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伊勢崎賢治の平和構築ゼミ

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アフガニスタンでの武装解除を指揮した伊勢崎賢治さんは、現在、東京外国語大学で平和構築・紛争予防講座長を務めています。そのクラスには、世界各国から学生たちが集まっています。学生といっても、紛争地から国費留学でやってきた、国を再建する命を受けている官僚の卵や、国連の元上級幹部など、出身地もバックグラウンドも実に多様。
「マガ9」では、伊勢崎さんをナビゲータとして、学生たちの出身国、出身地の現状について紹介。伊勢崎さんとのやりとりを通して、国際平和を作るために何が求められているのか? 生の声を聞きつつ、日本の現実的で有益な国際協力について考えていきましょう。

第2回:モハメド・オマル・アブディンさん(スーダン出身)「(その2)ダルフール紛争はなぜ起きたのか?」

伊勢崎賢治 いせざき・けんじ●1957年東京生まれ。大学卒業後、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動に携わる。国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シェラレオネ、 アフガニスタンで紛争処理を指揮。現在、東京外国語大学教授。紛争予防・平和構築講座を担当。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』(かもがわ出版)などがある。

Mohamed Omar Abdin モハメド・オマル・アブディン●1978年、スーダンの首都ハルツーム生まれ。幼少期から徐々に視力を失い、12歳には文字の読み書きが出来なくなる。ハルツーム大学生だった1998年、国際視覚障害者援護協会の招聘を受け来日。鍼師・灸師・マッサージ師国家資格を取得するとともに、点字と日本語、コンピュータなどを学ぶ。さらに東京外国語大学外国語学部日本課程日本語専攻で学び、2007年に同大学大学院地域文化研究科国際協力専修コース平和構築・紛争予防コースに入学。NPO法人「スーダン障害者教育支援の会」理事長。

くすぶり続けていたダルフール問題

伊勢崎  さて、現在のバシール政権が成立した後、アメリカなどの援助が途絶えて、中国の援助が入ってきて、というところまでは前回話してもらいました。そこから南部の内戦が包括的合意へと向かい、一方でダルフール問題が表面化してくるわけですが、その経緯を話してもらえますか。

——「ダルフール問題はつい数年前、バシール政権下で始まった紛争だと思われがちだけれど、決してそうではない」とアブディンさんは言う。1970年代ごろから、深刻な饑餓が広がったり、チャド内戦に巻き込まれたり、リビアの軍隊が駐留したり、さまざまな軍事的・社会的脅威にさらされ続けていた地域——それがダルフールだった。そして、そのくすぶり続けていた紛争の種が、バシール政権下で火を噴くことになる。

アブディン  前回言ったように、バシール政権の成立においては、NIFが大きな役割を果たし、そのリーダーであるトラービーが政権内で力を持っていました。そして、このトラービーが急速に支持を広げていたのが、ダルフール地方だったんです。

 もともと、ウンマ党やDUPでは、都市部に住む家柄のいい人間が中心になっていて、それ以外の人たちは実力があってもなかなか上に上がれないというところがあった。それに対してトラービーは、誰にでもチャンスをあげる、能力があればどんどん登用するという政策をとった。だから、地方出身の、特に大学を出たような高学歴の人たちの間に、どんどん支持が広がっていったんですね。その中に、ダルフール出身者もかなり多かった。
 彼らは、せっかくチャンスをもらったんだから何でもやるという覚悟です。ハルツームのセキュリティフォース(治安部隊)にも、ダルフール出身者がかなりの数いました。民間人からは反感を買う、そういう汚れ役ばかりをさせられながら、政権内でのし上がっていったわけです。
 結果として、一時期バシール政権には、ダルフール出身の閣僚が6人いました。スーダン人口に占めるダルフール出身者の割合は40%ですから、かなり高い比率と言っていいと思います。

伊勢崎  つまり、少なくともその時点では、ダルフールの人たちにも中央政治への参加の機会は与えられていたわけですね。国際社会がイメージするような、完全に抑圧されて政治参加もできない、というような状況とは違っていた。

アブディン  ええ。ただそれは、ダルフール現地にいる一般の人たちの生活をよくすることにはつながらなかった。彼らは相変わらず厳しい生活を強いられていたんです。

伊勢崎  ダルフール出身の政治家たちはそれなりに政権内でのし上がっていったけれど、自分たちの支持基盤である地元の人たちの生活を改善するためには動かなかった、ということ?

アブディン  ええ。たとえば、一時期ダルフールに幹線道路を造るという計画がありました。その資金調達のために、ダルフールの一般市民にもある程度の負担が強いられた。それなのに、結局はまったく工事が進まなかったんです。
 ダルフールの人たちにとっては「中央の政治家は嘘つきだ」ということになりますけど、もちろんこの計画には、ダルフール出身の政治家たちも関わっていたわけで。一部の知識人が地位を利用して甘い汁を吸っていた、ということでしかなかったと思います。

伊勢崎  あなたは最初に、ダルフールの反政府勢力は「フリーダムファイター」ではなくて、単に政権闘争をやっているに過ぎない、と指摘していたけど、それはそうしたところから来ているのかな。

