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デスク日誌(23)

071003up

沖縄の11万6千人と、報道者の魂

 沖縄へ行ってきました。

 沖縄で高まる「教科書書き換え問題」に反対する大集会を、この目で確かめたかったからです。

予想をはるかに超えて

 9月28日に那覇に着きました。観光の起点、国際通りの入り口に近いホテルにチェックインし、その後、街へ出てみました。別に、街に変わった様子は見かけませんでした。しかし、なんだか騒然とした雰囲気は、確かに感じられました。

 新聞を買いました。地元の「沖縄タイムス」と「琉球新報」です。どちらも、巨大な活字で翌日の集会を伝えていました。テレビをつけてみました。ニュースはどれも、集会関係がトップでした。確かに、翌日の集会へ向けて、報道は盛り上がっていました。

 「だけど、どれぐらい集まるかねえ。5万人ぐらいいけば、成功だろうけどねえ」というのが、実際の報道関係者たちの読みだったようです。

 29日は、早めに大会会場の宜野湾市海浜公園に行きました。那覇から車で30分ほどのところです。集まり具合を、この目で確かめようと思っていました。でも、確かめる必要なんかありませんでした。

 開会は午後3時の予定。しかし、正午を過ぎたころから、続々と人の波。それは途切れることなく、やがて奔流となりました。私は、地元テレビ局の関係者と行動を共にしていました。

 「凄いです。人波が押し寄せている感じです」「これは、12年前を上回るかも知れません!」

 興奮気味のレポーターの声が聞こえてきます。開会1時間前には、もうほとんど会場は満員となっていました。入りきれない人たちは、会場に続く道端や、近くの駐車場に集まっているということです。その段階で「12年前」を超えていたのでしょう。

抑え切れぬ感情

 12年前、何があったのか

 思い出すも痛ましい事件でした。1995年の米兵による少女暴行事件がそれです。それは、凄まじいばかりの怒りとなって、沖縄全島を揺さぶりました。

 「日米地位協定」を盾に、その事件をはっきりと解決しようとしない日米両政府への怒りの結集が、95年10月の、この同じ宜野湾海浜公園での大抗議集会となったのです。

 それは、8万5千人という、沖縄の本土復帰後の最大規模の集会となりました。その人数が日米両政府への大きな圧力になったことは事実でしょう。当時の大田昌秀沖縄県知事は、それを背景に両政府に迫ることができたのです。

 それほどまでに、12年前の事件は衝撃でしたし、県民の怒りも激しいものでした。だから多分、あの怒りの結集を人数的に超えることはムリだろう、というのが、今回の集会の主催団体関係者や、各報道機関の見方だったようです。

 ところが、私はほんとうに息を飲みました。

 レポーターや記者たちも、強烈な陽射しにも関わらずその顔が蒼ざめるほどの、巨大な人々のうねりだったのです。

 結果は、集会の終わりごろに発表されました。それが、11万6千人という数字です。この宜野湾会場に11万人、宮古島の宮古郡民大会2500人、石垣島の八重山郡民大会3500人、総計11万6千人という驚異的な人数が、怒りを胸に集まってきたのです。

 むろん、労組などの動員もあったでしょう。色とりどりの旗が、会場狭しと翻っていました。けれど、動員などという理由では、とても理解できないさまざまな人たちがいたのです。

 リトルリーグの野球ユニフォーム姿の小学生たちもいれば、そろいの制服の高校生たちの一団、さらには「○○村囲碁クラブ」などという手製の旗の下に、じっと座り込んでいるおじいたち、村ぐるみの参加のおばあたちなど、ほんとうにそれは、あらゆる人々の集団でした。むろん、単独で個人で参加した人もとても多かったようです。

 それほどに、やむにやまれぬ、抑えきれぬ感情を抱えた人たちの結集だったのです。

 政府や文科省の「大衆を甘く見た態度」が、沖縄の人たちの最もセンシティブな琴線に無遠慮に触れてしまった。許せなかったのです。

 ステージで、戦争体験者(「集団自決」を生き延びた人)たちの、今まで口にしてこなかった悲惨が語られます。11万人とも思えぬ静寂、涙をこらえる人たち。ステージは続きます。

