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デスク日誌(25)

071010up

再び、沖縄について

   先週に続き、沖縄のことについて書きたいと思います。

 9月29日の沖縄・宜野湾海浜公園における「教科書検定意見撤回を求める県民大会」、ほんとうに凄い熱気と怒り、そして痛苦な沖縄戦体験者たちのお話と多くの涙でした。

 あの場にいた人々すべての心を振るわせる時間を、私もそこで共有できたことに、感謝しています。

ウワサと真実と

 しかしさっそく、「あの会場には11万人なんかいなかった」「実数で4万2千人という情報もある」「いや、2万人がいいところだ」などという、なんとかあの集会の意義を過小評価しようという動きが出てきました。

 その中には「沖縄県警の調べでは、4万人ほどだった」というまことしやかなウワサもありました。

 私は先週、このコラムで「11万6千人の参加者数」と書きました。確かに、私が数えたわけではありません。これは、あくまで主催者発表の数字です。ただ、いまのところ、ほかのどのような公的な団体からも、具体的な数字の発表はありません。これが、現在までのところ、唯一の公的に発表された数字なのです。

 しかし、つまらぬ誤解を招かないように、私もこの件に関しては、これからは「主催者発表によると」という注釈をつけることにします。  しかし、「沖縄県警によると」というのは、まったく根拠のないウワサです。この件について、沖縄のテレビ局報道ディレクターに問い合わせてみました。

「県警は一切、参加者数については発表していません。こちらからの問い合わせにも答えたことはありません」ということでした。

 だから、「沖縄県警の調べでは4万人ほど」というウワサは、誰かが作ったお話なのです。もし、これに対してもなお疑問をお持ちの方がいるならば、沖縄の各報道機関、さらには県警当局に直接問い合わせてみてください。ほんとうのことが分かるでしょう。

 それでもなお、「あれは4万2千人だった」などと言いたいのなら、その根拠を示すべきです。

 私は、あの日、あの場所にいました。この目で、確かに人の波、巨大なうねりを目撃していました。芝生の広場だけではありませんでした。周辺の道路という道路、駐車場などは、入りきれぬ人々で埋め尽くされていたのです。

 さらに、集会終了予定時間の午後4時半を過ぎても、なお人の波は続々と会場目指して押しかけていたのです。だから、私たちの乗った那覇に向かう帰りの車は、会場の公園道路から一般道へ出るのに、なんと1時間以上もかかったのです。たった数百メートルを走るのに、です。

 どれだけの混雑だったか、お分かりでしょう。

 このことを「あの広場だけでは11万人は収容できない」と主張する方たちにも理解していただきたいのです。

政府を動かした力

 さて、9月29日(土)から日曜日をはさんで、10月1日(月)から、この問題をめぐる政府・与党の動きは一気に急を告げ始めました。

 渡海紀三朗文科相、町村信孝官房長官、さらには福田康夫首相まで、一斉に今回の「教科書書き直し意見」の撤回について、前向きな姿勢を示し始めたのです。

 実はこの動きに、表では語られない「集会参加者数」についての、具体的な取り扱い方が隠されていたようです。

 政府首脳たちは、今回の沖縄県民の結集がただならぬものであることの報告を、当然のことながらその日のうちに受けていました。そして、その数が当初考えられていたよりも、はるかに上回っていたことに、激しいショックを受けたのです。

 先週、このコラムでも触れたように、沖縄のジャーナリストたちでさえ「5万人を超えれば成功だろう」と予想していました。それが、見た目でさえ大きくその予想を覆す人数が集まりました。主催者たちですらも驚かざるを得ないほどの、巨大なうねりだったのです。

 むろん、沖縄県や警察当局が、この実際の人数をこまかく把握していたことは当然です。ほとんど数百人の誤差ほどの正確さで、参加人数を掴んでいたといいます。それは政府首脳に報告するためです。常識的に考えて、政治の中枢にいる人たちが、この詳細な報告を受けていないはずはない。

