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2012-11-28up

原発震災後の半難民生活:宇都宮沖縄間右往左往

いわま・せん/横浜生まれ。宇都宮在住。大学教員。

3章:その5「モノレールのなかで――後篇」

1)

 いつの頃からだったか、高名な「茹でガエル」のたとえ話を思い出すということが重なってきました。

 カエルはいきなり熱湯に入れると、すぐに飛びだして一命をとりとめる… ところが、最初から常温の水に浸けておいて、少しずつ熱していくと、水温の異常に気づくことなくそのまま茹であがってしまう…

 これが科学的に正しい話なのかどうか、私にはよく分かりません。ただ、良くも悪くも環境に慣れることによって、ひとの感覚がどのように麻痺していくのかを突いている点で、秀逸なたとえ話ではないかと思います。

 うろ覚えの記憶ですが、最初にこの「茹でガエル」の話を思いだしたのは、まだ現在の本務校に着任するよりもはるかに前のことだったはずです。私がその時に感じていたのは、いわゆる生活の実感から乖離した言葉ばかりが溢れ返る社会状況への違和感でした。奇妙に政治的な装いばかり凝らしながら、薄っぺらいスローガンを垂れ流すテレビその他のマスメディア… それらの用意された箱の中で口角泡を飛ばす言論人たちは、小気味よく時事的な局面を切り取ってみせることにしか、関心も能力もないように見えたのです。

 ――こっちは就職先の候補をひとつ探しだすのにも音を上げてしまいそうだというのに、この浮かれ騒ぎと来たらどうだろう?… 

 そんな私情をない交ぜにしながら、私は世間というものの空騒ぎへの居心地の悪さを感じつづけていました。そして漠然とではあるけれども、誰もがふと気づいたらこの喧騒のなかで「茹であがって」いるのではないか… などと想像して、ひとりで憂鬱にもなっていたのでした。

 けれど、この話の生々しさを骨身にしみて実感するようになったのは、福島第一原発の事故が起きて以降のことでした。本当の収束がいつどのように訪れるのかさえも知りえない現状を思い返すにつけ、この原発事故がまさに未曾有の出来事であるということは、私には疑問の余地がないように思えました。ところが、事故から一か月半の日々のなかで目の当たりにしてきたのは、この事実から目を逸らさせようとする有形無形の力の働きでした。

 何よりも私の中で引っかかってきたのは、職場や自宅の上を飛び交う自衛隊のヘリコプターの数が増えたことでした。宇都宮市内には、戦前の旧陸軍から引き継がれた自衛隊の駐屯地があります。ですから、その是非はさておくにしても、軍用ヘリが市街地の上空を飛びまわる光景自体は、珍しいものではないのです。しかし、あの事故以降のヘリコプターの飛来は、そんな宇都宮在住者にとっての常識をはるかに上回る規模に達しているように思われたものでした。

 ――何かがおかしい…

 私はそう勘ぐるようになりました。些細な違いと言ってしまえば、それまでのことかもしれません。けれど、頭上からヘリの爆音が降り注いでくるたびに、私は三月十五日当日、空港に向かうタクシーの車窓から目撃した何台もの軍用ジープを、思いださずにはいられませんでした。早くも元に戻りつつあるこの日常生活のすぐ傍らで、本当は今も「戦争状態」が続いているのではないか?… 私はそんな思いを拭えずにきたのです。

2)

 実際、四月以降の国内で相次いだ出来事は、考えてみれば奇妙なことばかりでした。

 栃木県内では当初、県産のカキナから「暫定基準値」を超える放射性物質が検出され、出荷停止の措置が取られていました。ところが、それが突然「解除」されてしまったのです。この措置を後押ししたのは、「三回連続で暫定基準値を下回った場合には、出荷停止を解除してよい」という国の緊急の取り決めでした。その一方で、そもそも「暫定基準値」の根拠がどこにあるのかに関しては、まともな説明が示されることはありませんでした。

