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この人に聞きたい

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森達也さんに聞いた(その1)

「死刑制度」を私たちはどう考えるのか

1年後に施行が迫った裁判員制度では、私たち一般の市民が、
死刑判決にもかかわることになります。
その本当の意味や重みを、私たちはどれほど理解しているでしょうか?
著書『死刑』(朝日出版社)で世の中にその問いを投げかけた、
ドキュメンタリー作家の森達也さんにお話を伺いました。

もり・たつや
映画監督/ドキュメンタリー作家。1998年、オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画「A」を公開、各国映画祭に出品し、海外でも高い評価を受ける。2001年、続編「A2」が、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。近著に『死刑』(朝日出版社)、『ぼくの歌・みんなの歌』(講談社)、『視点をずらす思考術』(講談社現代新書)などがある。

死刑までも決める裁判員制度

編集部

 今年の1月に出版されたご著書『死刑』(朝日出版社)が反響を呼んでいますね。「死刑制度や死刑執行をどう考えるか」という課題は、実は9条とも関係があるのでは、と私は思っていますので、今回は、「死刑」という今の日本では合法の制度について、森さんに伺っていきたいと思います。
 まず、今の現状として、近年は死刑の判決も執行も増加傾向にあって、鳩山法務大臣が就任してからの8カ月間で、すでに10人の死刑囚が刑を執行されています。そして、2009年から裁判員制度が始動します。この制度では、一般の市民が「裁判員」として、死刑判決にもかかわっていくことになるわけですが、森さんはこれについて、どうお考えですか。

 死刑制度や裁判員制度については、いろいろと知っておくべきことがあると思います。

 まず一つは、裁判員や陪審員などの制度で国民が死刑判決に関与する国は、世界の中でも極めてまれであるということ。そもそも死刑制度のある国自体がもうかなり少ないのですが。もちろんだから駄目ということではない。死刑は国民の合意のもとに行われているわけですから、判決に関与することは悪いことではないと僕は思います。本当なら執行にも参加すべきです。でもその覚悟が本当にあるのかどうか、冤罪の場合は一生の重荷を背負います。何よりもこの事実が周知されていないことが不安です。

編集部

 よく裁判員制度の引き合いに出されるのがアメリカの陪審員制度ですが、陪審員が基本的には「有罪か無罪か」を判断するだけなのに対して(※)、日本の裁判員は「死刑か無期懲役か、それとも懲役何年か」という、量刑の判断をも求められるんですね。 ※アメリカの一部の州には、死刑判決に関してのみ陪審員の全員一致を絶対条件とする規定を設けているケースがある。

 そのとおりです。裁判員制度導入のスローガンとして「日本は世界の潮流に遅れてるからちゃんとしましょう」みたいな感じのことが言われていましたけど、実はこの制度は、世界の潮流とは違うところにある。それをまずは知らないと。もちろん潮流に乗れと主張するつもりはないです。その覚悟が本当にあるならそうすべきです。一生のうちに裁判員に選ばれる確率は70人に一人と試算されています。決して低い数字ではない。
 それから、根本的なことですが、裁判員は選挙人名簿から無作為に抽出するといいますよね。無作為に選んでおいて、そこに守秘義務と出廷義務という、2つの義務事項を負わせるわけです。これは憲法違反です。義務を負わせるのであれば、任意にすべきでしょう。
 さらに言えば、事前の申告で「死刑制度に反対する」という人は選ばれない、という噂もあります。もし本当なら、思想信条の侵害でもありますね。

編集部

 亀井静香議員が代表を務める「死刑廃止を推進する議員連盟」は、厳罰化と死刑執行の大量化が進む現状で裁判員制度を導入することは、「年間20人〜30人の死刑執行が平然と行われる社会を副産物として生み出すことが予想される」とも指摘しています。

 たしかに、それによって死刑判決が増える可能性はありますよね。
 一方で、裁判員制度を導入することで、「逆に死刑判決が減るんじゃないか」という意見もあります。つまり、それまではメディアの二次情報に触れるだけで、「こんなやつ殺されて当然」と言っていた人も、いざ裁判員に選ばれて目の前で被告人の姿を見れば、「さすがにそれはちょっと」と思うんじゃないか、と。

