071205up
「馬脚をあらわす」という慣用句があります。
『広辞苑』によると<(芝居で、馬の足の役者が姿を見せてしまう意から)つつみかくしていた事があらわれる。ばけの皮がはがれる。ぼろを出す。>ということだそうです。
なるほど。
このところの舛添要一厚生労働大臣の言動を見ていると、この言葉がピッタリと符合する人物だなあと、つくづく思います。
そういえば、安倍晋三首相の内閣改造時直前には、あれほど安倍首相を批判しておきながら、厚労相というとても目立つ大臣の椅子を目の前にちらつかされるやいなや、
「私のように批判をしている人間でもいいんですか、とお聞きしたら、そういう人こそ必要なのです、と言われたのでお受けすることにした」
こんな素晴らしい言い訳を考えついて、何のためらいもなく大臣室に滑り込んだのが、この舛添氏でした。
そんな方だから、いずれ本性を見せるに違いない、馬脚が丸見えになるのもそう遠い時期ではない、と思っていましたが、こんなに早く、そのいい加減さ、冷血漢ぶりを発揮するとは思いませんでした。
どうも、目立ちたい、重要閣僚になりたい、ただそれだけの人物だったようです。やたらに国民の受けを狙って、できもしないことを口走る。批判されれば、開き直る、逆ギレする。
そんな中身のない本質が、たった数カ月で丸見えになってしまった、というわけです。
まさに「馬脚をあらわした」のです。
「来年の3月までに、必ず、消えた5千万件の年金問題を解決してみせる」
受けを狙って、そう大見得を切ったのは、たったの3ヵ月前でした。ところが、それがまったく不可能であることが露見しました。すると、
「あれは、選挙のためにきちんとアピールする必要があったから言ったことで、そういう決意を持って努力していきたい、というほどの意味だ」
と、ここでも見事な言い訳です。しかし、こんなことが普通に通用するでしょうか。特に、政治家の場合、こんな弁明が許されるはずもありません。
「“そういう決意”で頑張ったのだから、できなくても仕方ない」。こんなバカな理屈はないでしょう。
受け取れるはずの年金を手にできずに亡くなった方へも、「努力はしたんだけどねえ」で済ますつもりなのですか。
薬害肝炎の問題にしても同じです。
「患者救済を第一に考えて、あらゆる努力をしていく」
やたらと“努力”の好きな方です。しかし、それはやはり“努力”に過ぎなかった。「努力はしたけれど、解決策は示すことができなかった」のです。
C型肝炎感染の原因となった、汚染血液製剤フェブリノゲンを投与された患者さんのリストを、厚労省は見つけていたのだけれど、それを患者さんに通知していませんでした。
「実際に治療に当たった医療機関に、患者さんへの通知を急がせる。できないというのなら、もっと強い大臣命令を下す」とまで言明した舛添大臣。しかし、その遅れについては、一切の責任を回避しました。またしても、口先だけのパフォーマンス。
早い時期に、患者さんがフェブリノゲン投与の通知を受けていれば、治療のしようもあったはずです。けれど、感染したことすら知らされずに、放置されていた人たちがたくさんいたのです。
既に亡くなっていた方が、今までに判明している投与患者数418名の中で、47名にのぼっています。なんと死亡率が11%を超えている。
誰が殺したのか。
むろん、この数字は氷山の一角にすぎません。実際に投与された患者さんの正確な人数は、まだ把握できてはいないのです。被害がもっと広がるのは確実です。
しかも、舛添大臣の命を受けてこの問題の調査に当たっていた厚労省調査チームが出した結論が、これまたすごいものです。
西川京子厚労副大臣は会見で「職員に隠蔽の意図はなかった」と、開き直り、厚労省の責任を認めなかったのです。大臣が大臣なら副大臣もまた見事なものです。
「文書の管理はきわめて杜撰だった」と、一応の反省らしき言葉を付け加えましたが、責任を認めないのですから、こんな口先だけの反省など意味はありません。
患者さんたちの涙の訴えは、厚労省にも厚労相にも、まったく通じなかったのです。
でも、これには後日談があります。
当然のように、この報告には批判が殺到しました。すると突然、泥縄式の処分発表です。現職厚労省幹部官僚3名に“厳重注意処分”が言い渡されました。
むろん、世間の動向を読んだ舛添大臣のパフォーマンスです。しかし、その処分内容には呆れます。注意処分の中でも2番目に軽いものだそうです。減給や停職などの懲戒ではなかったのです。世論に向けて形だけは整えた、ということです。
外には厳しく身内に甘い。カッコだけを気にする舛添さんらしい処分発表でした。
“不作為の罪”という概念があります。
やるべきことをやらなかったことにより、ある事態が発生したならば、やらなかったということ自体にも罪がある、という考え方です。