 高校生たちの、空に吸い込まれそうな訴え。それは、まさにあの戦争を自分のこと、自分たちの親や祖父母に起こった身近なこととして捉えきった若者の、自分自身の言葉でした。こんな若者たちが、いる。月並みなことしか私は言えないけれど、そこに、確かに「希望」は見えたのです。

 大会が終わり、それでもなお去り難く会場を埋め尽くしている人々に、やがて夕日が射し始めます。

 目の奥が、じんっと汗ばみました。

 私がこんな光景を見たのは、いったいどれぐらい前のことだったろうか----。

不誠実な政府の対応

 なぜ、これほど多くの人たちが、報道機関の予想さえ裏切るほどの規模で自発的に参加したのか。いったい、何がこうまで人々を駆り立てたのか。

 沖縄は、あの戦争で、日本国内では唯一「地上戦」が繰り広げられたところです。それは、全島民を巻き込む形で、20万人の死という悲惨な終末を迎えました。中でも最も悲劇的な出来事が「強制集団死(いわゆる集団自決)」だったのです。

 これまで高校の歴史教科書には、その「集団自決」について、おおむね次のように記述されていました。

 「日本軍によって壕から追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」

 「日本軍に『集団自決』を強いられたり---」

 「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」

 ところが、これらの記述に対して、2007年3月に出された高校教科書検定結果では「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現である」という理由で、「日本軍の強制」という部分を削除するよう求めたのです。文科省はシラを切り続けますが、むろん、これは文科省が指示して行わせたことに違いありません。世の右傾化に、無批判に迎合したのだと言われても仕方ないでしょう。

 当然のことながら、沖縄県民や研究者の間からは強い批判の声が上がりました。しかし、当時の伊吹文明文科相は「検定意見には、文科省の役人も私も、総理大臣でさえ一言も容喙(口出し)できない仕組みになっている」として、検定結果の変更など考えられないとの立場を明らかにしたのです。

 さらに伊吹(前)文科相は「すべての集団自決に日本軍の関与があった、というはおかしいということです」と、わけの分からない言い訳を繰り返します。

 前記のように「すべての」などという記述はどの教科書にもありません。ないものを、伊吹さんは否定して見せて言い逃れようとしたのです。ないものを、どうやって否定できるというのか。まるで答えになっていない、見当違いの文科相の発言でした。

 これに、沖縄の人たちの怒りが爆発したのです。

 「では沖縄県民は、誰からの強制も受けていないのに、勝手に集団で自殺したのか」という強烈な反発です。

 ここに至るには、さまざまな議論や応酬がありました。しかし、両者の意見の対立は、ほとんどすれ違いのまま。文科省の態度は頑なでした。どうあっても、検定の見直しには応じられない、という態度です。

 こうして、県民の怒りの頂点が、この日、宜野湾海浜公園に実現したのです。

何が住民を追いつめたのか

 確かに、さまざまな意見があります。部隊長の自決命令は、ほんとうにあったのか、それは事実と違うのではないか、と裁判さえ持ち上がっています。

 確かに、個々の事実の食い違いはあるでしょう。しかし、強制的な集団死があったことは、どう考えても事実でしょう。それは「集団自決命令が、隊長からあったか否か」という議論の次元を超えているのではないでしょうか。

 「軍民共生共死」という考え方が、日本軍が沖縄に駐留してすぐに広められたといいます。つまり「軍人と民間人は、生きるも死ぬも一緒である」ということです。それは「軍人が玉砕するときには、住民たちもともに自殺しなければならないということに帰結します。

 さらに住民には、「アメリカ軍は、女は強姦した上でなぶり殺しにし、男は八つ裂きにする。鬼畜米兵だ」と、恐ろしい勢いで刷り込んでいったのです。その上で、軍は住民たちに手榴弾を渡しています。「捕まるな、その前に死ね」という意味になるのではないでしょうか。