 でも、そうなると、被告人の見てくれで量刑がだいぶ変わるんじゃないか、という話にもなります。僕みたいなふてぶてしい外見の男は死刑にされちゃうし、いかにもおどおどした感じの善良そうな人は無期懲役になるとかね。ボーダーラインが、とても心情的なものになってしまうかもしれない。

死刑制度に、犯罪抑止効果はあるのか

編集部

 死刑の必要性が論じられるときに、その一番の根拠とされるのはやはり犯罪抑止効果ですよね。しかし、最近の事件を見ていると、殺人事件の容疑者が動機として「死刑になりたかった」と話すケースがあるなど、「死刑制度によって犯罪が抑止できる」という論理にはまったく説得力がないのでは、と思ってしまいます。

 アメリカでも、死刑が廃止されている州に住んでいる人が、わざわざ「死刑になりたいから」と、死刑を存置している州に行って人を殺した、という例があって問題になったことがあります。もちろん、犯人の言葉を額面どおりに受け取っていいかどうか、という問題はあります。彼らにはどこかで「悪役を演じよう」という部分があるのかもしれないし、自らの行為を整合化しようとの意識も働くでしょう。人の心ってそんなに簡単なものじゃないですからね。
 それは別にしても、死刑制度による犯罪抑止効果は疑問視されていることは確かです。スウェーデンやカナダでは、死刑廃止後に凶悪犯罪件数が減ったという統計もあります。アメリカのニュージャージー州も昨年末、知事が「犯罪抑止に死刑は役立っていない」ことを言明して、廃止に踏み切りました。

編集部

 統計的に見ても、死刑制度に犯罪抑止の効果がある、とはやはり言えないわけですね。

 死刑廃止後に犯罪が増えたとの統計はほとんどないようです。先日、ある死刑制度を考えるシンポジウムに出席したんですが、その主催者だった在日イタリア人の方が、最後にこんなことを言っていました。「僕には日本で生まれた、まだ幼い子どもがいます。その子に、僕は“どんなことがあっても人を殺しちゃいけないよ”と教えたい。でも、この国ではそう言うことができません。だって、国が人を殺しているから」。
 とてもシンプルな言葉だけど、そのとおりだなと思いました。子どもに「人を殺しちゃ駄目だ」と言って、子どもに「でもお父さん、あの人は死刑になったよ、殺されたよ」と言われたら、「あの人は犯罪者だから別だよ」とは言えない。

編集部

 「人を殺してもいい場合がある」ということを、国が率先して示しているわけですからね。

 子どものころから「死刑が執行されました」といったニュースに接していれば、その子は「悪いことをしたら死刑になるんだな」と思うでしょう。それはつまり、言い換えれば「悪いやつだったら死刑にしてもいいんだ」ということですよね。これは亀井静香さんがよく言っていることですが、死刑があることによって、もしかしたら逆に人の命が軽視されるようになることだってあるんじゃないでしょうか?

人が死ぬことを願う人生なんて、
地獄でしかない

編集部

 ただ、一般の人たちが死刑制度を支持する理由としては、犯罪抑止よりも「被害者感情」の問題が大きいような気がします。

 たしかに、本音はそっちでしょうね。被害者がかわいそうじゃないか、やっつけちゃえという気持ちが強い。

 ただ、ずっと考えていたんですけど…たとえば僕の友人や家族が犯罪被害者遺族になったとして、その人が「犯人を絶対死刑にしてくれ」と言って、毎日それを願いながら生きていくとしますよね。そうしたら、その人が自分に近い人間であればあるほど、僕は「そんな人生でいいの?」って思ってしまうと思うんです。

編集部

 一緒になって「そうだ、死刑にするべきだ」とは言わない、と。

 もちろん想像するしかないけれど、海に行こうとか山に行こうとか、「気分を変えようよ」と言うんじゃないかな。だって、人が死ぬことをひたすら願いながら生きる人生なんて辛すぎます。その辛さを僕は共有できない。なんとか軽減してほしいと思う。そんな人生を、友人や家族に送ってほしくはない。

 でもその被害者遺族が自分の知らない人だったら、気軽に「そうだそうだ、死刑だ」と言ってしまえるかもしれない。それが今の世相ですよね。被害者遺族の本当の辛さを共有しようとはしないで、ただ応報感情だけを共有している。そういうことじゃないかと思います。

