戻る<<

伊勢崎賢治の平和構築ゼミ:バックナンバーへ

伊勢崎賢治の平和構築ゼミ

080910up

アフガニスタンでの武装解除を指揮した伊勢崎賢治さんは、現在、東京外国語大学で平和構築・紛争予防講座長を務めています。そのクラスには、世界各国から学生たちが集まっています。学生といっても、紛争地から国費留学でやってきた、国を再建する命を受けている官僚の卵や、国連の元上級幹部など、出身地もバックグラウンドも実に多様。 「マガ9」では、伊勢崎さんをナビゲータとして、学生たちの出身国、出身地の現状について紹介。伊勢崎さんとのやりとりを通して、国際平和を作るために何が求められているのか? 生の声を聞きつつ、日本の現実的で有益な国際協力について考えていきましょう。

第2回:モハメド・オマル・アブディンさん(スーダン出身)「(その1)スーダン現代史を振り返る」

伊勢崎賢治 いせざき・けんじ●1957年東京生まれ。大学卒業後、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動に携わる。国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シェラレオネ、 アフガニスタンで紛争処理を指揮。現在、東京外国語大学教授。紛争予防・平和構築講座を担当。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』(かもがわ出版)などがある。

Mohamed Omar Abdin モハメド・オマル・アブディン●1978年、スーダンの首都ハルツーム生まれ。幼少期から徐々に視力を失い、12歳には文字の読み書きが出来なくなる。ハルツーム大学生だった1998年、国際視覚障害者援護協会の招聘を受け来日。鍼師・灸師・マッサージ師国家資格を取得するとともに、点字と日本語、コンピュータなどを学ぶ。さらに東京外国語大学外国語学部日本課程日本語専攻で学び、2007年に同大学大学院地域文化研究科国際協力専修コース平和構築・紛争予防コースに入学。NPO法人「スーダン障害者教育支援の会」理事長。

国際社会の「ステレオタイプ」は正しいか

——今年7月、日本はアフリカ・スーダン南部で展開するUNMIS(国連スーダンミッション)の司令部への自衛官派遣を決定。その準備のための調査団を現地へと派遣した。スーダンでは20年以上にわたり、ムスリムを中心とする政府と、南部を実効支配するキリスト教主体のSPLM(スーダン人民解放運動)との争いが続いており、2005年にようやく南北和平包括合意が成立。その履行支援が、UNMISの主な任務である。
 このスーダンの首都・ハルツームからやってきたのが、伊勢崎ゼミの学生のひとり、モハメド・オマル・アブディンさん。10代で病気のために視力を失い、大学生のときに鍼灸を学びに来日した。並行して日本語の習得にも励み、大学から大学院へと進学を果たした努力家である。

伊勢崎  僕は1988年から10年間アフリカでNGOの仕事をしていて、スーダン人のスタッフとも一緒に仕事をしていました。僕自身は直接スーダンに行ったことはなかったんだけれど、そのNGOではスーダンでのプロジェクトも実施していた。
 その当時のイメージでいうと、スーダンというのは開発学における「悪者」だったよね。まず、スーダン政府が取り入れているシャリーア(※)は女性蔑視だと言われていたし、FGM(Female Genital Multilation/女性器切除※)の問題でも、いつもスーダンは悪い例として語られていた。政府だけではなく、それを許しているスーダン社会そのものも悪者にされていたと思う。そのへんの実情はどうだったのかな。

アブディン  私が知っているのはスーダンでも都市部の考え方だけですが、少なくとも自分自身の周りでは、大学の同級生の半分以上は女性でした。あと、小学校の先生は8割方女性だし、銀行業界もそう。経済的な理由で進学させないことはあっても、制度として女性を学校に行かせないということは絶対になかったと言えます。
 FGMは、たしかに今も大きな問題ですが。スーダン国内のNGOも啓発活動をやってはいるんですが、そうすると「あんたたち、スーダンの文化をなくそうっていうの」と言われてしまう。FGMの廃絶は、イスラム文化を壊そうとする西洋人の言うことだ、みたいな流れになってしまっているんですね。本来、FGMは古代エジプトの習慣であって、イスラムとはまったく関係ないんですが。

伊勢崎  僕らのほうにも、FGMはイスラムの文化だというステレオタイプがあるよね。なんとかFGMをやめさせようと思っている現地の知識人がいても、そういう偏見に対しては反感を持つんじゃないだろうか。 
 そうした偏見、ステレオタイプを剥がしていくこともこの対談の目的の一つなんだけど、特にスーダンについては、現在続いているダルフール紛争についても、国際社会の間に非常にステレオタイプなイメージがあるよね。それはもしかしたら一面で真実なのかもしれないけれど、そんな単純な話ではないんじゃないか、とも感じる。今日は、そのあたりのことも含めて話していければと思います。