アブディン  そうです。たとえばJEMのリーダーであるハリール・イブラヒムは、トラービーに登用されて、中央政府の大臣やダルフール知事の補佐まで務めた人物です。しかも、ダルフールの若者たちをどんどんリクルートして、南部の紛争にPDF(人民防衛隊)として送り込む、その担当者でもあった。僕の同級生も4〜5人、そうやって兵士にされて、戦場で若くして死んでいきました。だから、今さら彼が偉そうに「自分たちは抑圧されてきた、弾圧を受けてきた」といっても、まったく心に響かないですね。

 しかし、彼らを重用してきたトラービーは、1999年ごろからバシール大統領との対立を深めていきます。そして、トラービーが大統領の不信任決議案を出そうとしたのをきっかけに、バシールは議会を解散。トラービー派の追い出しにかかりました。
 このとき、ハリールたちダルフール出身の政治家たちは、トラービーについて政権を出ていくほうを選びました。トラービーも、政権に戻るため、そしてバシールに圧力をかけるために、彼らを使って反政府組織を立ち上げた。もともと武力衝突の多い地域で武器は流通しているし、ある意味トラービー派の軍事部門みたいなところがあるんですね。

伊勢崎  JEMの戦いが「政権闘争に過ぎない」というのは、そういうことなんですね。

和平交渉が、ダルフール紛争への引き金になった

——一方で、ダルフールに住む一般の人たちの不満をさらに高める役割を果たしたのが、2000年ごろスーダン国内で出回った発行者不明の書物「ブラックブック」だった。そこには、独立以来のスーダン各地の開発状況に関する統計が事細かに記され、「ダルフールはこれだけ中央政府から無視されていた」ことが強く主張されていたのである。

 そうした不満の強まりの中、2002年、スーダン政府はSPLMとの和平交渉を開始。これはのちに、2005年の包括的和平合意という形で一応の結実を見ることになった。
 一方ダルフールでは、まさにその和平交渉開始の直後、2003年にJEMなどの反政府勢力グループが蜂起。激しい戦いが始まる。2006年にはダルフール和平合意が成立したものの、いまだ戦火は止まず、これまでに30万人以上が命を落としたともいわれる。

アブディン  つまり、ダルフール紛争は政府とSPLMとの和平交渉のさなかに勃発した。これはすごく重要なことです。私個人の見解だけれど、和平交渉自体が紛争の一つの引き金になったといえると思う。

伊勢崎  というのは?

アブディン  交渉が始まったとき、ダルフールの人たちは「やばい」と思ったわけです。ここで自分たちも乗っかっていかないと無視されてしまう、と。それで自分たちも交渉に入れてほしい、と主張した。
 でも、与党の国民会議にしても、SPLMにしても、他の政治集団を入れたら話が進まないし、自分たちの取り分も少なくなってしまうというので、これを無視した。国際社会も、とりあえず南部の紛争が問題だからそれを解決しなきゃ、みたいな感じで、その動きをむしろ奨励したんです。

伊勢崎  だから、「自分たちも交渉に入れろ」という意思表示のために、紛争を勃発させたと?

アブディン  だって、政府の行動は要するに「自分たちは脅威をなす組織としか話し合いをしないよ」というサインでしょう。それに対して、自分たちが誰であるかということを見せつけるために、ダルフールの人たちは立ち上がったともいえると思う。もちろん、政府に対する不満はそれまでにも十分あったわけだし。
 また、南部との紛争の際に、ムスリムであるダルフールの人たちは、「イスラムのために」「ジハード(聖戦)だ」という言い方のもとで、非常に多くの人々が国軍に駆り出されていました。それなのにSPLMと和平交渉を始めるというので、「自分たちはただ都合良く使われただけじゃないか」と、裏切られたような思いになった人も多かったと思います。

伊勢崎  そうした人々の不満が、全部政治的に利用されたわけだね。
 あと、バシール政権とともに、国際社会で「悪役」とされているのが民兵組織のジャンジャウィードだけれど、彼らはどういった存在なのかな。

アブディン  国際社会ではわかりやすくするために「アラブ系」としてひとまとめにしているけど、必ずしもそうではありません。多くがラクダに乗った、いわゆるバンディッド(盗賊集団)です。
 ダルフールの紛争が起こったとき、政府は困ったんです。南部の問題も和平交渉をやっているとはいえまだ終わっていないし、今言ったように国軍には非常に多くのダルフール出身者がいる。そんな軍隊を、まさかダルフールには行かせられませんよね。寝返るんじゃないかという危機感もあるし。そこで代わりに、ジャンジャウィードたちに武器を持たせ、国軍のIDカードを持たせて戦わせることにしたわけです。

 もちろん、それだけでは兵力が足りませんから、政府はダルフールへの攻撃に空軍も使いました。空軍というのは陸軍よりもエリートなので、中央出身者が多く、ダルフールのような地方出身者は少ないというわけです。しかし、空軍による爆撃というのは不正確ですし、そうした対応も、ダルフールでの被害拡大、問題の悪化につながったと思いますね。

政府と南部反政府勢力による和平合意が、
逆にダルフールの紛争を引き起こしたーー。
ここにもまた、国際政治の複雑さと難しさがあります。
次回、国際社会が、そして日本が何をすべきなのかについて考えます。

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