにも反すると思いますね。嘉手納が極東最大の軍事基地というふうに言われておるんですが、いま日米が辺野古に作ろうとしている新基地は、まさに世界最強の発進攻撃基地となります。だから反対・阻止行動が展開されているのです。

編集部

 これがはっきりと動き出したときに、マグマがまた噴出する、と。

山内

 そう思いますね。辺野古沿岸にV字形の飛行場が作られる。そして、その隣りには辺野古弾薬庫もある。ここには、復帰前からうさぎとかニワトリとかアヒルなんかが放されていると言われていた。NBC兵器(核、生物、化学兵器)など、大変な兵器があるということですね。

編集部

 そういう家畜が死ねば---。

山内

 危ない。人間が行くわけにはいかないから家畜を放している。それらが動かなくなれば、ガスがもれておるということになる。そういう物騒な弾薬庫なんです。さらに、辺野古の大浦湾というところは、横須賀港よりも水深が深い。ここに基地が作られれば、原子力空母や原子力潜水艦もいつでも出入り自由になってしまう。すぐ右手に行けばもう太平洋でしょ。アメリカが欲しくて欲しくてたまらない世界支配の基地になってしまう可能性が大きい。

編集部

 そういう意図もあるわけですか。

アメリカが欲しくてたまらない
沖縄の基地

山内

 アメリカの基地関係者ならば、沖縄の他の基地を捨てても、これができるんだったらいい。そう思わせるところですよ。だからこれができてしまったら、沖縄は、じゃなくて、日本はこれからずーっとアメリカの軍事的植民地になってしまう。植民地がどれほど悲惨でどれほど人権が無視されてきたか、それはもうアジアやアフリカを見ればよく分かりますよ。そういうことを考えると、沖縄にアメリカの最強の軍事基地を作らせて日本を縛り付けさせるわけにはいかない。日米両政府が強引に押しつけてくれば、沖縄のマグマ、日本のマグマ、世界のマグマは爆発します。

編集部

 大田昌秀さんが沖縄の心を、参議院議員として訴え続けてこられましたが、今期限りで引退を表明しました。山内さんは、その後を継ぎたいという意志を表明なさっておられますね。

山内

 大田先生は生涯をかけて、沖縄戦の実相を研究してこられました。そして数多くの著作を発表された偉大な学者です。そして、沖縄県知事になられて、平和県政を進めてきました。その一環として平和の礎(いしじ)を作り、資料館を完成させました。もうひとつ、世界中から平和研究者が集えるような平和研究所を作りたかったんです。もう一期続いておれば、それも実現できたでしょうけど。そういうふうに世界へ向けて平和を発信し続けた知事さんでした。その後6年間、参議院議員として頑張ってこられました。私たちは沖縄の後輩として、きちっと大田先生の後を継がなければならない。そのことが、大田先生にご指導いただいた私にとっての、ご恩返しであり平和創造の実践だと考えております。

編集部

 山内さんは、大田県政では出納長をお務めになられましたよね。

山内

 最後の1年間ですけどね。でもこのときは、重大な局面を迎えていました。辺野古への理不尽な基地の押し付けについて、大田知事が最後の判断をする時期だったのです。自治体外交としてアメリカへの要請など沖縄の基地問題解決のため知事は渾身の努力をされていた。それは貴重な経験でしたね。

編集部

 それは、読谷村長としての地方自治の延長でもあったわけですね。

山内

 私の村長としての最初の公約は、当時、村の真ん中にあった255ヘクタールのパラシュート降下演習場を廃止させ、それを読谷村に取り戻すため訪米要請を5回展開する。これを実現するのに20年ほどかかりましたが、日米両政府を相手にした根張り強い闘いでした。

編集部

 具体的な闘い一環として、基地の真ん中に村の公共施設を作る、と。

山内

 米軍としては、基地の端っこなら作らせてもいいという考え方があったが、それでは基地は支障なく機能してしまう。基地機能に打撃を与えるために、基地のど真ん中に文化の楔を打ち込む必要があった。それは、村民には嬉しい話ですよ。基地の中に福祉センターを作る、野球場を作る、サッカー場もゲートボール場も陸上競技場も----。福祉関係者も喜ぶ、読谷高校生も喜ぶ。村民が必要と思うものを作る、村政の夢です。世界最強の米軍と、日米両政府を相手にしての自治体外交です。

編集部

 それを、一つの村がやるっていうのは凄いですよね。

山内

 それができたのは、やはり憲法の平和主義、基本的人権の尊重、主権在民の理念の実践のおかげです。私がもし憲法に出会っていなければ、もし普通の一般的な学び方しかしてこなかったなら、「憲法力」の発揮はなかったと思いますね。

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「憲法を背負っていれば、何も怖いものなんてない」。
迷いのない言葉に、力づけられる思いがします。
次回、山内さんの憲法への思いについて、さらにお聞きします

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