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先日、靉光(あいみつ)という画家の「生誕100年記念展」を見に行ってきました。
(5月27日まで東京・千代田区竹橋の東京国立近代美術館で開催中。以下順次、宮城県美術館、広島県立美術館で巡回開催予定)
靉光は、本名・石村日郎(いしむらにちろう)、1907年に広島県に生まれ、1946年に上海で死去しました。たった38歳の生涯でした。
靉光といえば、晩年に描いた3枚の「自画像」が有名ですが、実はそうとうに多岐多彩な側面を持っている画家だということが、この展覧会では良く分かります。
いわゆる「池袋モンパルナス」と呼ばれた界隈で自らの画風を磨き、さまざまな表現に挑んだといいます。
私は実は、この靉光については、その自画像や暗い画面に沈む「静物画」くらいしか知らなかったのですが、実は日本画の影響も強く受けていたそうです。一連の花鳥の表現は吸い込まれます。しかしその日本画の影響も、デフォルメされ変化して、独特の鳥や花に変容します。
さらにシュールレアリスムの先端的部分を担っていた、ということもこの展覧会ではっきりと認識できました。
そして、彼が戦争に否応なく巻き込まれていった、その足跡をも辿ることができたのです。
最初期(わずか10歳ほどのころ)に描かれた鉛筆による素描などは、その天才ぶりに驚かされますし、中期にのめり込んだ抽象的な表現も、実は細部を具体的に細密に描ききり、その上で別個の表現に挑んでいった、という流れも理解できます。
例えば、「花園」という絵は、全体が花か何かは判然としないようにみっしりと暗く濃い色調で塗り込められていますが、その中になぜか一頭の蝶だけが、写実的に白い羽をひらめかせています。抽象と具象の考え抜かれた融合なのでしょうか。
そして、晩年に至ります。有名な3枚の「自画像」の時期です。
彼が召集を受けて中国にわたったのは、敗色濃い1944年5月です。即座に彼は南京へ送られます。37歳の新兵です。どのような苦労が、その兵役で待ち構えていたのでしょうか。
そして、1946年1月、靉光は上海で病に倒れ、兵站病院で死去します。わずか38歳。
たぶん、「もっと描かせてくれ」と、呟いたに違いありません。
この経歴だけを見ても、靉光が「抵抗の画家」と呼ばれる由縁は分かります。しかし、その画風が呼び寄せた戦争の悲劇も、彼にはまとわり付いていたのです。
彼の表現は、決して治安当局を喜ばせるようなものではなかったのです。難解で暗い、ただそれだけの理由で、彼の絵は監視対象になってしまっていたようです。
戦時下での芸術に対する弾圧は激しく、靉光の親しい友人の詩人や画家たちも治安維持法違反などの容疑で相次いで検挙され、靉光自身も所属していた美術協会を脱退せざるを得なくなるなどの状況に追い込まれました。
戦争の荒波は、決して穏やかに絵を描くことを許さなかったのです。もちろん、それは他の芸術分野にも及んでいました。文学も映画も音楽も演劇も、芸術のすべては国家の前に屈服させられたのです。
国家の意志に楯突くものには、当然のように売国奴という「名誉ある汚名」が着せられました。
しかしどんなことより、芸術家にとって辛いことは、表現することの禁止(もしくは表現を歪曲させられること)だったはずです。
靉光の絵は、暗い時代が生んだくらい絵、というだけでは捉えることなどできないでしょう。しかし、暗い時代に抗して自らの表現を追及した画家、というだけでも足りません。
しかし、これだけは言えるはずです。
戦争がなければ、あの才能はもっと別種の、もっと激しく輝かしい成果を私たちに残してくれたに違いない。彼が生きていれば描いたであろうもっと様々な可能性を、私たちは見ることができない。
反戦とか抵抗などという前に、才能を奪い表現の開花を閉ざしたことに対する怒りが、靉光の絵を前にして湧いてきました。
東京国立近代美術館は、皇居近くの北の丸公園の脇にあります。
展覧会を見終わった後、付設のオープンカフェでお茶を飲み、ゆっくりと北の丸公園の中を散歩しました。大都会の真ん中とは思えない緑の木々。5月の爽やかな風の中、あまり散歩する人も見かけません。静かです。 公園を通り抜け、あの武道館の横を過ぎると、靖国通りに出ます。私は地下鉄九段下駅から電車に乗ります。
振り返ると、そこには靖国神社の大鳥居がそびえていました。
靉光は、戦後の1946年に、上海で病没しました。これは「戦死」ではありません。とすれば、靉光は靖国神社には祀られていない、ということになるのでしょうか。
そうだよなあ、靉光は靖国神社には似合わないな。
なぜか私はそう思って、ほっとしました。
(小和田志郎)
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