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伊勢崎賢治の平和構築ゼミ

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アフガニスタンでの武装解除を指揮した伊勢崎賢治さんは、現在、東京外国語大学で平和構築・紛争予防講座長を務めています。そのクラスには、世界各国から学生たちが集まっています。学生といっても、紛争地から国費留学でやってきた、国を再建する命を受けている官僚の卵や、国連の元上級幹部など、出身地もバックグラウンドも実に多様。
「マガ9」では、伊勢崎さんをナビゲータとして、学生たちの出身国、出身地の現状について紹介。伊勢崎さんとのやりとりを通して、国際平和を作るために何が求められているのか? 生の声を聞きつつ、日本の現実的で有益な国際協力について考えていきましょう。

第5回:デズモンド・マロイさん(アイルランド出身)(その2)「軍隊から人道支援の世界へ」

伊勢崎賢治 いせざき・けんじ●1957年東京生まれ。大学卒業後、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動に携わる。国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シェラレオネ、 アフガニスタンで紛争処理を指揮。現在、東京外国語大学教授。紛争予防・平和構築講座を担当。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』(かもがわ出版)などがある。

Desmond Molloy(デズモンド・マロイ)●1957年、ダブリン生まれ。アイルランド国軍大尉としてレバノン国連平和維持軍、カンボジア国連軍事監視団に参加した後、退役。シエラレオネ、ハイチで国連PKOの武装解除の責任者などを務める。現在、東京外国語大学大学院平和構築と紛争予防講座伊勢崎研究室の特別客員研究員、国連開発計画(UNDP)武装解除・動員解除・社会復帰担当シニア・アドバイザー。

アイルランドと人道支援活動

伊勢崎  今回は、前回の終わりに少し話が出た、あなたがなぜ軍隊をやめて、人道支援の世界に飛び込んだのか、という話をしていきたいと思います。
 1981年から、アイルランド将校の身分のままで何度か国連のミッションに参加していたんですよね?

デズモンド  1981年から82年はレバノンの平和維持軍に、92年から93年はカンボジアでの平和維持活動に参加していました。
 実はそのときも、「アイルランド人である」ということで、他の国から来た同僚たちに比べて地域の人たちからとても受け入れてもらいやすかったという経験があります。アイルランドが19世紀ヨーロッパの植民地主義に直接的には関与していなかったこともあって、「権威的な国ではない」という、非常にいいイメージがあるようなんですね。
 さらに、アイルランドは1963年という早い時期から国連ミッションに軍隊を送っていて、他の参加国もみなそれを知っているので、その中でも一種の尊敬を受けているというか、やや特殊な立場にあります。たとえば、私がカンボジアで一緒に行動していた英国人兵士2人は、上官から「アイルランド兵は国連ミッションにおいて豊かな経験があるから、彼の行動をよく見ておくように」と言われたと言っていました。

伊勢崎  そうして国連での活動に積極的に参加するのは、それがアイルランドの国益にかなうからということですか?

デズモンド  国益ではありません。我々は、国連の活動など国際協力においては、国益は求めません。求めるのは「ナショナルオナー(国の名誉)」。自分たちの国が国際平和に貢献できる、そのことを誇りに思うだけです。
 ですから、カンボジアで一緒だったアメリカ人兵士たちは、毎日CIAにレポートを送っていましたが、私たちアイルランド兵は自国政府にそうしたレポートを提出するとかいうことはありませんでした。国連のミッションに参加するときは、国連の行動計画が我々の行動計画。それが基本だと思っているからです。

伊勢崎  国連のもとで働く限りは、国連――国連組織ではなくてその理念ですね――に忠誠を捧げるべきだ、と。

デズモンド  そのとおりです。その意味で、アイルランド人であるということは、基本的に人道支援の世界にも多くのドアが開かれているということだと言えるかもしれません。

伊勢崎  でも、軍をやめる直接的なきっかけになったのはカンボジアでの体験だ、ということでしたよね。それについて詳しく聞かせてください。

個人としての行動が、多くの難民たちを救った

——カンボジアでは1970年代から、米国やベトナムなど外国勢力の介入を受けての激しい内戦が続いていた。しかし1991年になって、ようやく国内四勢力が参加しての和平協定「パリ協定」が成立。20年以上にわたる内戦がようやく終結する。
 このパリ協定に基づき、1992年から展開された国連平和維持活動(PKO)が、日本人国連職員の明石康が事務総長を務めた国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)。日本の自衛隊が初めて参加したPKOでもある。デズモンドさんたちアイルランド軍兵士は、停戦合意の監視を使命とする「軍事監視要員」としてこのミッションに加わった。

デズモンド  しかし、そこで我々は、軍としての任務をまったく実行できませんでした。なぜなら、そこには存在しているはずの「停戦」が存在していなかったからです。

——一度は停戦に合意したはずの旧政権勢力、クメール・ルージュ(※)は、まもなく政府軍への攻撃を再開。「すでに停戦が破れてしまっていることを、私たちはカンボジアに着いた最初の日に確信した」とデズモンドさんは言う。

デズモンド  特に、我々はカンボジア北西部のパイリンという町の近くにいたのですが、このパイリンは当時、クメール・ルージュの拠点になっていた場所でした。我々の拠点にも激しい砲撃が加えられましたし、私と一緒にいたカンボジア人ボディガードも殺されたんです。

伊勢崎  軍事監視要員というのは非武装だから、その活動が成り立つのは、どちらのエリアに行っても護衛がついて、安全が保障されるという合意があってこそ。ボディガードが殺されるというのは、その「合意」が無視されているということですよね。まさに、停戦合意の崩壊を、身をもって体験したわけだ。