 月の半ばをまわった頃から、「天皇、皇后両陛下が被災地のお見舞い」という見出しが、新聞の一面を飾るようになりました。ところが、彼らが「お見舞い」している当の「被災地」の地名を拾っていくと、千葉県旭市であったり、茨城県北茨城市であったり、宮城県仙台市であったり、岩手県南三陸町であったりと、高レベルの放射能汚染が疑われる福島県内の諸地域は、周到に避けられていることが読み取れるのでした。

 程なくすると、「夏の電力不足の危機」を訴える論調が、大手新聞を中心に紙面のあちこちを埋め尽くすようになりました。その主張の骨子は、福島の第一・第二原発をはじめ、首都圏に電力を供給する原子力発電所が次々に停止に追いやられたことで、「真夏の消費ピーク時には、供給電力が足りなくなる恐れがある」というものでした。しかし、一見もっともらしい議論のために示されるデータは、どれもこれも東電や政府の説明資料の引き写しばかりで、それらの数値が妥当かどうかを検証した記事は、東京新聞の紙面以外でお目にかかることはありませんでした。政治面、社会面、経済面、さらには生活面に至るまで、あたかも「夏の節電の必要性」が自明の前提であるかのように言い募る風潮に、私は付いていくことできなかったのです。

 そんなところへ、「消費税3パーセント上げ検討」というニュースが降ってきました。青天の霹靂とはこのことでした。これまで、政官財が「消費税増税の必要性」を訴えてきたのは周知のことですが、それにしても原発事故の行く末ひとつ分からない今この時期に、不意に「増税宣言」して恥じない為政者たちのやり方には、ひたすら呆れるばかりでした。折から、福島県内の避難所で土下座する東京電力の清水正孝社長の姿が、センセーショナルに報道されていましたが、同時期の国内で起きたもろもろの出来事を一歩退いて見渡してみると、そんな報道の大半が私には茶番にしか見えなかったのです。

 ――結局、為政者たちは、住民を守りはしない… 

 私はそうひとりごちました。この「為政者たち」のなかには、マスメディアも含まれています。当然のことですが、彼らも「守る」ポーズは取ってみせますし、そもそも自分たちの立場を「守る」ためには、そのポーズを示しつづける必要があるはずなのです。ところが、私にはその内実はうそ寒いもののように思えてならないのでした。

 この苦々しい認識は、同じ四月の半ば頃から反体制デモへの弾圧を強めはじめたシリア政府の態度を見るに及んで、ますます腑に落ちるようになりました。もちろん、シリア情勢そのものは遠い異国の出来事に過ぎませんでしたが、以前にも示唆したように、私の授業を受講した学生たちがダマスカス大学に留学していたこと、そして学務の一環として彼らに「帰国勧告」を促す場面に立ち会ったことなどが、私の中での意識のあり方を少なからず変えていたのだと思います。

 もしかすると、私たちのあずかり知らないところで、世界は静かに沸騰しはじめているのではないか?… 私はそんなふうに考えるようになりました。私たちは状況の囚人になっているので、異変の兆しに気づけないでいるか、あるいはたとえ気づいたとしても、目の前にお膳立てされた役回りをこなすのに精いっぱいで、いつの間にかだましだまし、やり過ごしてしまうのではないか、と…

 「茹でガエル」のたとえ話を思い出すようになったのは、以上のような背景があってのことでした。

3)

 静かに「沸騰」しはじめていたのは、私の意識の内側に映しだされた世情ばかりではありませんでした。私がしばらく宇都宮での独り暮らしの生活に追われている間に、沖縄の義父宅に居候する妻と娘のうえに、新たな問題が降りかかっていたのです。

 まず気がかりだったのは、娘のKが、四月から通いはじめた保育園の環境に馴染めずにいたことでした。私は沖縄と連絡を取るたびに、Kがどれほど鬱屈しているかということを、妻の口から聞かされることになりました。

