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デスク日誌(43)

080220up

国境が消える日

 サムサノナツニハ オロオロアルキ と書いたのは宮沢賢治でしたが、サムサノフユは、どうやって過ごせばいいのでしょう。そんなことを考えてしまう、最近の寒さです。
 温暖化とはいうけれど、このカンパの居座り具合はハンパじゃありませんね。(つまらぬ駄洒落で、すみません)

コソボ独立宣言

 ところで、世界情勢に大きな影響を与えそうな出来事がありました。2月17日の「コソボ独立宣言」です。
 私たちの国からはずいぶん遠いし、あまり密接な交流もなかった地域ですから、それほど大きなニュースとしては取り上げられてはいません。しかし欧米諸国では、かなり危ない動きも含めて大報道がなされています。

 かつてバルカン半島に、ユーゴスラビアという連邦国家がありました。 東西の冷戦終結後、この地域で民族紛争が勃発。結局、ユーゴスラビア連邦共和国は、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ、そしてセルビアの6共和国に分裂してしまいました。その紛争の一因は、セルビア共和国のミロシェビッチ政権による民族主義の煽動にあったともいわれています。
 それに対し、NATO軍が1999年にユーゴ空爆を行いましたが、その際、世界中で賛否両論の議論が湧きあがったことは、みなさんの記憶にも残っていることでしょう。

 コソボは、セルビア国内の小さな自治州で、人口約200万人、面積は岐阜県とほぼ同じ。そこにアルバニア系住民が約9割、セルビア系が約1割の比率で混住しています。
 その民族比率を背景に、今回、コソボがセルビアからの独立を宣言したのです。
 もちろん、コソボ独立に対しては、セルビアは絶対反対の立場だし、ロシアも強く反対しています。なぜなら、ロシアは自国内にチェチェンなどの、独立を目指す地域を抱えているからです。コソボ独立を認めたら、チェチェンなどの独立運動が勢いづくのは当然です。それは、ロシアとしてはなんとしても避けたい。
 同じ事情は、中国も抱えています。

 ロシア、中国だけではなく、EU内部にも似たような問題はあります。キプロス問題や、スペインのバスク地方の独立派、さらにはトルコやイラクなどを巻き込むことは必至のクルド民族の独立運動など、問題は山積みなのです。
 このため、コソボ独立が、すんなりと国際社会で承認されるかどうかは微妙です。

帝国主義列強の爪あと

 ヨーロッパのように地続きで多数の国家が存在している地方では、同じ国家の中に様々な民族が混住しているのは、歴史的経緯から見ても当然です。
 また、中東やアジア地域、それにアフリカのように、ヨーロッパ列強が植民地支配を続けていたところでは、宗主国が自国の都合のいいように、勝手に国境を線引きして決めた例が多数あります。世界地図を開いてみてください。中東やアフリカ地域では、なぜか、国境線が直線で引かれているところが多いことに気づかれるでしょう。
 それが、帝国主義列強各国の植民地支配の名残りなのです。とりあえず、ここはこんな具合でいいだろう、というまったくのご都合主義、いい加減なやり方で国境が定められた地域が、たくさんあったのです。
 かの名作映画『アラビアのロレンス』の背景には、列強支配下のアラビアの状況があったわけです。

 そのツケが今、世界中に波及しています。最近のアフリカ各国の紛争など、その典型的な例です。
 これらの地域では、植民地として列強各国に所有されたために、その独立に際しては、まるで定規で引かれたような国境線で、民族の構成などを無視して国家が決定された例が多いのです。だから、同じ民族が別々の国家に分散させられたり、ひとつの国の中に多数の民族が混在する、というような捩じれが起き、その状態を現在まで引きずることになりました。

 歴史を考えれば、21世紀になって多発している民族紛争や独立問題などは、やはり帝国主義列強の植民地支配にその原因があるといっていいのです。

「民族の違い」が生む憎悪

 それにしても、なぜこれほどまでに「民族間の紛争」は、絶えないのでしょうか。

 ほんの少し前まで、隣同士で仲良く暮らしていた者同士が、ある日を境にして、壮烈な敵同士に変身する。その当人同士ですら、なぜ争うのか、なぜ憎むのか、よく分からない。
 強いて言えば、「あいつは同じ民族ではない」ということ。あのユダヤ人差別もそこから発したのだし、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で起こったとされる、“民族浄化”などというおぞましい惨劇も、ただただ「民族の違い」が原因でした。

 私たちから見て、これらの民族の違いなど、ほとんど分かりません。ユダヤ人とアングロサクソンの違いなど、言わなければ、当の本人たちでさえ、外見ではわからないそうです。
 セルビア人とアルバニア人、外見上どこが違うか指摘できる人などいないのです。むろん、宗教上や文化の違いなどはあるでしょうが、相手を憎めと教える宗教など、宗教といえますか。
 かつて、異端審問を行い、多くの人を異教徒として処刑したキリスト教も(一部の狂信的宗教右派を除いては)、当然のことながら、その過ちを認めています。

