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「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」などで活躍するミュージシャン、
伊丹英子さんは現在、沖縄県・宜野湾市に在住。
音楽イベント「ピース・ミュージック・フェスタ!」などを通じて、
辺野古への基地建設にNOの声を上げ続けています。
基地問題へとかかわりを深めるきっかけは何だったのか、
そして沖縄に住んでみて見えてきたことは——。
いたみ・ひでこ
1962年三重県生まれ。ミュージシャン。ロックバンド「メスカリン・ドライヴ」などを経て、1993年に中川敬らと「ソウル・フラワー・ユニオン」を結成。1995年の阪神淡路大震災の後、アコースティック・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」を結成し、被災地での演奏活動を続ける。2005年より沖縄・宜野湾市に在住。2007年から、基地問題や平和を考える野外音楽イベント「ピース・ミュージック・フェスタ!」の実行委員会共同代表を務める。
先月の沖縄・名護市長選挙で、普天間基地の辺野古への移設反対を掲げる稲嶺進市長が誕生しました。
伊丹さんは、5年前から普天間基地のある宜野湾市に住まれていて、辺野古での基地建設反対運動にもかかわられていますが、この市長選結果はどんなふうに見られていましたか?
あのときの辺野古は、私がこの5年間で見た中で一番輝いてたかな。私も、本当にうれしかった。
まだ開票結果が出てないときに、辺野古のあるおばさんから電話があって、「私らが勝った!」って言うのね。「それ、おばさんの妄想じゃないの」とか言ってたんやけど、友達に電話したら「出口調査でもう勝ちって出てるよ!」って言われて大興奮。期日前投票が多くてやばいんじゃないか、みたいな話もあったし、ぎりぎりでも勝ってほんとによかったと思う。
本当に、そう思います。それにしても、「辺野古への基地移設」が浮上してから13年間、座り込みによる反対運動はずっと続いていて、でも市長選ではずっと受け入れ賛成派が勝ってきていたわけですよね。それが今回ひっくり返ったっていうのは、何に後押しされたんだと思われますか。
座り込みの何がすごいって、基地の建設を13年間阻止してきた、引き延ばしてきたことなわけでしょう。で、その間にみんながだんだん、「お金がばらまかれても生活は何も変わらない、基地がきても絶対自分たちの生活は潤わない」っていうことをわかってきたというのがあると思う。
あと、政権交代があって、内地のテレビのニュースとかでも辺野古のことをしょっちゅうやるようになった。これまでは沖縄の、それも本島中部(米軍基地の集中するエリア)の人間でも辺野古に行ったことない人がほとんどやったから。テレビで見て改めて「こんな事が起こってたのか」って思ったウチナーンチュ(沖縄の人)も多かったと思う。
今、すごいよ、辺野古(笑)。イギリスのテレビ局とかアルジャジーラとかいっぱい来てて、観光地状態。座り込みやってる人ら大忙しやもん。「こちらがシュワブでございます〜」みたいな(笑)。
それだけ世界中に知らされたら、さすがにそこに基地はつくれないんじゃ?と期待してしまいますけど…。
うん。ただ、沿岸部の工事は止まってても、キャンプ・シュワブの中はひそかに、がんがん工事してるけどね。ああやって進めといて「もうお金使っちゃってるからやめるのは無理」みたいにしたいのかな、と思ってしまう。
2010年正月に、ピース・ミュージック・フェスタ!実行委員のメンバーと辺野古で (写真提供:「ピース・ミュージック・フェスタ!実行委員会」)
さて、伊丹さんは関西出身ですけど、そもそも沖縄に住もうと思われたのはどうしてなんですか?
その前に住んでたアイルランドの寒さに耐え切れなかったから(笑)。あとは、いろいろ理由はあるけど今思えばやっぱり「好きやったから」。そういうタイミングやったんやな、って今は思う。
その前から、“ソウル・フラワー・モノノケ・サミット”などで沖縄民謡を演奏されたりしてましたよね?
神戸の震災の後、ボランティアで私らがよく行ってた地域が、奄美や沖縄から来た人が多い地域で。そのときは民謡なんかまったく知らんパンクロッカーやったから、「汗水節やれ」とか言われて、「何それ?」っていう感じやったけど(笑)。
そのときに、寝たきりやったはずのおばあちゃんが、私たちが演奏する沖縄民謡で、いきなりカチャーシーを踊りだした、っていうことがあってね。音楽の力ってすごい、沖縄の人たちのルーツってすごいな、と思った。ずっと「音楽のないところには住みたくない」と思ってたし、そういうこともあって、日本で住むべきところは沖縄しかないって思ったのかもしれない。
ずっと宜野湾に?