 ――朝起きるなり、「きょう、ホイクエン、ある?」って泣きだすのよ…

 行キタクナイ。ウツノミヤのオウチ、帰リタイ。毎朝のようにしくしく涙を流すKを、なだめたりすかしたりしながら、勝手の分からない台所で朝食をつくり、それをKに食べさせ、ひとの車を借りて保育園まで連れて行かなければならないわたしの身にもなってほしい… そう妻は私に訴えました。

 それだけではありませんでした。やっとのことでKを保育園まで連れて行くと、今度は門をくぐった辺りで立ち止まり、歯を食いしばったまま下を向いてしまうというのです。この保育園にはひとなつっこい園児が多いので、「あ! Kが来よった!」と一斉に駆け寄ってくるのですが、肝腎の娘はといえば、そんな彼らに威嚇のポーズをとり、「Kちゃん、ウツノミヤの、ヨーチエンなんだからあ!」と取りつく島もないということでした。

 Kはもともと、気難しい性格の子でした。ひとりで遊ぶのを好み、見知らぬひとにはなかなか気を許そうとしませんでした。心配した妻が、担任の先生にKの様子を尋ねると、案の定、ほかの子たちとはひとり離れて過ごしているようでした。そして時おり、急に思い出したかのように、「マイー! ヤスー! シオーン!」と叫んでいるというのです。マイ、ヤス、シオン… それは、宇都宮で毎日のようにいっしょに過ごしていた三人の仲良したちの名前でした。

 私はこの妻の話を聞きながら、Kが宇都宮の幼稚園に初登園した日のことを思いだしていました。パーキングまで見送りにでた私を、フィットの助手席からのけぞるようにしてふりかえり、口を真一文字に引きしめたまま、大きく手を振っていたK… 彼女のように内気な子どもにとって、新しい環境に身を置くということは、これほどの覚悟を必要とすることなのでした。そして彼女なりに時間をかけて、少しずつ幼稚園に慣れはじめたその矢先に、私はもっと大きなストレスを強いる住空間のなかにKを投げ入れてしまったわけです…

 ただ、妻の話しぶりには、どことなく引っかかるものも入り混じっていました。確かに、Kが環境の変化に戸惑っていることは、妻の言う通りだったのかもしれません。Kの性格を考えれば、無理もないだろうとは思います。けれど子どもには、大人よりも柔軟な適応能力があるはずです。子どもがむずかるということは、実はどこにでもある話で、「むずかっている」からといって、「鬱屈している」と決めつけられるわけではありません。個人差はあるでしょうが、余程のことでもない限り、子どもはいつしか新しい環境に慣れていくものではないか、と私は思うのです。

 妻が語るKの「鬱屈」は、ひょっとすると、妻自身の「鬱屈」の投影ではないのだろうか?… 私はそう疑うようになっていきました。現に、六畳のテレビルームで、プライヴァシーのない生活を強いられるうちに、妻のなかで怒りとも悲しみともつかない混沌とした感情が渦巻きはじめていたことは、疑う余地がありませんでした。ただでさえ、頭のなかがいっぱいになっている時に、子ども特有の仮借ない口調で、「ホイクエン、行キタクナイ!」「宇都宮のオウチ、帰リタイ!」を何度もくりかえされれば、誰でも気が滅入ってくることでしょう。

 こうして、妻の精神状態が落ちこんでいくことで、妻とKの関係も以前のようには行かなくなりました。そしてそのことは、妻と私の関係にも影を落とさずにはおきませんでした。

4)

 ――アフリカマイマイがいやだ。ヤモリがいやだ。

 妻はことあるごとに、そうくりかえしました。どちらも、義父宅の庭や屋内で出くわす生き物です。アフリカマイマイはカタツムリの何十倍もの大きさで、そんな巨大なものが車に踏みつぶされて庭や道端に転がっている、と妻は訴えるのです。それに、窓や引き戸を開けると、桟の辺りに産みつけられたヤモリの卵が割れて、殻の中から潰れた赤ん坊の体がはみでている… 気持ちが悪い… どうしても好きになれない… 彼女は決まってそんなふうに締めくくるのでした。

