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2011-10-05up

B級記者どん・わんたろうが「ちょっと吼えてみました」

【第64回】

大都市での「原発・住民投票」に欠落している重要な視点

 最初に断っておくが、私は国政や地方自治の場において、基本的に国民投票や住民投票を積極活用すべきだと考えている。実際、当コラムでこれまで、そうした論旨を展開してきた。原子力発電所を今後どうするかについても「国民投票で決めよう」という主張に全面的に賛同し、何度か取り上げている。今でもその考えは変わっていない。

 ところが、運動を進めてきた市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」が突然、東京都、大阪市という大都市部で、原発への賛否を問う住民投票を求める方針を打ち出した(朝日新聞10月1日付夕刊、東京新聞10月2日付朝刊)。原発を「電力消費地の問題」としてとらえ、是非を判断するきっかけにしたいのだそうだ。一見正当そうな活動だが、残念ながら私は強い違和感を禁じ得ない。「原発・国民投票」をPRし、この団体の活動を紹介してきた責任もあるので、「原発・住民投票」の問題点を指摘しておきたい。

 上記2紙や同団体のホームページなどによると、計画の概要はこうらしい。東京都は東京電力の発行済み株式の約3%、大阪市は関西電力の約9%を所有する株主である。だから、たとえば「東京都が東電の株主として、今後、原発の稼働を認めることに賛成か反対か」といった設問の住民投票を実施し、投票結果に基づいて、都や大阪市に株主としての権利を行使させる形で、電力会社に原発稼働の継続または原発の廃止を働きかける。

 ここまで読んで、「いいことじゃねえか」と感じられた向きもおありかと思う。都会に暮らす反原発の方ほど、その傾向は強いのではないだろうか。「原発容認」の野田政権の誕生もあって、原発の是非を問う国民投票の実現性がかなり低くなってしまった今、魅力的な手段に映るのは確かだ。

 しかし、こと原発に関して、大都市の住民投票で是非を決めようとするやり方には、とても重要な視点が欠落している。原発を受け入れてきた地方を全く顧みていないことである。

 住民投票の結果に法的な強制力はないし、電力会社の株主はほかにもたくさんおり、必ずしも原発の稼働の可否を判断する絶対的な指標にはならない。でも、東京都なら1300万もの住民の意思表示だから、多方面に大きな影響力が及ぶことは間違いない。圧倒的多数を占める消費地の有権者が、少数派である原発の地元の意向を汲む必要も機会もなく投票したあげく、その結果だけを押し付けることになるのだ。

 都会が地方に対して、いかにして原発を受け入れさせてきたか、4月の当コラムに「原発という毒饅頭を食べさせた側の責任」と題して書いた。「国策」という錦の御旗をかざし、過疎地が断れないような状況をつくり、立地反対派には「地域エゴ」の罵声を浴びせる。交付金や補助金で身動きできなくして、原発への依存体質を強めさせていく。そうすることによって、安全な場所にいながらたっぷりと電気の恩恵を享受してきたのは、都会の民であった。

 原発立地自治体の関係者と一度でも腹を割って話したことのある方ならわかると思うが、好き好んで原発を立地させた自治体なんてない。危険を承知のうえで、それでもほかに地域振興の手段がなくて、やむなく同意してきた。都会は地方に、受け入れさせるべくして原発を受け入れさせてきたのだ。

 最近、「マガジン9」と連動している「下北半島プロジェクト」に関わり、現地にも赴いた。青森県の下北半島といえば、原発や関連施設が集中する国内有数の「原発銀座」だ。地元の人たちは3.11後、身近にある原発に対して少なからぬ危うさを感じている。でも、地域で原発について語れる雰囲気はないという。新卒高校生への求人倍率が全国ワースト2位の青森県にあって、身近に原発関連企業で働く人がおり、原発のおかげで地域活性化が果たされてきたのは事実だから、無理からぬことだ。