少なくとも、厚労省の官僚たちには、この不作為の罪はあるはずです。通知を怠ったことにより、判明しているだけで既に47名もの方たちが亡くなっているのです。もし、このことに何の責任もないとすれば、官僚などという人たちは、何のために存在するのでしょうか。そして、その責任をウヤムヤにしてしまう大臣とは、いったい誰のほうを向いているのでしょうか。
「後期高齢者医療保険」という制度が創設されます。増え続ける医療費の抑制を狙ったものです。その対象にされるのが、後期高齢者と呼ばれる75歳以上の老人たちです。
この人たちにも“応分の負担”を求める制度です。ついに、人生の最終局面を迎えた老人たちからも、お金を毟り取ろうというわけです。これまで、会社員をしている子どもなどに扶養されることで、保険料負担を免れていた層にも、負担を求めるのです。
年金でささやかに暮らしている高齢者たちを、直撃します。これもまた、厚労省の発案です。
「取れるところから取れ。文句を言わないところを狙え」
これが、厚労省のスローガンなのですか、舛添大臣。
このところ、防衛省をめぐる腐敗が、しきりに取上げられています。しかし私には、厚労省が、防衛省に負けず劣らずひどい役所だと思えるのです。その政策立案における考え方の冷酷さは、防衛省など足元にも及びません。
舛添大臣と厚生労働省に対する疑問は、つぎつぎに湧いてきます。
「あなたたちは、いったいどこを向いて、誰のために仕事をしているのか?」と、問いつめたくなります。
厚労省が、「生活保護費の減額」を認めました。厚労省の検討会の報告です。
11月29日に明らかになったのが、有識者による「生活扶助基準に関する検討会」の報告書です。これを受けて、厚労省は「生活保護費の見直しを、可能であれば来年度予算編成で対応したい」と表明したというのです。
中身は、こういうことです。
<低所得世帯が支出する金額に比べて、生活保護世帯が受け取っている金額のほうが高くなっているから、生活保護基準を見直して、低所得世帯並みの支出金額まで、保護費を下げるべきだ>
こんな“有識者”検討会の報告を、厚労省も大臣も認めて、生活保護費引き下げを容認しよう、というわけです。
では、生活保護費とはどのくらいか。地方によって多少のばらつきはありますが、夫婦と子どもひとりの3人世帯の場合、全国平均で月額15万408円だそうです。
それに対し、同じ家族構成の低所得世帯の生活費は、月14万8781円。つまり、生活保護費のほうが1600円ほど高い。だから、生活保護費は高すぎる。低所得世帯並みに下げるべきだ、というのが有識者と称される人々の報告書の中身です。
政府の有識者会議とか諮問委員会などに選ばれる方々は、みんなご立派な肩書きを持っていらっしゃいます。そんなご立派な方たちが、平気でこんな答申を出すのです。
しかし、考えてもみて下さい。
いまどき、15万円ほどで親子3人の生活が維持できると思いますか。アパート代を差し引いたら、生活実費はいったいいくらになるのでしょう。
低いほうに合わせるのではなく、あまりにひどい低所得者層の状況を、なんとか少しでも改善しようとするのが、本来の政治であるべきです。
生活保護費を切り下げるのではなく、低所得者層のあまりにひどすぎる低賃金を、なんとか暮らせるぐらいまで引き上げること、そういう政策を採るように進言するのが、有識者とやらの役目ではないでしょうか。
政府に都合のいい発言ばかりする連中を、“有識者”などとおだて上げて、自分たちの望むような報告書を作らせる官僚どもと、それを容認・追認する大臣や政治家たち。
ほんとうに、不愉快極まりない。
日本国憲法第三章
第二十五条
一、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
二、国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
こんな条文、厚生労働省の役人たちも、もちろん舛添厚生労働大臣も西川副大臣も、読んだことなどないに違いない。そうでなければ、こんな冷酷な施策を次々と繰り出すはずがない。
それとも、学生時代に学んだことなど、もう遠の昔にお忘れなのでしょうか。憲法を忘れた政治家や官僚たち。それだけで、政治家も官僚も失格です。
年金を受け取れない高齢者、
薬害による健康被害に苦しむ人たち、
保険料負担を増額されて泣く後期高齢者層、
最低限の生活保護費の減額を迫られる弱者たち
これらが、国民の健康と生活を守るはずの、厚生労働省によって行われている実態です。このお役所の官僚たちや大臣に、もう一度、ぜひ「日本国憲法第二十五条」を、読み返してもらいたいと、痛切に思うのです。
(鈴木耕)
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