 それは妻なりの、私に対するシグナルだったのだと思います。アフリカマイマイそのもの、ヤモリそのものに耐えられないのではなくて、突然、見知らぬ環境にたったひとりで投げ入れられてしまった事実を受け止めきれずにいたのでしょう。妊娠八か月目の重要な時期を迎えていたことを考えれば、無理もありません…

 私たちの間に避難直後の押し問答がぶり返してくるのは、今や時間の問題でした。妻はしきりに、宇都宮に戻れる時期をはっきり示してくれ、と私に詰め寄りました。最初にあなたが言っていた話では、「様子を見るために避難しておこう」ということだったはず… そろそろ事故から二か月近く経とうとしているのだから、いつになったら宇都宮に戻れるのかを決めてほしい…

 今はまだ、はっきりしたことを言える段階ではない、と私は答えました。汚染が予想以上に広大な地域に拡散しているらしいことは次第に明らかになっていましたが、それでも全体像が俯瞰できるわけではなかったからです。のみならず、原発事故はずっと進行中であり、関東や東北では群発地震が引きも切らずに続いているありさまでした。

 依然として宇都宮の汚染がどの程度なのかは不明確なのだから、ここは大事をとって、少しでも安心できる沖縄で出産したほうが得策ではないか… 私がそういう趣旨の意見を伝えようとすると、妻は途中で割って入り、「話がちがう! 最初に言ってたこととちがう!」と声を荒らげました。そこからは、「言った」だの「言ってない」だのと水掛け論が始まり、会話のやりとりというには程遠い言葉の応酬へと横滑りしていくことになりました。

 ある時は、こんなこともありました。妻は、私が研究室で仕事をしている時間帯に電話をかけてくるなり、義父の家がいかに不潔であるかをまくしたてはじめたのです。妻の主張するところによれば、私の実母も義父も、祖母の部屋に備え付けられた介護用便器の手入れをしようとしないので、家のなかに悪臭が立ちこめてきているというのでした。あまりに臭いがひどいから、中身を捨てたり、便座の掃除をしたりしていたら、いつの間にか「おばあちゃんの下の世話は、Mちゃん(妻)のお仕事」ということになってしまった… ここで生活させてもらっている以上、家の手伝いをすることにやぶさかではないけれど、何となく納得が行かない、と妻はこぼすのでした。

 またある時は、妻は携帯電話のメールで、こんなふうに切り出すこともありました。最近、体中がかゆくて、もしかするとアトピーが再発しているような気がする… 私が問いただしてみると、「特に蒲団のなかに入ってから、むずがゆくて仕方がなくなる」というのです。不自由な生活のせいでストレスが溜まっているのかもしれないね… そう私が返信すると、「ちがう! そうじゃない!」と妻は間髪入れずに書いてよこすのでした。そうじゃなくて、単にこの家が不潔だからだと思う。お義母さんたちが掃除ぎらいなものだから、畳も、蒲団も、カーテンも、箪笥のなかも、どこもかしこもホコリだらけ… わたしはもう二十年間もアトピーをやっているから、体感的にピンと来るのよ… この家はね、ダニとシラミの巣窟なんだよ!

 妻はそこからさらに畳みかけてきました。ここは率直に言って、水まわりも不潔すぎて、耐えられない。お義父さんも、お義母さんも、おばあちゃんも、みんなでそろって台所の洗い場で歯を磨いたり唾を吐いたりしていて、しかも誰も掃除しようとしないから、排水口に詰まった汚れや野菜クズが腐って、水カビが生えているんだよ。そんなところで食事を作るのは我慢ができなかったので、カビキラーやら何やらを買ってきて全面的に消毒してみたけれど、彼らが唾を吐くことまで止めさせるわけにはいかないし、お義母さんは相も変わらずそこにお皿や肉や野菜なんかを突っこんだまま、次から次へと気の向くままに料理を作りはじめて、ゴミも野菜くずもどんどん溜まるばかり… この間なんて、台所のフローリングの上を、蛆虫が這っていたんだよ!

