今回、中国で反日デモを起こしたのは、貧しくて虐げられている人ではなく、パソコンができる人たちが中心でした。反日デモが起こるのは、中国人の中に強い欲求不満があると思うのですが、その裏側に何があるのか、丹念に取材したデータは皆無です。そういうところを把握していないということが、外交能力、情報把握力のなさですよね。 インターネットというのはあたかも開かれたメディアのように思われていますが、実は使い方がわからなければその中のことは知り得ないのですから、クローズドのメディアなわけです。だからそこでの言論はオープンにならない。それで欲求不満が地下に潜るのです。ナチス・ドイツ支配下のフランス・レジスタンスのようなもので、閉じられた中で連絡をとりあっていなけばいられない。 そして、ネットがクローズドであることに気づいていないというのは、実は自分が欲求不満の中にいるかもしれないことに気づいていない、ということなのかもしれない。ネットというのはそういう、ある種不幸なメディアだと思いますね。だから私はパソコンというものを持たないんです。 インターネットを使わなくても、何も不自由はないですよ。だって私は、読む新聞はもっぱらスポーツ新聞だし、テレビもほとんど見ない。本さえもあまり読まないんですから(笑)。
多くの人は、憲法第9条というのは大きな問題で、自分の小さな問題とは結びつかないと思っている。そういうものはしっかりと勉強しなければいけない、と思っているんですね。勉強しなければいけない、と思うから「建前」になってしまう。 でも憲法第9条は大きな問題じゃなくて、当たり前のことなんです。私にとっての「当たり前のこと」の基準は、どういうことかというと、たとえば、「人とうまくやれない人はカンシャクを起こしがちだ」ということとか、「暴力をふるったって何の解決にはならない」、なんていう、それだけのこと。そんなことは誰しも生きてきた経験の中で知っていることでしょう。国の基本だってまったく同じじゃないですか。
それは、自分の問題を小さな問題にしてしまっているから。 多くの人は、自分の頭で考えて、自分の口でものを言うという単純なことを、すごく高級なことだと思ってしまうんですね。だから、何かわからないことがあっても「私、それわからないんですけど」の一言さえも言えない。何か聞かれたら、もっともらしいことを必ず答えなければいけないと考える。でも私だって別に立派な意見なんて言っていませんし、そもそも相手の言っていることがわからないまま流してしまうほうが、よっぽど失礼なんじゃないか、と思うわけですよ。 何も特別なことをしなければいけないんじゃない。自分が言えることを言えばいいし、やれることをやればいい。そうすれば、空気のような存在である憲法の精神が、現実に生きてくることになるのですから。「“そんなこと考えるのめんどくさい”、でもなんかわかるような気がするし、わかりたいような気がする」というぐらいが本物じゃないでしょうか。 自分が一歩踏み出さない限り、人との合意は得られませんよね。合意が得られなければ、自分が索漠としてくるんです。でも困ったことに、日本人にはなかなかそのほんの一歩を踏み出す勇気がない、習慣がないですからね。なんでもないことだけれど、そういう習慣がない人にとっては、その一歩を踏み出すのはとても勇気が要りますから。だから、今、日本人に必要なのは、ほんのちょっとの一歩を踏み出す勇気、だったりするんですよね。
9条について一生懸命勉強しなくても、 わからないことは「わからない」と聞けばいいし、 自分が言えることを言えばいい。 そんな橋本さんのことばに、とてもラクな気持ちになった人は 多いのではないでしょうか。 橋本さん、どうもありがとうございました!