そう。首里とかはきれいすぎてなんかピンと来ないし、住むんやったら宜野湾かコザ、って初めから思ってた。やっぱり、大阪人ってああいうごちゃごちゃっとしたとこが好きなんとちゃうかな(笑)。
基地問題について、とかは・・・
全然。最初、普天間基地のすぐ横のアパートを借りてたから、周りのみんなに「さすがヒデ坊やな、戦う気満々やなー」とか言われたんやけど、そんなわけないやん! たまたま、そこのアパートがすごい安かっただけ(笑)。
「思いやり予算」とかも私、沖縄に引っ越してから知ったもん。沖縄の人、外人はみんなアメリカー(アメリカ人)と思いがちだから(笑)、電気屋さんとかガス屋さんとかがドーナル(夫でアイルランド人ミュージシャンのドーナル・ラニーさん)を見て勝手に「お父さん、アメリカーやから電気代もガス代もいらないはずよー」とかって言う。まさか私たちの税金がそんなとこに使われてるとは思わないからビックリしたよ。ドーナルはアメリカ嫌いやから、かんかんに怒ってたけどね。しょうがないやん、アメリカ人に見えるんやから(笑)。
それが、どうして基地問題を意識するように?
引っ越してきてすぐ、ちょうど普天間基地の発着経路が変わって、飛行機が私のアパートの真上を飛ぶようになって。パイロットの顔とかも見えるくらい。そのときまだ2歳やった娘は騒音で泣くし、これは大変なことやなって思った。そういう、実際にその現状を体験したところからかな。
でも、周りのウチナーンチュの人らと飲みに行っても、もあい(寄り合い)に行っても、絶対みんな基地の話はしない。どうしてもお父さんやお母さんが基地で働いてる、親戚の誰かがアーミーと結婚してる、とかいう人がたくさんいるから。波風立てないために、基地の話はしないのが当たり前。飛行機の騒音も「すぐ慣れるよ」ってみんな言うしね。「飛ばんかったら、今日なんかあったかねーって不安になるよ」とか、冗談やけど。
辺野古へは?
「辺野古でソウル・フラワーの〈満月の夕〉とか歌ってる子らがいるよ」って聞いて、「じゃあちょっと行ってみよう」って、娘を連れて行ったのが最初。それで話をするうちに、みんな頑張ってて疲れるやろうし、ソウル・フラワー呼んで、なんか余興やろうか、みたいな話になって。神戸のときに「おばあちゃんらが退屈してるやろうから、歌いに行こう」ってなったのと同じようなノリやったんやけど。
それで、こっちで知り合ったミュージシャンの知花竜海に相談したら、「去年、那覇の子たちが『こんなきれいな辺野古に基地なんか建ててほしくない』って、辺野古の浜でレゲエフェスみたいなことやってたよ」って教えてくれて。その子らは、激しく赤字をかぶってしまって(笑)、2回目はやらないつもりだったらしいけど、せっかくノウハウがあるし、別々にやるよりそこに私らが合流して2回目をやろうや、ということになって。
それが2007年に辺野古でやった“ピース・ミュージック・フェスタ!”なんですね。周りの反応はどうでした?
もう、村全部が移設賛成ムードやからね。もちろん、みんな心から賛成してるわけじゃないけど・・・。200軒ある家を全部回って「こういうことをやらせてもらいたいんですが」って言いに行ったけど、やっぱりドア半開き、みたいな感じやった。まあ、20人くらいでぞろぞろ、しかもラスタマンとか変なんばっかりで行ったから、そらみんな半開きにするよな、みたいな感じでもあったけど(笑)、難しかったのは確か。すごい緊張感はあったよね。
でも、渋さ知らズとかも来てくれて、お客さんの入りはまあまあやったし、ずっと座り込みをやってる人たちにはすごくいいモチベーションになったと思う。お客さんの6割くらいはナイチャー(内地の人)だったけど、「内地の人の中にもこんなに応援してくれてる人がいてくれるんや」って。それだけでも伝わればいいかなって思ったし、とにかく一生懸命で、あっという間に2日間が過ぎたっていう感じやったね。終わった後に、座り込みをずっとやってる男の人から、「アメリカ、日本両政府が一番やってほしくないこと、それは辺野古の浜に人を集めることなんだよ。ピース・ミュージックは、すごい意味があることをやってくれた」って言ってもらえて嬉しかった。
宜野湾で行なった「'09ピース・ミュージック・フェスタ!」のステージにて (写真提供:「ピース・ミュージック・フェスタ!実行委員会」)
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