編集部

 「遺族がかわいそうだ、犯人を死刑に」と短絡的に言ってしまうことが、果たして本当に「被害者の悲しみを共有する」ことなのか…。そこのところを、もっと考えてみる必要があるのでしょうね。

常に多数派に身を置こうとする、
日本人の特異性

編集部

 最初に「世界の潮流」という話が出ましたが、世界的に見れば、死刑制度を存置している国はどんどん減っていますよね。

 そうです。多分、これからももっと減っていくでしょうね。存置国であるアメリカでも、テキサス州はモラトリアム(執行停止)に入ったし、ニュージャージー州も去年の12月に廃止しました。中国でも、桁は全然違うけれども執行された数自体はずいぶん減っている。増えているのは日本だけだと言ってもいい。日本の特異性が現れているという気がしますね。

編集部

 特異性とは、どういったことでしょう?

 一言にしちゃうと、日本人の組織への従属度の強さみたいなことかな。

 日本人って、個が弱いというか集団に対しての帰属力が強いでしょう。東アジアはわりとみんなそうだけど、その中でも日本は突出している気がする。だからこそ戦後の高度経済成長もあった。つまり、かつての皇軍兵士が企業戦士になって、滅私奉公で働いて、奇跡的な成長をなしとげたわけでしょう。
 それはポジティブな面だけど、違う方向へ行ったときにはとても怖いことになる。ひとつは仮想敵の論理。群れるリビドーが高いということは、不安や恐怖が強いということでもあるのです。その帰結として目に見える敵が必要になる。いなければ無自覚に作ってしまう。
 もうひとつは、自分たちの集団を「善」の領域に置くために、絶対的な「悪」の存在を求めてしまう傾向が強くなること。
 それと信仰心が本来はとても強いのに具体的な体系が薄いから、死を哲学的に考察する機会をあまり持たないということも、死刑制度から目を逸らしてしまう理由のひとつかもしれないですね。その帰結として、善悪二元論の構造の中に、死刑制度がはめ込まれている。自分たちの平穏な生活を守るために、強い統治権力が「悪い」やつをどんどんやっつけてくれるという信仰にすがりたい。そのためには死刑制度が必要だ、ということだと思います。

編集部

 だからこそ、国民の8割ともいわれる人たちが死刑制度を支持している、と…。政府もよく「民意が支持しているから」死刑制度は存続する必要がある、といった言い方をします。しかし、実はヨーロッパの国などでも、世論は死刑制度支持が多かったけれど、政権が廃止を決めたというところが多いんだそうですね。

 フランスなどが典型ですが、存置を望む声は高かったけれど、政府がそこを押し切って廃止に踏み切った。現状では、存置派と廃止派のパーセンテージは逆転しているそうです。

 だけど、日本はそういうふうに押し切れない。ポピュリズムが強いというのも、日本の特徴だと思います。政治も司法もメディアも、民意を裏切らない、裏切れないんです。それをやっちゃうと政治家は支持が得られなくなるし、メディアは数字が下がるから。だから、常に多数派に身を置こうとする。少数派になるのが怖いのが日本人なんです。

編集部

 しかも、最近はどんどんその傾向が強くなっているような気がします。「KY(空気を読めない)」という言葉が流行したり…。

 「空気を読む」こと自体は、大事なんですよね。人間以外でも、群れで生きる動物はみんな、1匹が逃げたら群れ全体がそっちへ逃げる。誰かが逃げたときにぼーっと立ってたら天敵に食われちゃうわけですから。人間にもそういう、「空気を読んで行動する」本能はあるんじゃないかと思います。

 ただ、空気を読むことイコール従属する、じゃないんです。今は周りに天敵がいるわけじゃないんだし、「俺は空気は読んでるけど、その上でこっちへ行くよ」という人がいたっていいはずです。ところが、日本人はそれがなかなかできない。空気を読むことと、多数派に従属することがイコールになってしまっているんですね。

作られる凶悪犯罪増加のイメージ

編集部

 そうした「多数派になりたがる」傾向が強まっているのは、やはり9.11テロ事件やオウム真理教によるサリン事件などをきっかけに、犯罪やテロに対する不安、危機管理の意識が高まったことと関係あるのでしょうか?

 そうでしょうね。どこかでみんな怖いから、不安だから多数派に身を置きたいという気持ちがあるんだと思います。
 ただ、実際には、去年の日本国内の殺人事件認知件数は、戦後最低だったって知ってますか。

編集部

 最低ですか? これだけ「犯罪が急増している」と言われているのに?