 そして、政府首脳たちが、予想をはるかに上回るその数に驚き、「これは、捨ててはおけない」と考えたとしても不思議はありません。参院選の惨敗の後、民意の動向に異常なほどに気を使っている政府与党にとって、数は圧力となったのです。

 こう考えれば、あの人数が「たったの4万人だった」だとか「2万人説もある」などということがあり得ないのは、お分かりいただけるでしょう。ここに、政府首脳が、ほとんど一夜にして「見直し」の方針に転換する理由があったのです。 もし「たったの4万人」や「せいぜい2万人」などであったならば、「そんな人数が、沖縄県民の総意であるわけがない。無視してもかまわない」と、政府が「見直し」に舵を切ることなどなかったに違いありません。

 政府は、無視できない「実数」を突きつけられてしまったからこそ、政策の変更に踏み込もうとしているのです。だから、その方針転換こそ、実数が政府を驚愕させるほどの、きわめて大きな数字であったということを示しているのです。

歴史の書き替えとは?

 しかし、そのこととは別に、文科相ら政府首脳の言うことには、首を傾げざるを得ません。文科相以下、「沖縄県民の思いを重く受け止め、県民の方々の望む方向で善処できないかを検討したい」というような発言を繰り返しています。

 しかし「沖縄県民の望む方向で」というのは、おかしいとは思いませんか。歴史というものが、ある人々の「望む方向」で書き換えられていいとは、とても思えないのです。

 歴史を記述する教科書とは、当然のことながら、事実に基づいた研究成果を学ぶためのものであるはずです。そうであれば、歴史的事実の徹底的な実証研究を、基本としなければなりません。沖縄戦の研究は、戦後60年以上を経て、多くの人々の証言や記録を基に進められてきました。その成果によって、教科書は記述されるべきです。

 沖縄の高校生は、大会のステージ上から次のように訴えました。

 「私たちは真実を学びたい。そして、次の世代の子供たちに真実を伝えたいのです」

 「教科書から軍の関与を消さないでください。あの醜い戦争を美化しないでほしい」

 「たとえ醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい」

  その通りだと思います。

 どのような側からであれ「望む方向」での歴史の書き換えなど許されないはずです。高校生たちが呼びかけたように、真実を学び伝えていくこと、それが今回の沖縄県民たちの示した意志だったのではないでしょうか。

沖縄と日本国憲法

 最後に、沖縄と憲法についての、とても示唆的な文章を書きとめておきたいと思います。

 愛敬浩二さん(名古屋大学大学院法学研究科教授)が、『ビッグイシュー』(74号)でのインタビューで語った言葉です。以下、少し長くなりますが引用させていただきます。

 「仮に日本国憲法が沖縄に“押しつけられて”いたなら、話は別だったと思うんです。間違っちゃいけないのは、戦後に占領されたときの基地が沖縄にそのまま残っているわけではなくて、50年代に基地の拡張がなされているわけですよ。それはもう本土とは比べ物にならない状況がある。だから、なぜ沖縄の人たちが日本への復帰を望んだかというと、それは日本国憲法の下への復帰を望んだからです。9条というとりあえず軍事力を否定した憲法の下へ戻ることによって沖縄の基地を少しでも減らせるはずだという期待がありました。よく『今の憲法はアメリカから押しつけられた』っていう言い方をする人がいるけど、じゃあ日本国憲法が存在しなかった沖縄では何が起きたのか? そのことを僕は調査すべきだと思う」

 「憲法9条がありながら沖縄にあれだけの基地があるのは欺瞞だと思う。思うんだけど、それが欺瞞だからといって憲法を外しちゃったらそれが固定されてしまう。9条を使いながら少しでも状況を改善していけないかということを沖縄の人たちはやってきたと思うんです。だから僕は仮に憲法愛国主義を語ることができる地域があるとしたら、それは沖縄だろうと思います。自らの生活を守るために日本国憲法のある日本へ戻ろうという考え方です」

 沖縄の位置と、日本国憲法の関係が、とてもよく分かる文章だとは思いませんか?

(鈴木 耕)

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