 それに、わたしが掃除をしてあげたという事実は、彼らの視界にはまったく入っていないらしいのよ。わたしの感覚と、彼らの感覚がずれてしまうのは、仕方がないことだよね。それは頭では重々分かっているつもりだけれども、やっぱり何かをしてあげたのに、ぜんぜん気づいてもらえないとブルーになる。「ありがとう」の一言もないと悲しくなってくる。お義母さんの行動を観察しているかぎりでは、とても掃除をする暇がないようには見えないのよ。一日中、パソコンのキーボードをパタパタとたたいていて、それとなく何していたのかを尋ねてみると、「誰々さんにメールを書いていた」とか、「どこそこの検索をしていた」とか、そんな答えばかり…

 要するに、掃除が嫌いなだけなのよ! 家事なんて面倒くさいものは、おばあちゃんの介護に来ているヘルパーさんたちか、ちょうどタイミングよく転がりこんできた嫁のわたしにでも任せておけばいい… 無意識のうちにそう思っているんじゃないかしら? こんなふうに邪推せざるを得ないくらい、料理を食べたら放りっぱなし、洗濯物は籠のなかに入れっぱなし。おかげでわたしは、あの人たちが際限なく溜めこむ片付け物と、格闘させられる毎日なんだよ…

***

 さっきから一直線に走りつづけていたモノレールが、ゆるやかなカーブを描きはじめました。

 ちょうどKと同じくらいの年ごろの女の子が、目の前のボックス席に陣取っていて、自分をはさんで座る両親の耳元にくりかえし何事かをささやきながら、そのたびに屈託のない笑顔をこぼしていました。

 車内のあちこちに、ゴールデンウィーク特有の浮かれ気分が漂っていました。私はその空気に馴染めぬまま、窓の外に広がる臨海地帯の高層ビルの群れを、眺めるともなく眺めていました。

 ふと目をあげると、「この夏、東京モノレールは、節電に努めます!」という貼り紙が飛びこんできました。なるほど、改めて車内を見渡してみると、天井の蛍光灯がすべて消灯されていることに気づかされます。窓から差しこんでくる日の光がまぶしく感じられるのも、きっとそのせいなのかもしれません。

 モノレールは、橋の上にさしかかっていました。窓から下のほうを覗いてみると、黒々とした波がそこここでとぐろを巻きながら、コンクリで塗り固められた埠頭に打ち寄せています。そのとぐろの中から、さらに無数のさざ波が這い出してきては、赤錆だらけの岸壁をなめずりまわしているのです。

 私はいつしか物狂おしい気分にとらわれていきました。ゆっくりと、しかし確実に、腹の底から胃液がこみあげてくる心地がして、われ知らず顔をしかめていたように思います。

 ――沖縄に家族を逃がしたのは、本当に正しい選択だったのだろうか?…

 頭の中で、そんな問いがぐるぐると渦を巻きはじめました。

 ちがう、そんなことはない。私はそう自分に言い聞かせました。水も、空気も、食べ物も、どれほどの汚染をこうむっているか知れたものではない… やはり汚染の確率的な影響を考えれば、今回の避難は不合理な選択ではなかった… 娘にとっても、妻にとっても、まもなく生まれる赤ん坊にとっても、できるかぎり汚染の源から遠い場所で暮らしていることは、長い目で見れば悪い結果にはつながらないはずだ…

 けれど、いくら自分を納得させようと努力してみても、最近の妻とのやりとりを思い返すことで私の中に生じた鬱屈が、晴れ渡るようなことはありませんでした。ふと気がつくと、喉元から鼻孔にかけての一帯を、胃液の臭いが生暖かく浸していました。

 私は何とか気分を変えようとして、数時間後に那覇空港の到着ロビーで待っていてくれるだろうKの姿を、あれこれと思い浮かべてみるのでした。

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少しずつ少しずつ、ずれて狂っていく歯車。
「家族を逃がしたのは、本当に正しい選択だったのか…」
同じような迷いを抱いた人、今も抱き続けている人は、
きっとたくさんいることでしょう。
次回、著者の思いは沖縄へと向かいます。

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