※シャリーア… いわゆる「イスラム法」。イスラム教の教えに基づいて定められた法体系で、宗教的な事柄のみならず民法、刑法など世俗的で幅広い内容を含む。

※FGM(女性器切除)… 女性の外性器を全部、もしくは部分的に切除すること。主にアフリカを中心に、女性の通過儀礼などの意味合いを持って行われてきた。切除そのもの痛みに加え、性行為時の激痛、感染症の危険などさまざまな問題が指摘されている。

反政府組織は「フリーダムファイター」か

ーースーダンでは2003年、西部のダルフール地方で反政府武装組織が蜂起。現在に至るまで、政府軍及びその支援を受けた民兵組織(ジャンジャウィード)との間で、激しい争いが続いている。今年7月には、ICC(国際刑事裁判所)検察局が、ダルフールにおけるジェノサイド(大量虐殺)などの容疑で、バシール大統領の逮捕状を請求した。一国の現職大統領の訴追は、これまでにも前例がない。

伊勢崎  このダルフール紛争についての国際社会のおおざっぱなイメージは、スーダン政府とその背後についている中国はとにかく悪党、一方それと戦うダルフールの反政府勢力は、貧しい地元の人々のために戦うフリーダムファイターなんだ、というものだと思います。あなたは、これについてはどう思っていますか。

アブディン  僕から見れば、ダルフールの反政府勢力は、まったく「フリーダムファイター」ではないですね。
 もともと、ダルフール紛争が表面化した2003年当時には、JEM(正義と平等運動)とSLM(スーダン解放運動)という二つの武装組織がありました。しかし、SLMは2006年のダルフール和平協定に調印し、今は基本的に戦いを止めています。今主に戦いを続けているのはJEMのほうですが、私はこのJEMにはまったく共感できません。ダルフールの声を代表している、人々の利益に寄与しているとはとても思えない。

 今年の5月にも、JEMはハルツーム近郊まで攻め上がって政府軍と戦闘をしたけれど、本当にダルフールのために闘っているなら、そんなことはできないと思う。ハルツームに住む人たちはそれによってダルフールに悪感情を抱くし、そこに住むダルフール出身者にも危害が及ぶ。事実、JEMとは何の関係もないダルフール出身者が、何人も政府側に逮捕されているようです。
 彼らがやっているのは、自分たちの利益のための政権闘争に過ぎない。それを国際社会がまともな「フリーダムファイター」として扱っていることに落とし穴があると、私は思っているんです。

伊勢崎  なるほど。では、それはなぜなのか、そもそもダルフールがどうして現在のような状況になったのかを知るために、スーダンの現代史を改めて振り返ってもらうところから始めたいと思います。

独立からバシール政権の成立まで

——19世紀、エジプトとそれを支援する英国の植民地支配下に置かれていたスーダンは、激しい独立運動の末、1956年に独立。1969年に、陸軍によるクーデターでヌメイリ軍事政権が成立した。

アブディン  この政権は15年以上にわたって続きますが、1985年、軍による無血クーデター「4月6日革命」で倒されます。
 このとき、政権を掌握した軍部が打ち出したのは、複数政党制への移行でした。軍の支配下で1年間の暫定準備期間を置き、その後に選挙を実施して議会を設立すると発表したのです。

——しかし、ヌメイリ軍事政権下においては、すべての政党活動は厳しく禁じられ、ほとんど壊滅状態にあった。そこから人材を集め直し、マニフェストを作成して、実質的な政党活動を機能させていくには、1年という準備期間はあまりにも短すぎたのである。
 結局、1年後の選挙が迫っても、各政党には、きっちりとマニフェストを人々に示して支持を集められるような力は育たないまま。多くの政党は、マニフェストではなく宗教や部族といった伝統的な基盤を利用して支持を固め、選挙に勝つ道を選んだ。

伊勢崎  あまりにも急に政党制を確立しようとすると、各党は支持が欲しいがために、宗教とか部族を利用せざるを得なくなる。それはスーダンだけではなく、他の多くの国で見られる図式ですね。そして、その選挙の結果は?