 加えて、都会への「不信」をひしひしと感じる。口にこそ出さないものの、「今まで危険な原発を引き受けさせておいて、事故が起きたからって稼働停止かよ」という気持ちが背景にあるのだろう。沖縄で体感した、本土に対する感情とどこか似ている。

 そんな状況なのに、大都市だけで原発の可否を判断して良いのか。

 もし東京や大阪で住民投票が実現し、「原発反対」の結果が出たらどうだろう。原発の廃止によって、地元の人たちは一方的に生活の糧を奪われることになる。原発なき後の地域のあり方なんて考える暇もなく、「都会の人たちが危ないと言っているから」という理由で…。もっと心配なのは、住民投票で「原発賛成」の結果が出た場合だ。都会の判断によって、危険な原発を今後もずっと、有無を言わさず押し付けられ続けることになるのだ。表現は悪いかもしれないが、「立地の時に続くセカンドレイプ」という言葉を想起してしまう。

 だから「国民投票」、だったのではないのか。原発を受け入れてきた民も、電気の消費地の民も、国民みんなが平等な1票を握って同じ土俵に上がる。で、全国のさまざまな立場の人たちが議論し、互いの主張に耳を傾け、理解しあう。そのうえで、どんな結論が良いかを真剣に考えて投票しよう、というのが「原発・国民投票」の出発点だったはずだ。

 それを「電力を消費する大都市の住民こそが、原発のあり方を決める権利と責任を持っている」(東京新聞)なんて言われたら、原発を受け入れてきた、否、受け入れさせられてきた地方の人たちは、どんな思いを抱くだろうか。

 いま何より都会の住民がなすべきなのは、原発の地元の人たちと真摯に向き合い、彼ら彼女らの思いを受けとめることだ。その地域の人たちが3.11以降、何を考え、悩み、どんな不安を持っているのか、原発に対してどんな思いがあり、これからどうしたいと考えているのか、丁寧に耳を傾けることだ。そして、原発をなくすのならば、どうしたら地元の人たちが生活していけるか、代案を一緒に考えていくことだ。それが、危険な原発を押し付けてきた側の「責任」というものだろう。

 そうしたプロセスもなしに、いきなり「消費地の問題だから、大都市の住民が決める」っていうのは、原発の地元に対して一方的にケンカを売っているようにしか見えない。厳しい言い方をすれば都会人の傲慢だし、対話の芽を摘むだけで、原発の今後を国民みんなで考えていくためには決してプラスにならない。

 住民投票を求めることは憲法で保障された権利だから、行使することを否定はしない。だが、権利の成り立ちを考えれば、本来、多数派(大都市)が少数派(地方)に対し、結果を押し付ける手段として使ってはならないのだと思う。それでも大都市での「原発・住民投票」を推し進めるのであれば、現に原発と共生している地域の人たちの意思をどうやって汲み取り、どう採り入れていくつもりなのか、丁寧な説明と実行が不可欠である。

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この「東京・大阪での住民投票」については、
10月4日付東京新聞「こちら特報部」でも大きく取り上げられていました。
残念ながら全文はウェブには公開されていませんが、
可能であればあわせて読まれることをおすすめします。
「原発問題の責任を立地市町村に押しつけるのでなく、
電力の大消費地の市民が自分たちの問題として捉えるべき」(同記事より)、
という主張にはなるほど、と思ういっぽう、
「地元の意向を汲まず、結果だけを押し付ける」ことになるのを懸念する当コラムの指摘にも、
見過ごしてはならない重要な視点があると感じます。
皆さんはどう考えますか?

ご意見・ご感想をお寄せください。

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どん・わんたろうさんプロフィール

どん・わんたろう約20年間、現場一筋で幅広いジャンルを地道に取材し、「B級記者」を自認する。
派手なスクープや社内の出世には縁がないが、どんな原稿にも、きっちり気持ちを込めるのを身上にしている。関心のあるテーマは、憲法を中心に、基地問題や地方自治、冤罪など。
「犬になること」にあこがれ、ペンネームは仲良しだった犬の名にちなむ。「しごと」募集中。

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