「シェンゲン協定」という希望

 一方で、新たな独立運動が盛り上がりながら、また一方ではEU統合のように、国境をなくす動きも広がっています。
 各民族の伝統文化や習慣を生かし尊重しながら、同時に国境をなくし自由な往来や物流を促進させる。それが、最も大切なことだし、それしか民族の共存を図る手だてはないと、私は強く思うのです。

 例えば、「シェンゲン協定」というものが、ヨーロッパにはあります。これは、国家間の陸路、海路上の国境における出入国審査を廃止して、自由に往来できるようにする、という協定です。
 2007年12月21日、この協定に、チェコ、ハンガリー、ラトヴィア、リトアニア、エストニア、マルタ、ポーランド、スロヴァキア、スロヴェニアが参加、それまでの15カ国に加え、いわゆる「シェンゲン圏」は24カ国にまで拡大したのです。

 欧州委員会のバローゾ委員長は、次のように述べています。
「本日より人々は、陸路、海路の国境審査なしにシェンゲン圏24カ国の間―ポルトガルからポーランドまで、また、ギリシャからフィンランドまで―を煩雑な手続きなしに旅行することができる。『シェンゲン協定』に新たに加わった9カ国、そして欧州連合(EU)理事会議長国ポルトガルおよびすべてのEU加盟国に対し、その努力に対し祝意を述べたい。我々が力を合わせることによって、欧州の平和・自由・統合を阻む人工的な障害であった国境審査を克服し、同時に安全性の向上に必要な条件をも構築することに成功した」

 これこそが、国家というものを残しながら自由に平和を謳歌できる、唯一の方法手段なのではないでしょうか。
 この「シェンゲン協定」の拡大は、実験段階を経て、いよいよ欧州統合の最終局面に達したことを意味しているのです。
 同じことが、アジア諸国やアフリカ諸国、その他の地域でも可能になったとき、初めて地球規模の平和が訪れるのかもしれません。

根強く残る差別意識

 しかしながら、民族差別、蔑視などは、“伝統文化”の美名に隠れて、いまだに人々の中に刷り込まれているようです。
 私たちだって、偉そうなことは言えません。
 在日コリアンに対して、凄まじいほどの悪意を持って接する人々が、いまだに存在しているのが私たちの国です。
 「あいつらとは文化や感性が違うから、とても一緒になんかやっていけない」などと公言する人が、いまもいます。
 さらには、被差別部落の人たちなど、まったくの日本人であるにもかかわらず、いまだに就職や結婚差別を受け続けているのは、周知の事実でしょう。

 植民地争奪の時代は、いちおう終わりました。しかし、いままたグローバリズムという名で、新たな経済的侵略が始まっているような気がしてなりません。
 それを裏付けるのが、新自由主義といわれる経済政策です。それに乗り遅れまいとして、国内よりも海外に目を向けているのが、日本の経済界と政府でしょう。

 欧州「シェンゲン圏」の展望とグローバリズムとは、矛盾する場面も出てくるかもしれません。世界経済が一体化することによる地域間の経済格差の拡大。自由往来圏の拡大は、むしろそれを助長してしまいかねない、との危惧もあるでしょう。
 それを克服するのは、容易ではないかもしれません。

自由が平和を招く

 しかし私は、「自由が平和を招来する」ことを信じたいのです。国境をなくし自由に往来することが、やがて民族の殻を突き破り、差別の芽を摘んでくれるはず。
 民族や国家の伝統文化を残しながら、国境が消えていく…。こんな素晴らしいことがあるでしょうか。さまざまな「民族」が隣り合って暮らしていく。
 それは、あの暗殺されたキング牧師の「夢」でもあったのです。

 国境という制約がなくなれば、戦争は消えます。「国境を越えて侵略することが、むしろ簡単になるではないか」という反論もあるでしょう。しかし、「国境を挟んでにらみ合う」という状況は、確実になくなります。国境がないのですから、ないものを挟んで対峙するという状況は考えられません。
 ここで必要になるのは「外交力」です。なにかトラブルが生じたとき、互いの国家はいつでも相手国に侵攻できる。それを防ぐのは、もはや徹底的な話し合い、つまり外交力しかないのです。
 国境を取っ払ってしまえば、話し合うしか道はなくなる。武力など、何の役にも立たなくなる。
 当然です。
 これを「夢想」だと言う人は多いでしょう。しかし、繰り返しますが、ヨーロッパでは「シェンゲン協定」という「夢想」が、実現しつつあるのです。

 それは、私たちが持っている「憲法9条」の精神にも合致することだと思うのです。

(鈴木 耕)

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