アブディン  北部の政党が第一党から第三党までを占めることになりました。南部は、そのころすでにSPLMの実質的な支配下にあったので。
 しかし、この三つの党ーーウンマ党、DUP(Democratic Unionic Party/民主統一党)、NIF(National Islamic Party/民族イスラム戦線)は、すべてイスラム教と深く結びついた政党でした。一方でそれに事実上加われない、スーダン人口の30%を占める非ムスリムの人たちは、「南部○○同盟」といったような、地域に根ざした政党を結成していった。このために、本当の意味での国民政党が、なかなかできてこないという状況になったんです。

——それでも、複数政党制による議会制民主主義は、1989年まで3年間続く。その中で課題として浮上してきたのが、ヌメイリ軍事政権時代、急進的なイスラム政党であるNIFとの和解のために導入されたシャリーア、イスラム法の存在だった。この導入は、南部のSPLMの反感を買い、南北内戦激化の一因ともなっていたのである。

アブディン  シャリーアを撤廃しない限り、SPLMが政府との和平交渉のテーブルにつかないことは明らかでした。彼らはムスリムではありませんから。
 そこで1988年の11月に、DUPのリーダーがSPLMのリーダーであるジョン・ギャラン(※)と会談して、「シャリーアを凍結するから和平交渉をしましょう」という約束をするんですね。DUPにとっては、和平交渉を進展させて次の選挙を有利に進めるためのカードだったけれど、それ自体はすごくいいことだったと思います。しかし、急進的なイスラム政党であるNIFはこれに反対して、連立政権を脱退してしまうんです。
 そして、そのNIFの中心的な支持層だったのが、軍人たちでした。彼らが中心となって、1989年の6月に、再び軍事クーデターが起こります。ほとんどNIFが決行したと言ってもいいようなクーデターでした。

伊勢崎  その首謀者が…

アブディン  現在のバシール大統領です。
 実は、この前年にスーダンでは大洪水があって、大きな被害が出ました。ハルツームの私の住んでいた地域でも、住宅の半分くらいが壊れて、みんなテントに住んでいたんです。しかし、そのとき政府はすでにほとんど機能していなくて、きちんとした政策をまったく打ち出せなかった。バシールたちのクーデターがそれほど国民からの反発を受けなかったのは、そういった背景——「民主主義では飯は食えない」という意識が国民の間にあったからということもあると思います。

伊勢崎  そこから、ずっとバシール体制が続いてくるわけですね。彼は、どんな政策をとったんでしょうか?

アブディン  まずやったのは、「非常事態」を宣言して議会を解散し、すべての政党の活動を凍結させて、各政党のトップを牢獄に入れることでした。NIFの指導者であるトラービーも牢獄には入ったけれど、これはどうやらお芝居で、すぐに出てきてどんどん政権内での力を増していきます。
 それから、南部で活動していた海外のNGOをすべて国外追放したりと、かなり荒っぽいこともやった。これは、欧米諸国からかなりのバッシングを受けました。

伊勢崎  海外のNGOまですべて国外追放する政策は、良くなかったね。あれで一気に国際社会から反感を買ったでしょう。

アブディン  さらにその後、南部の中心都市のジュバで、米政府の職員がスパイ容疑で逮捕され、スーダン人の職員1人が処刑されるという事件が起こります。そのスパイ事件が本当だったのかどうかはわかりませんが、これをきっかけに、アメリカはスーダンへの援助をストップさせてしまうんです。
 そうしたら、その3カ月後に日本のJICA(国際協力機構)も援助を止めてしまいました。「人権侵害をする政府の支援はできない」ということだったけど、他の国がやめたらやめるというのは、いかにも赤信号を誰かが渡ったらみんな渡るという、日本という国らしいやり方だなあと…(笑)。

伊勢崎  うーん(笑)。で、そこから、中国の援助が入ってくるようになるのかな。

アブディン  そうですね。それまで、スーダンはほとんど経済をアメリカなどからの援助に頼っていたわけですから、それが入ってこなくなると、国民が食べることもままならなくなった。食料は配給制になって、一時はコッペパンみたいなのを1日に1人一つだけ、という状況でした。お金がいくらあっても、ものがなくて手に入らないんですよ。
 だから、政府にはもうほかに行き場がなかった。支援してくれる国ならどこでもいい、という状況だったと思います。一時期、スーダン政府はオサマ・ビンラディンなど「テロリスト」と言われる人たちを何人も国内に匿っていたけれど、そこにもそうした経済破綻という背景があったんですよ。

※ジョン・ギャラン・・・SPLM指導者。2005年、包括和平合意によって成立した暫定政府の副大統領に就任したが、同年8月のヘリコプター墜落事故で死亡。スーダン政府による陰謀説が広まり、各地で支持者らによる暴動が発生した。

お待たせしました。平和構築ゼミ、第2回がいよいよ開講です。
私たちにとって、決して「身近な国」とはいえないスーダン。
そこで何が起こり、また起こりつつあるのか。
次回はいよいよ、ダルフール問題についても聞いていきます。
ご意見フォームへ

ご意見募集

マガジン9条