 これらのことが、強制的な集団死につながった、と見る研究者の意見が多数です。

 個々の事象にこだわって、全体を見通すことができなくなる。心しなければなりません。

痛苦な問いかけ

 しかし、自らを省み、沖縄の現状を憂える人たちも確かに存在します。会場でこんなビラをもらいました。

 「62年前、手榴弾を受け取って『自決』に追い込まれた。今、何かを受け取っていませんか? これ以上、沖縄を加害の島にしたくありません」

(沖縄辺野古座り込みテント村)

 ちょっとドキリとしました。

 今、基地やその他のことで、恩恵(実は手榴弾になってしまう危険な恩恵)を、実はそれと気づかずに我々は受け取っていないだろうか、という痛苦な自らへの問いかけでしょう。相手を責めるときには、自らも省みなければ。

 とても、胸うたれたビラでした。

言葉の真の意味を

 さらに、書いておかなければならない事があります。

 「集団自決」という言葉についてです。「自決」というのは、自ら決する、すなわち自分の強い意志で死を選ぶということを意味します。

 では、この沖縄住民の集団死は、自ら選び取ったものだったかどうか。それは違う。包囲され攻撃され、そこで軍民共生共死という観念と鬼畜米兵のイメージを植え付けられ、ついには強制された死を選ばざるを得なくなった。それが実態ではないか。それを「集団自決」呼ぶのは、言葉の使い方として間違っている。「強制集団死」と呼ぶべきではないか。

 それが、沖縄戦の研究者やジャーナリストたちの共通認識になりつつある、ということです。私は恥ずかしいけれど、そんなことはいままで考えたこともありませんでした。しかし、それはまったく正しい認識だと思いました。だからこの文章でも、それを意識して書き分けたつもりです。

動かざるを得なくなった政府

 11万6千人の熱気と怒りが、政府をも動かし始めたようです。10月1日になって、町村官房長官、渡海文科相、そして福田康夫首相まで、検定結果の見直し、削除された部分の復活を匂わせ始めたのです。

 中央のメディアも、もはや捨ててはおけません。一斉にこの問題についての報道を始めました。いまさら、という感はします。しかしこれもまた、あの結集の力が政府のみならずマスコミをも動かした証左です。

 むろん、文科相官僚たちの抵抗は強いでしょう。彼らは一度決めたことは決して変えようとはしません。さまざまな理屈をつけて、なんとか復活阻止を図るでしょう。

 だが一方、彼らはまた、権力の意向に恥ずかしいほど反応する種族でもあります。首相以下の政権幹部たちが、民意に屈したのを見れば、泣く泣く追随するかもしれません。

 ただ言えるのは、11万6千人という圧倒的な数の怒りが、政府を追い詰めたということです。

 もし、政府が検定結果を手直しするとしても、それは、政府が民意の正しさを理解したからでは決してない。あの参院選の大敗結果に、いまだに怯え続けている政府与党は、これ以上、沖縄の人たちの怒りを放置できなくなった、そういうことなのです。

沖縄のジャーナリストたち

 いま、沖縄の人たちは、一定程度の勝利を手にしつつあります。私は、素直にそれを喜びたいと思います。

 そしてその陰に、沖縄のジャーナリズムの果たした役割が極めて大きかったことも、報告しておきたいと思うのです。

 彼ら沖縄のジャーナリストたちの、粘り強い闘いがなければ、果たしてあれだけの人々の結集を実現できたでしょうか。

 別刷りの新聞を作り、繰り返しテレビのトップニュースで、刻々と変わる状況を伝え、特集を組み、そしてこの9月29日には、NHKを含む沖縄の全テレビ局が「特別報道番組」を会場から生中継して、参加できなかった人たちに伝えたのです。

 ほとんど見られなくなった報道者の魂を、私はこの沖縄で、確かに見た気がしたのです。

 その場に立ち会えたことを含めて、私は沖縄のジャーナリストたちと、その熱意に応えた沖縄県民のみなさんに、心から感謝したい気持ちで、沖縄を離れたのです。

(鈴木 耕)

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