 一番多かったのは1954年(昭和29年)で、3081件だったかな。「いい時代だった」と言われている、映画『三丁目の夕日』の時代です(笑)。それが昨年は1199件で、戦後最低。人口の増加を考えればほぼ四分の一に減少しています。でも、マスコミはそのことをどこも報道しないんですよね。

編集部

 「殺人事件が減っている」という、いわば「いい話」のはずなのに、なぜなんでしょう? それどころか、政治家も平気で、「これだけ犯罪が増えている」という言い方をするし、マスコミもそれをそのまま報道する。

 ねえ。戦後最低というフレーズはメディアは大好きなはずなのに。やっぱり治安が悪いとみんなが思っているほうが都合がいいんだろうとしか思えません。警察はそのほうが予算の額が増えるし、天下り先としてのセキュリティ業界も大盛況になる。政治家は政治家で、国民には「治安が悪い」と思ってもらっていたほうが統治しやすい。ナチスドイツなんかもそうだったけど、不安や恐怖は管理や統治のうえで最大の潤滑油です。特に改憲したい保守派の政治家などにとっては、危機管理意識の高揚は望むところでしょうね。
 そしてメディアは市場原理。危ない、怖いという報道をしたほうが、数字が上がるからです。

編集部

 それは、読者・視聴者のほうがそういった報道を求めているからなのか、それともメディアの報道によって、そういった民意がつくられているのか…。

 メディアと民意というのは相互関係ですから、どちらが先とも言いにくいけれど、でもやっぱり、一般の人たちが知らない事実を、メディアの人たちは知っているわけです。そう思うと、やっぱりメディアが先ですよね。

編集部

 冒頭で私、「9条と死刑」の関係について言いましたが、以前、このインタビューで憲法史がご専門の古関影一さんにお話をお聞きした際、次のようにおっしゃっていたのがとても印象的だったんですね。
 「(憲法9条は)武力によって人の命を絶たないということ、すなわち人の命を大事にするということです。私たちが日常生活の中で、“悪いことをしたやつは殺せばいい、監獄に入れればいい”と簡単に言っているようであれば、それはほとんど戦争の論理と変わらない。“あの国は悪い国だから攻めたっていいんだ”ということですよね」。
 それを聞いて、ほんとうにそうだなあ、と思ったのです。しかし現実の日本社会は、武力での解決を否定する9条を憲法に持ちながら、それとはま逆のこと、「死刑で解決せよ」という体制があり民意がある。やはりここにも「9条のねじれ」があるのだなあ、と感じていますし、森さんのお話を聞いて、ますますその思いを強くしました。

その2へつづきます

森さんからメッセージをいただきました。  こんにちわ。森達也です。2008年1月に刊行いたしました『死刑』をお送りいたします。なぜこんなテーマを選んだのか? 自主制作映画『A』『A2』を発表したことをきっかけに、オウムの元幹部である死刑囚たちと手紙のやり取りや面会を重ねるようになり、そのうちに自分が死刑を(もちろん言葉では知っているけれど)観念的にしか知らないということに気付きました。 要するに視界から逸らしていたのです。ならばちゃんと見てみたい。そう考えました。
 だからこそまずは死刑を知り、そのうえで考えたいという衝動から始まって、死刑の周辺にある場所や、死刑と関わらざるをえなかった人々を訪ね歩きながら考え続けました。基調低音としてあるのは、この死刑という制度を自分は認めるのか、あるいは認めないのかとの葛藤でした。
 そしていつもうじうじと悩むばかりで白黒をはっきりさせることが苦手な僕としては珍しく、結論をきちんと出したつもりです。
 久しぶりの書き下ろしです。久しぶりに苦労して、そして書くことの充実感も味わいました。ご感想、ご批判、いただければ幸甚です。
(森達也)

「悪いことをしたやつは死刑にすべきだ」。
そんな短絡的な言葉が、公の場でさえ聞かれる現状に、怖さを覚えます。
「人殺しはいけない」と教える反面、国家が合法的に「人を殺す」ことの意味を、
1人ひとりがもう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。
次回は、『日本国憲法』(太田出版)の著書もある森さんに、
憲法についても伺っていきます。

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