デズモンド  そう。言ってみれば、我々は停戦ではなく、「戦争」の監視をすることになってしまったわけです。政府軍からは、前線に行って何が起こっているのかを見ることは禁じられていたのですが…。
 そうして本来の「停戦監視」業務ができなくなってしまった我々のチームが、それに代わって関わるようになったのが、近くのコミュニティでの人道支援活動でした。当時のカンボジアには人道支援活動を行う国連機関やNGOがたくさん入ってきていた。彼らにプレッシャーをかけて、援助を必要としているコミュニティへの支援に取りかかってもらったわけです。
 特に問題だったのが、街道沿いの村々に逃げてきていた国内避難民の存在でした。その街道の行き止まりには、タイから戻ってきた難民たちの住むキャンプがあって、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や世界食糧計画(WFP)などの支援はそのキャンプに集中していました。その一方で、国内避難民は「難民」として認識されていないために、いっさい支援を受けることができないでいたのです。

伊勢崎  ああ、なるほど。内政干渉に当たる可能性があるから、国連機関は「難民」でないと扱えないわけだ。

デズモンド  そこで私は、自分たちと友好関係にあった国連機関のスタッフに、「君たちが国内避難民の問題に取り組まない限り、今後一切協力はしない」と告げました。そして彼らを、国内避難民たちが暮らすエリアへ実際に連れて行ったのです。軍のチェックポイントを抜け、地雷原を抜けて…。すべて、上司には何も言わず、自分1人で決めての、まったくの個人としての行動でした。
 でも、それが功を奏したんですね。国内避難民が置かれた状況の劣悪さを知った国連機関のスタッフたちは、国内避難民問題への取り組みを組織に働きかけることを合意してくれたんです。

※クメール・ルージュ…カンボジア共産党の別名。指導者の名を取ってポル・ポト派とも呼ばれる。1975年、当時カンボジアにあった親米政権を倒して権力を掌握。知識人階級の弾圧、人々の農村への強制移住、貨幣の廃止などの極端な政策をとり、虐殺や強制労働、飢餓で100万人以上の国民を死に追いやったとされる。1979年にベトナムに支援された現政府軍に敗れた後も戦いを続けるが、90年代後半ごろからは党幹部の離反や指導者であるポル・ポトの死により弱体化、消滅の道をたどった。2006年から、虐殺や「人道に対する罪」で党幹部らを告発する「クメール・ルージュ特別法廷」がカンボジアで開かれている。

人道支援に携わるために、軍隊を退職

デズモンド  つまり、カンボジアで私たちは、軍としては何の役割も果たすことができなかった。その一方で、私というたった1人の「個人」が、これだけ大きな状況を動かし、多くの人々を救うことができる、その事実に気づかされたわけです。この体験が、人道支援活動に対する私の意識を目覚めさせる大きなきっかけになりました。
 それまで、私の目標は軍のチーフオフィサーになることだったのですが、カンボジアでの任務が終わるころには、アイルランドに戻ったら、人道支援の分野で活動できる道を探そう、と思うようになっていました。

伊勢崎  でも、それだけでは軍人としてのキャリアを転換する理由としては十分ではないようにも思えます。人道支援にかかわりたいという目的を果たすにしても、なぜ軍将校としてではいけなかったのか、なぜ非軍人として、という道を選んだのでしょうか?

デズモンド  軍事行動の目的は、一般的に人道的な目的とは一致しません。私は、アイルランド軍というのは軍隊としては非常に特殊で、軍事力を使う前に必ず交渉の余地がないかどうかを考える、非常に人道主義を尊重する姿勢があると思っていますが、そのアイルランド軍も、国際協力の現場では国連という、より大きな力の一部として動いているに過ぎません。
 人道支援というのはそうではなく、個人の信念で行うものです。自分で計画を立て、自分の良心に従って行動し…。けれど、軍人である限りは上からの命令に従わなくてはならない。だから、私は自由を手に入れようと思ったのです。人道支援の分野で活動するために、軍人であるよりもいい方法があることに気づいたということだと思います。

伊勢崎  その原点がカンボジアでの体験だということですね。カンボジアでの任務が終わった後は、どうしたんですか? 

デズモンド  まず、上司の理解を得て、イギリスのブラッドフォード大学のダブリン分校に、週に2日通い始めました。それが私の「ピーススタディ」の入り口だといえると思います。
 その後、まだ修士コースを終える前でしたが、赤十字関連の機関からコンゴ民主共和国(旧ザイール)での緊急援助コーディネーターという仕事のオファーをもらい、それを受けることになりました。1995年、ルワンダの大虐殺があった直後で、ルワンダから逃げてきた難民たちが暮らすキャンプでの仕事でした。
 そして、6カ月間そこで活動した後、今度は赤十字国際委員会(ICRC)から援助コーディネーターのオファーをもらい、旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国へ。現地入りしたのは、デイトン合意(※)が成立した、まさにその日でしたね。
 そのころは、ずっと軍は長期休暇の扱いでした。スルプスカの後、再びICRCから北コーカサスでの地域安全コーディネーターの仕事のオファーをもらい、それを受けたときに早期退職パッケージを利用して、軍を正式に退職することになったのです。

※デイトン合意…1995年11月に国連の仲介により成立した、1992年から続いていたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争における和平合意。この合意により、ボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチア人とボシュニャク人が主体の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と、セルビア人主体の「スルプスカ共和国」の二つの国から構成される連邦国家として再出発することになった。

現在も、世界中で武装解除などの活動に従事するデズモンドさん。
次回、参加した国連ミッションでの体験や、
日本に期待することなどについても話を聞いていきます。

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